【アサウラ先生がまた書き下ろした「ベン・トー」特別編! なんと豪華2本立て!!】
● 読み切り 『名も無き狼たち』
 彼は《狼》と呼ばれる存在だった。
 狼とは、スーパーの閉店間際に神の恵みがごとく総菜等に半額シールが降臨する時間――半値印証時刻(ハーフプライスラベリングタイム)に己の全てを懸け、並みいるライバルたちと拳を交えて半額弁当を奪取する誇り高き者たちである。
 今宵もまた、彼はスーパーを訪れる。
 たった自動ドア一枚を越えるだけで、外の高い湿気と気温から解放された。汗ばんでいた肌が冷えた空気に引き締まる。
 彼はさも何となくスーパーに訪れた客であるかのように、己のチャームポイント坊主頭を掻きつつ特売品と書かれたポップに目を向けたりする。
 坊主の彼は極めて自然に店内を歩み行き、総菜・弁当コーナーへ向かった。
 残されていた幾つかの総菜、そして弁当……彼は四つある弁当の中からで『脂のり海苔紅鮭弁当』というダジャレた鮭弁当を夕食にしようと決めた。
 皮に焦げ目のついた色鮮やかな鮭の切り身、ご飯の上を覆う大きな海苔……まさに鮭弁と海苔弁の一粒で二度美味しい夢のコラボと言えた。だがそれ以上に彼を惹き付けたのは弁当名だ。店員のお遊び≠ェ入っている弁当は高確率で美味いという通説があるのだった。
 坊主はその場に立ち止まることなく、歩み去る。まだ、貼られているシールは三割引のそれだ。狼が駆ける時ではない。
「よう」
 彼はスーパーの一角にいた顎髭を生やした男に声をかけ、その横に並んで立つ。
 顎髭は「おう」と声を発しただけで坊主の方をチラリともせず、目前の冷凍食品コーナーに陳列されているチキンナゲット(今週のお買い得品)の袋を見ていた。
 彼もそれに倣うように、視線をチキンナゲットに向けた。
 内容量500グラム(25個)で、値段は298円。ドリンク等でも同じことが言えるが、ファストフードのそれとは雲泥の差の価格である。
 不意に、顎髭が口を開く。
「……のり海苔か?」
「あぁ、のり海苔だ」
「だと思ったぜ」
「今日は敵だな」
 男たちはフッと口元だけで小さく笑った。
 普段、坊主と顎髭の二人は共闘することが多く、周りの人間からはコンビと見られることも多かった。だが、実際には半額弁当争奪戦に参戦しはじめたのが同時期であったということと、ただ互いにどこか似ていて、気が合い、何となく一緒にいることが多い、というだけだ。共闘することもあれば敵対することもしばしばだった。
 おまけに、坊主は顎髭の名すら知らない。向こうとて同じだろう。
 一応、二人とも同じ烏田高校の生徒であることは間違いないが、校舎内で喋ったことはほとんどない。廊下ですれ違いざまに目配せ、または「よう」と声をかけ合うだけだった。プライベートな時間に馴れ合いをするようなウェットな関係ではない。極端な表現を使えば、戦友とだけ呼べる間柄だった。
 坊主は何かの行事の際に顎髭の名を見たこともあったが、それとてすぐに忘れた。彼らにとって、そしてこのスーパーという場において、親等が生まれたばかりの赤子につけた名など、何の意味も持ちはしないからだ。
 狼と呼ばれる者たちにとって意味のある名というのは、特別な強さ、個性を有する者、そういった狼たちの間で噂されるような特出した者≠ノだけ自然とつく、その者を表す真の名前――二つ名≠セけだった。
「ふーん……あんたたちもか」
 女性の声がした。坊主はその声の主をチラリと見る。茶髪の、胸元だけが際立ってふくよかな女子高生だ。彼女は坊主と顎髭に背を向けるような形で、冷凍食品コーナーの対面の棚を見る。
「ということは、お前もか」
 坊主が尋ねた。
「まぁ、第一候補にはさせてもらったわ」
 彼女もまた烏田高校の生徒であり、顎髭たちと同時期に争奪戦に参加しはじめた一人だった。住んでいる場所も近いのか、同じスーパーで出くわすことがかなり多く、昔は彼女も含めて三人で新人トリオと周りから見られていた時期もあった。
