「コインランドリーの受難」
 人が人らしくあるために、必要なものとはなんだろうか?
 たとえば……そう、基本的なところで衣食住だ。
 そもそもごはんを食べなければ人は飢えて死んでしまうし、文明的な生活に住居と衣服は欠かせない。
 だがしかし、だ。
 ごはんは作っても食べればなくなるし、家は住み続ければ壊れていく、そして服は着たら汚れるのだ。
 いきなり哲学的な問題などぶち上げてみたりしたが、つまりは何が言いたいかというと――
「触っちゃだめー!」
 カゴに手を伸ばそうとした俺を、鋭い声が制止した。
「空ちゃん、どうしたの?」
「い、今すぐそこから離れて!」 
 いぜんとして、空ちゃんは鋭い口調で俺の一挙手一投足に注意をはらいながらふたたび制止した。
 空ちゃんというのは、つい最近、俺と同居することになった14歳の美少女だ。
 なぜそうなったのかという話は、長くなるのでここでは割愛する。
 ただまあ、今、この俺を噛みつかんばかりに顔を真っ赤にして睨んでいるのが、俺の新しい家族のひとりだということだけ、理解してくれればいい。
「で、でも……」
「でもじゃないですっ! すぐに離れなさーいっ!」
 彼女が俺を遠ざけようとしているのは、我が家の狭いユニットバスの隅に置かれたカゴだ。いわゆる洗濯カゴ。汚れ物の集積地だ。
 俺たちの住んでいる家賃五万共益費込みという、格安物件には洗濯機を置くスペースなんてものは存在しない。
 あったとしても貧乏大学生には洗濯機を買うお金が無いという話もあるが。
 そこで洗濯は週に一回、ないしは二回のコインランドリーですませている。
 空ちゃんたちが我が家にやってきて三日目の今日、そろそろたまった洗濯物を一気に片付けようかと思った矢先にこのダメだし。
「え……でも、いい加減、洗濯に行かないと」
「いいの! 自分たちの分はあとで洗濯するから!」
「一回で洗った方が楽だし、お金もかからないよ」
 空ちゃんは「ウッ……」と言葉に詰まる。
 我が家の緊迫した財政状態を理解するしっかりのの長女は、しばし逡巡し……
 やがて、何かを覚悟したような顔で口を開く。
「分かった。じゃあ……」
 
 一番近いコインランドリーはアパートから歩いて5分という場所にある。
 大学に近いこともあって、利用するのは大学の男子寮に住む1年生ばかり。
 長年、寮生たちの洗濯事情を支えてきた由緒正しいコインランドリーだ。
 そんな場所に上から14歳、10歳、3歳と、三人の女の子がいる光景はある種異様なものだった。先客のよれよれジャージを着た学生が生乾きの洗濯物を抱えて慌てて逃げ出していくほどに。
「へー、これがコインランドリーですかー。すごーい、ほんとに洗濯機がいっぱーい」
 物珍しそうに周囲を見回すのは、ジュニアアイドルも裸足で逃げ出す金髪ツインテールの美少女である。次女の美羽ちゃんの視線からパンツを隠すようにして、見知らぬ大学生が走り去っていく。なんか……ごめん。
「ぐるぐるまーってるー。ぐーるぐーる、あははは!」
 ひなはドラム式の大型乾燥機の中で飛んだり跳ねたりする洗濯物に大興奮だった。
 3歳の保育園児に取っては、ここは珍しい遊具がある場所でしかないらしい。
「一応ここ、他の人も利用するんだから、もうちょっと静かに……ね?」
 はしゃいでいた二人は「はーい」と大変良い返事をする。
 はからずも、すでにひとりの客を居心地の悪さで追い出してしまっているんだが、まあ不慮の事故だ。
「ねえ、これどうやって使うの?」
 空ちゃんがコイン式の洗濯機を前に難しい顔をする。
「ここに二百円入れると勝手に動き出すから」
「へー」
 そう呟いて、空ちゃんはさっそく百円玉を投入していく。
「ちょ、ちょっと待った!」
 一足遅く、洗濯機の中に水が流れ出す。
「え? ええ!? 動きだしちゃった!」
「だから勝手に動き出すって言っただろ! ええい、とにかく洗濯物放り込んでっ」
 俺たちは慌てて洗濯物を放り込んでいく。そして最後に液体洗剤をひとふり。
 あっという間に洗濯槽は洗濯物と水でいっぱいになっていた。
「ふー、これで後は待つだけだ」
 蓋をしめ、やれやれと溜息。
「どのくらいで終るの?」
「二十分ちょっと。ほら、そこに残り時間が出てる」
 空ちゃんは、興味深そうに乱暴な音を立てて揺れる洗濯機を眺める。
「ねえ、おいたん! こえこえ!」
 袖をぐいぐいと引っ張って、ひながしきりに乾燥機を指差す。
「ひなも、ぐるぐるーってしたい!」
「乾燥機は使わないよ。家帰ってベランダに干すんだから」
「ちがうのちがうのー」
 ひなはぶんぶんと首を振りたくる。
 すると、美羽ちゃんが説明してくれた。
「ちがうんです。ひな、この中に入りたいらしいです」
「いや、そりゃもっとダメだって」
 気持ちは分からないでもないが、そんなことをしたら乾燥機が壊れるどころかひながしおしおの乾物になってしまう。
 そんなような危険を三歳児になるだけ分かりやすく解いてあげた。
「……はぁ、分かったよ。ひなが入るのはダメだけど、今日は乾燥機を使ってみるか?」
 ぷーっと、頬を膨らませてひなはまだ納得していないと全身で抗議。
 交渉材料として、それだけでは足りないということらしい。
「よし、それじゃコンビニでアイスも買おう。これでどうだ?」
 すると、ひなは途端に顔を輝かせる。
「あいす! ひな、あずきのやつ!」
「はいはい。分かった分かった」
 
 それから二十分後。
 ピーッと、なんともけたたましい音がして洗濯が完了する。
 洗い立ての洗濯物を約束通り乾燥機の中に放り込むと、ひなに百円玉を渡して自分で始動させてやる。
 回り出したドラムを見て、ひなは大喜び。
 乾燥機のガラス窓にへばりついて目を輝かせていた。
 が、それもしばらくのことただひたすら回るだけの光景に飽きたのか。
「ねえたん、おしっこ」
「ええ!? おしっこ!? が、我慢できないの?」
 空ちゃんが聞くと、ひなはこっくりとうなずく。
「叔父さん、ここ、お手洗いは?」
「ない。でも、隣のコンビニに行って来ればいいよ」
 それを聞いた空ちゃんが、さっそくひなを抱えてコンビニへ走る。
 俺は残った美羽ちゃんに、
「そうだ。お金渡すからついでにアイスも買ってくるといいよ」
 終るまでひたすら待つのもかわいそうだろう。
 案の定、美羽ちゃんは千円札を受け取ると、嬉しそうに二人の後を追う。
 残ったのは俺一人。
 先客が置きっぱなしにしていった漫画雑誌などをパラパラめくりながら時間を潰していると、これまたけたたましい音が鳴って乾燥機が