 無論、坊主は彼女の名も知らない。しかし、もう幾ばくもせずに彼女の名を知る時が来るかもしれないと彼は予感している。
 先日の、隣街の《帝王》と呼ばれる男の主導による歴史的な大規模侵攻作戦が展開された際、彼女は並みいる強敵を打ち倒し、半額弁当を手にした数少ない一人だった。
 元々特出した経歴がないというだけで、経験も実力もある一人だ。もはや二つ名がつくのは時間の問題だろう。
 自分と交友の深い人間に二つ名が付く……それは喜ばしくもあったが、同時に嫉妬めいた苦い気持ちがないわけではなかった。
 おまけに顎髭もまた、先の侵攻作戦の際に茶髪に遅れは取ったものの、最終的には死に物ぐるいになって弁当を奪取している。あの時、三人の中で坊主だけが、弁当を奪取することができなかった。
 嫉妬というよりは、焦燥感と寂しさなのかもしれないな、と坊主は思う。二つ名が欲しいというのは間違いないが、それ以上に自分だけが出遅れている。そんな気がした。
――その時、ピンッと店内の空気が張る。
 反射的に坊主の顔が引き締まり、視線がエントランス方向に向く。丁度、入店してくる二つの影。烏田高校の制服、黒いストッキングにハードなブーツという妙な組み合わせの女と、同じく烏田高校の制服を着た男……このスーパーを縄張りとする狼――《氷結の魔女》と、その後輩の男だった。二人は生鮮食品コーナー経由で弁当コーナーへ向かっていった。
 後輩の――坊主たちはワン公やワンコと呼んでいる――男はともかく、《氷結の魔女》はこの辺り一帯のスーパーでは名の通った強者だ。
「……荒れるな」
 顎髭の呟きに、茶髪は「そうね」と短く応じて胸の下で緩く腕を組む。彼女が気を落ち着けるためにするちょっとしたクセのような行為だが、それによってただでさえ自己主張の強い彼女の胸元がより一層強調されるのだった。
 それは昔、男の狼たちの集中力を下げるための精神攻撃の類ではないかと皆が真剣に議論するほど見事なものだ。
「ねぇ、知ってる? 最近、あのワンコにも二つ名がつきはじめているって」
「……マジか?」
 潜在的な実力を有している気配はあったが、あの男は数ヶ月前に初めて争奪戦を経験した新参だ。それでもう……いや、しかし、と坊主は考える。
 彼は新人にしながらにして二つ名を持つ狼たちと対等以上にやりあってきている。それを考えると確かに、おかしくはない。
「……ッチ」
 舌打ちが聞こえた。坊主のではない、顎髭のだった。同じ気持ちなのだろう。
 坊主はそんな彼を見ていると、不思議と冷静な自分を取り戻す。自分と似た男が横にいることで、自分自身を客観視できた。
「落ち着け。オレたちは別に二つ名が欲しくてここにいるんじゃない。余計なことに気を向けていては本来の実力が発揮できなくなるぞ」
 坊主は言いつつ、胸の内で自嘲する。顎髭に告げた言葉はまさに今の自分、三人の中で一番二つ名から遠い自分自身に向けた言葉だった。
「えぇ、そうね。私たちがここにいるのは……ただ、半額弁当のため、最高の晩餐のため。それだけよ」
 顎髭は気持ちを切り替えるためか、頭を軽く振る。
「そうだな、確かにお前たちの言う通りだ」
「それにすぐに私たちにだってチャンスは回ってくるわ。……もう、夏なのよ」
「……あの日≠ゥ」
 具体的に言うまでもない日だった。夏が来れば狼たちが自然と意識してしまう日が、もうすぐやってくる。
 そう、土用の丑の日である。
 その日は当然のようにうなぎが弁当コーナーを席巻するのだが、そういったイベント的な日には普段は出ないような特別な弁当が店頭に並ぶことが多い。それを手にすれば、狼たちの間で噂になることは間違いなかった。
 実例からいえば、昨年、とあるうなぎ弁当を奪取したことが、かの《氷結の魔女》の名を世間に知らしめるきっかけとなった。それまでは一部にしか知られていない名だったのだ。
 あの時、《氷結の魔女》が弁当を奪取した瞬間……そこには坊主も顎髭も茶髪もいた。特に坊主はあの時、最後まで彼女と拳を交えていた一人であり、即ち最も弁当に近かった一人だった。
「……今年こそは、必ず手に入れてやるさ」
 思わず坊主は、そう一言漏らす。ポンっと肩に手を置かれる。
「あぁ、もちろんだ。今年こそは、やってやろうぜ」
「えぇ、何が何でもね」
 坊主は思い出す。
 昨年の敗北の夜、三人は一緒に夕食を口にした。もちろん半額弁当ではなくカップ麺だ。それはそれでうまかったが、納得できるものではなかった。
 あの時もまた、今のように来年こそは、次こそは、と三人で言いあっていた。
 それから約一年……自分たちは強くなった。特に茶髪と顎髭の二人は。
 変わっていくものがある。だが、変わらないものもある。
 自分たちの関係は何も変わっていない。焦燥感も寂しさも憶える必要なんてない。坊主は思う。二つ名の有無が、自分たちの関係に何を及ぼすというのか。
 仲間であって敵でもある、そんな戦友の関係に二つ名は何の関係もない。せいぜい、そいつを呼びやすくなるだけだ。
 バタンと音がし、スタッフルームから紫色のジャンパーを羽織った初老の店員が現れ、一礼する。彼こそ、弁当を半額にする権限を持つ店員――半額神である。
 彼が現れたことで店内の空気がより一層張り詰めていく。
 何度経験しても、この瞬間のぞくぞくする感じは坊主の心を震わせた。空腹な胃袋に、全身の産毛が逆立つような緊張感がたまらない。
「まぁしかし、まずは今夜の晩餐が最優先だ」
 坊主はそう言いつつ穏やかな笑みを浮かべる。二人は「そうだな」「そうね」と続けて言い、笑みを浮かべあう。
 半額神が総菜の数々に半額シールを素早く貼り終えると、弁当コーナーに身を移す。そこに並ぶ四つの弁当を美しく陳列しなおす。
 そして……ついに半額シールが、人々の前に降臨する。
 際限なく高まりゆく緊張感。うずく腹の虫。店内を満たす殺気にも似た闘志……。
 坊主は両手を硬く握りしめ、戦闘に備える。やや軽めに股を開き、初動の踏ん張りのために靴裏を床にしっかりと密着させる。
 そして、半額神が全ての弁当に半額シールを貼り終え、スタッフルームへ向かう。彼は一度振り返って店内を見渡し、一礼し、扉の向こうへと姿を消した。
 その扉が音を立てて締まった時、狼たちの靴音が響き渡る。
 店内にいた全ての狼たちが弁当コーナーに駆け出す。茶髪と顎髭が、早い。坊主は二人の背を見ながら駆ける。
 だがそんな二人よりも早く弁当コーナー前に現れたのは《氷結の魔女》と幾人かの狼たち。そこで瞬時に魔女を中心として激しい攻防が展開する。
 坊主が一言発する。
「さぁ、やってやろうぜ!」
 名も無き狼は戦友たちと共に、激しい乱戦の中へと突入していくのだった。


 <了>
● 読み切り 『白粉花の週末』
 地下室へ続く階段というのはどこも似たようなものだ。狭く、薄暗く、そしてどこか陰気である。
 その階段も例に漏れない作りだった。細身のサイトウでさえこうして荷物を持っていると肘をぶつけそうになる。あの人が行き来する場合は大変だろう。
 降りゆくにしたがい、かすかに声が聞こえてくる。んぅ、んぅ、んぅ、と一定のリズムを刻む声……というよりは吐息である。
 サイトウは階段の先に佇む扉のノブを回し、押し開けた。
 地下室はそれまでの階段同様、薄暗い。小さな照明が天井に取り付けられているものの、その光は部屋の隅々にまで行き届いておらず、どの程度の広さがあるのか、その部屋に何があるのか、よくわからなかった。
 ただ闇の中でかすかに照明を反射するものがある。無数のトレーニングマシーンの金属部だ。
 それらに囲まれるようにして、もう一つ照明を反射するものが、部屋の中央にあった。
「……来たか、サイトウ」
 そう声を掛けてきたのは、サイトウの先輩であるガントウだ。人には、そのたくましいボディから筋肉刑事(マッスルデカ)と呼ばれる男である。
 彼は部屋の中央で、上半身を晒しながら片手腕立て伏せをしているのだが、発した声は普段のそれと何一つ差はない平然としたものだった。
 ガントウは左腕の屈伸を繰り返す。それは三秒程をかけてのゆっくりとした、しかし決して乱れることのない芸術的な運動であった。その肌にまとった汗の一粒一粒さえ、神秘的な魅力を見る者に感じさせた。
 上下する体、隆起する筋肉、流れる汗……それらは複雑な動きでもって光を反射する。まさに筋肉刑事の名に相応しいボディだ。
 確かガントウは今年で四〇も半ばになるはずだが、肌の具合は相変わらず一〇代のように張りがあって、瑞々しい。
 サイトウはガントウの肉体を見つめながら、両手に抱えた荷物を下ろす。
「卵二〇個、豆乳と野菜ジュースがそれぞれ三リットル、国産の大豆が一キロに鶏ササミが二キロ……それでOKですね? 仕事のついでとはいえ、まったく、人使いが荒いんですから」
「悪いな」
 それからもガントウはしばし無言のまま腕立てを繰り返す。時折ぴちゃん、と滴が垂れる音がする。目を凝らせばガントウの顎先から汗が垂れ、床に広がる水たまり……いや、汗たまりに落ちて音を立てていた。
 かなりの量の汗だ。一体どれほどの回数を繰り返したのか、サイトウには想像がつかなかった。
 サイトウは締めていたネクタイを外し、スーツのポケットにねじり込む。
 トレーニングのためにやや高めの室温設定にしているのだろう。ちょっとしたサウナのように暑く、湿度も高い。
 人肌ぐらいか、とサイトウが考えた時、ふと、いらぬ妄想が頭を過ぎる。落ち着けようと深呼吸するものの、鼻先をつく香りに余計に妄想が強くなるだけだった。
 ――この部屋にいると、まるでガントウ刑事に抱かれているようだ。
 人肌程度の室温、充満するガントウの汗の香り……。それらが相まってそんなことをイメージさせる。半裸で、並々ならぬ筋肉を晒しているガントウを見ているせいもあるのだろう。
 張りに張ったあの人の腕で思い切り抱かれたら、どれほど凄いのだろう……そんなふうに考えてしまう。
「待たせたな。仕事の話といこう。……悪いが、そこのタオルを取ってくれないか」
 ガントウはようやく、床から手を離し、立ち上がった。体についていた汗が、筋肉同士によってできた溝を流れ落ちていく。その様はまるで絶景の谷を流れる清流のようだ。
 サイトウ、と自分の名を呼ばれ、慌てて脇に掛けられていたタオルを手に取り、ガントウに投げ渡す。思わず見とれてしまっていた。
 タオルがガントウの体に触れ、汗を吸い取っていく。それが何とも勿体なくサイトウには思われた。
「ヨネダたちが担当している事件、知っているな? ……そうだ、連続している深夜の女子高生ばかりを狙ったあの事件だ。あまりにも件数が増えすぎてマスコミが騒ぎ始めた。課長からのお達しでおれたちも動けとさ。
 ただ、ヨネダたちが動いてもどうにもならない事件に、おれたちが加わったところでどうにもならないだろう。……そこで、秘密兵器の登場だ」
 ガントウは部屋の隅に取り付けられていたコンソールを叩く。バシュっと音がしてスポットライトが一つ点灯する。
 明かりの先には、鞄や靴、そしてハンガーに掛けられた女子高生の制服一式である。
「……これは……?」
「おとり捜査を執り行う。サイズを見わかると思うが、おれのじゃない。……お前のだ」
「……ぼ、僕ですか!? そんな、できるわけが……!!」
「大丈夫だ。お前になら出来る。……とりあえず着替えてみろ。サイズは間違いないはずだが、女物だからな。どこかで不具合が出るかもしれん」
 サイトウの反応を待たずに、ガントウはハンガーからさっさとその制服を手に取る。嫌だ、と言える空気ではなかった。
「わかりました。それじゃ……上で着替えてきます」
「待て、サイトウ。別に男同士、恥ずかしがるものでもないだろう。何よりお前、着かたがわかるのか? ほら、さっさと服を脱ぐんだ」
 当然といえば当然だが、スカートなど生まれてこの方、はいたことなどない。確かによくわからなかった。
 少し気恥ずかしさを感じつつも、サイトウはスーツを脱いでいく。
「スカートは……もう少し短い方がいいかもな。折角のお前の綺麗な大腿四頭筋が隠れてしまっては魅力が半減だ」
 そう言ってガントウは、ズボンを脱いだサイトウの太ももに手を置き、ゆっくりと――



 ポコン♪ と音がして、ノートパソコンのモニターの隅に小さなウィンドウが開く。白粉花は、執筆に集中していたこともありビクッと驚いた。
 開いたウィンドウは、友人の白梅梅からのビデオチャットの申し込みであり、一文が添付されていた。
〈コメント:こんばんは。白梅です。夜分遅く、すみません。今お時間大丈夫ですか?〉
 ん? こんな時間? と白粉はテレビの前に置いてある目覚まし時計を見る。現在深夜一時。女子寮の自室に戻ってきたの二二時頃だったので、三時間が経っていた。執筆に集中していたせいか、彼女の中ではまだ一時間ぐらいの感じだった。
 ありゃ、と思いつつ、白粉はワープロソフトを一旦閉じ、ビデオチャットの申し込みを受諾する。夜中のビデオチャットは二人にとっては日課のようなものだった。
 新しいウィンドウが開く。そこには黒く艶やかなストレートロングの髪の少女が映る。白梅だ。
 彼女はいつものようにちょっとした世間話をした後、しばらく見つめてきて、そういえば……と口にした。
「白粉さん、最近少し髪が伸びてきましたね。……どうです? いっそ、そのまま伸ばしたりしてみては?」
「え? えぁっと……でも、多分、あたしの髪、梅ちゃんみたいに綺麗じゃないから……伸ばしても何か、似合わないんじゃないかな」
 そんなことないですよ、と白梅は優しく微笑んだ。
 その後も白梅と話し続けたものの、彼女に言われたことが白粉は気になり前髪を指先でいじっていた。確かに、少し伸びている。
 今週末にでも地元に帰って切ってこようかな。ついでだし、実家に一泊しよう。アロエにも会いたいし。
 白粉はそう思い決め、ビデオチャットが終わると主夫をやっている父親にメールを送り、その日は眠りについた。
 ちなみにアロエとは、実家で飼っているニューファンドランドという熊のように真っ黒な超大型犬である。現在四歳だが依然成長中だ。……主に胴回りのみだが。


 苦手な電車とバスを乗り継いで数十分。
 住宅街にある二階建ての、ちょっと大きな家。それが白粉の実家だった。
「ただいまぁ」
 扉を開ければ家の奥から主夫の父親が現れ、出迎えてくれる。そしてドタドタドタと家を揺らしながら賑やかに、そして千切れんばかりに尻尾を振ってアロエが走り寄ってきて、そのままの勢いで飛びかかってきた。
 白粉は転倒するも、笑いながらアロエに手を伸ばし、わしゃわしゃと、アロエの左右の垂れた耳の部分を両手で揉む。アロエは「ゥオゥ〜」と気持ちよさそうに声を漏らした。
「今、良い物あげるからね。ちょっと待って」
 白粉はお土産を鞄から取り出した。途中、ペットショップで買ってきた真空パックに入っている鶏ささみで、人間である白粉でさえおいしそうだなと思える品物だ。
 アロエはグルメなので安物は口に入れようともしない。だから498円もはたいて手に入れた一品だった。昨夜の白粉の夕食は240円の半額弁当であることを考えると、なかなかの出費である。
 レトルトのパックを開けると、犬用とはいえかなり良い匂いが感じられる。さすがに498円は伊達じゃない。
 嗅覚の良いアロエならきっとたまらないはず。10センチほどの物でしかないが、きっと満足してくれるはず。白粉はアロエの鼻先にそれを持っていく。それを是非ともゆっくり味わって食べてもらうために彼女は――
――バクッ。ごくん。
「……えっ?」
 約500円が、魔法のように、一秒で消え失せた。
 アロエは口の周りを長い舌で舐め回すと、次は? 次は? と期待した目で白粉を見上げてくる。
「……えぁっと、あの、ごめんね、もうないんだ。アロエにはちょっと、小さかったかな……。うん。もっと大きいのを買ってくるべきだったね。でもこれでもあたしの二食分ぐらいの値段なんだよ。えぁっと……なんか、ごめんね……」
 アロエの体重はすでに70キロを上回っており、実際、白粉よりもずっと重く、大きかった。それを踏まえればささみ一本というお土産など、一口で終わってしまうのは当然である。
 アロエは白粉の表情を見ておやつがもうないことを察すると、今度は玄関に置いてある散歩用の綱をくわえて白粉の前に持ってくる。
 まだ鞄すら下ろしていない白粉の前に綱をポトンと落とす。続けて「ゥオウ、ウォンウォン」と、「ホラ行くぞ、早く行くぞ、もたもたするな!」というようにに吠え立ててくる。さらに興奮が臨界点を越えたのか、再度綱を口にくわえてそれを思いっきり振り回す。
 大型犬用の太い綱に、大きな金具がついており、それが鞭のように白粉を襲った。
「痛い痛い、痛いから、ちょ、ちょっと、アロエ……!」
 おやつを出せ、散歩に行くぞ、もたもたするな……と、昔から一部の愛犬家たちの間で流行してしまっている問題が白粉家にも同様にして存在する。お犬様による絶対君主制である。
 実家に帰省して早々、引きずられるようにして白粉はアロエと共に家を出る。
 帰ってくるのはいつになるのだろう。白粉にはわからなかった。散歩の主導権を握っているのは常にアロエの方なのだ。


「それじゃあいつもと同じでいいんだね?」
「……は、はい、お願いします」
「よし、じゃまずは……と」
 二時間に及ぶ散歩の末――途中で疲れたアロエが路上に座り込んだりしたものの――無事に帰ってきた白粉は、今回の帰省、最大の目的の場所を訪れていた。
 そう、『ビューティサロン・内藤』である。
 昔から自分の髪を切る時はここと決めている。単にこのお店が好きだということもあるが、何よりも他では緊張して一人でお店に入れないせいだった。
 『ビューティサロン・内藤』は傍目からは町の小さな美容院なのだが、普通とは違うことがいくつかある。最も特徴的なのはそこの店長であるカリスマ美容師・内藤はとてもたくましい男だ、ということだった。彼の肉体はピチピチのシャツ越しに見てもとても美しい。
 鏡越しにハサミを素早く動かす内藤の体を白粉は注視する。彼女は、彼のその筋肉よる凹凸を使ってあみだくじをするのが子供の頃からの夢だった。あの盛り上がった筋肉と筋肉の間の、凹んだ部分に指を這わせ、首筋から足首まですーっと……考えるに興奮する。
「よし、次はシャンプーするよ〜」
 白粉にとってもっとも楽しい時間の始まりだった。内藤の太い指先が地肌をマッサージするように揉む。それだけでも興奮できるのに、彼の長い指毛と自分の髪の毛が絡んでいるイメージを頭に浮かべると、さらに形容しようのない高揚感がわいてくる。
 グワシグワシと力強いウォッシュに、白粉の首も動く。たまらない。思わず声が出そうになるが、そればかりはさすがに堪える。
 小さい頃から母親よりも父親に髪を洗ってもらうのを彼女は好んだ。力強く、多少乱暴なぐらいにやってくれるのが大好きだった。
「痒いところとかないかな〜?」
「あ、えぁっと……なぃ……あ、ぜ、全体的にもう少し……お願いします」
「よしきた」
 普段は控えめな白粉ではあるが、この時だけは精一杯の勇気を振り絞って言うのだった。
 彼女の至福の時間は、もう少しだけ続いた。


 夕食後、自室で執筆作業に打ち込んでいると、部屋の扉がカッシャカッシャと鳴る。アロエが「開けろ」と扉を引っ掻いているのだ。普段、アロエはお手≠竍おかわり≠ネどの芸を一切しないくせに、こういう時だけは前足をよく使った。
「どしたの?」
 扉を開けると、さも当然のようにアロエは室内に入ってきてベッドの上に飛び乗った。
「あ、久しぶりだから遊びたいのかな?」
 白粉はアロエをなで始めるのだが、向こうはどこか素っ気ない。白粉のことなどどうでもいいというように、ベッドで寝始めてしまう。
 首を捻りつつ、仕方なく白粉は仕方なくパソコンの前に戻った。とはいえ、集中力が途切れてしまったので、一度作業から離れ、ネットに接続する。
 行く先は一つだ。佐藤たちはもちろん、ライトノベル研究部の部員たちにも、白梅にさえ教えていない……冷やかしを防ぐために検索などでも引っかからないようにしてある白粉花の秘密のホームページである。
 『The novel of Four o'clock』と名付けられたそのホームページには、これまで白粉が書いてきた小説が展示してあり、いつでも読むことができる。
 それこそ中学生の頃の、陸上部員たちの切なくも甘い日々を描いた青春小説『脱ぎ捨てられたジャージ』シリーズから、美しい肉体を有するベテランと新人刑事のコンビが難事件を体当たりで解決していく最新のハードボイルド・マッスル・アクション『筋肉刑事』シリーズまでほぼ全てである。
 白粉は管理ページに飛び、アクセス数をチェック。一日辺りの来客数は100程度、総数はもうすぐ10万に達する。開設から三年程度だが固定ファンが多く、安定した伸びを記録している。
 掲示板には頻繁に感想が書き込まれ、白粉にはこれが何よりのやる気の源となった。
 最近の傾向としてはやはり筋肉刑事のものが多く、サトウ≠フ人気が高い。本来サイトウという名のキャラなのだが、何故か毎回物語の終盤になるとサイトウとあるべき名がサトウとなって掲載されており、ファンの間ではサトウと呼ばないのはにわかファンである、といような不思議な風潮まである始末だった。
「えへへ……」
 そんな感想を見ながら白粉は溶けたアイスのような顔で笑う。
 自分の小説を読んでくれて、しかも面白いと言ってくれること自体も嬉しいが、それ以上に自分と同じ趣向を持った人たちがいる……それを感じられるのが何よりも嬉しい。
 自分は一人じゃない、大丈夫、そう見知らぬ誰かから励まされるような、そんな気がするのだ。
「よっし、やるぞ〜」
 気合いを充電した白粉は再びワープロソフトを立ち上げ、軽快にキーボードを叩き始めた。

 ……それから数時間、深夜三時過ぎ。さすがに眠くなってきた。
 白粉は椅子に座ったまま大きく伸びをした。肩と背骨の辺りからポキポキっと音がする。
 最近、彼女はこういう時に先輩の槍水仙を思い出すようになっていた。より正確に言うなら槍水の、黒いストッキングを履いた足を、だ。
 前屈みで作業し続けた後、彼女の足で背中を踏んでもらうのが最高に気持ち良い。数ヶ月ほど前から時折踏んでもらうようになり、最近はプロレス技のようなものもかけてもらえるようになった。背骨が反ってそれはそれで気持ちが良いのだが、あくまで骨に対してなので、筋肉は凝り固まったまま。そうなるとやっぱり踏んでもらうのが一番だ。
 あの足で踏んで欲しいなぁ、そう思いながら白粉はベッドに横になろうとするのだが……あることに気が付く。
 ベッドの上では、未だ我が物顔でアロエがドデッと横になって、いびきを立てているのである。
「あ、あれ? えぇ〜……? ちょ、ちょっと、アロエ、どいてよ〜」
 そう言って寝ているアロエの体を揺さぶるのだが、一向に起きる気配がない。日中に散歩にいきすぎたのかもしれない。
 さらに揺らし続けていると、アロエが初めて反応を示す。
 「ウ゛ゥ〜……」と、唸ったのだ。
「……うぅ……そんな」
 今の唸りは「ここはどかない」という意味ではなく、「眠っているんだから邪魔するな」というものだということはわかったのだが……何の慰めにもならない。
 ベッドは当然シングル。そこに超大型犬(デブ)が四つの足を投げ出して寝ていれば、いくら体格の小さい白粉とはいえ横になれるだけのスペースはない。
「……うぅ……しょうがない、もう少し書こうかな……」
 しばらくすればきっとアロエも起きて場所を変えてくれるだろう。そう期待しつつ白粉はまたパソコンに向かう。
「この先はサト……サイトウさんをまず脱がして……いや、ここは脱がす≠謔閧焉A自ら脱がせさせられる≠ニいうことにしてより一層の恥辱を……よしっ」
 この時白粉は知らなかった。最近、彼女の部屋のベッドがアロエのお気に入りの寝床になったことを……。
 カタカタカタと軽快なキーボードを叩く音に、アロエのいびきが混ざる。

 その日、白粉は床で寝た。


 <了>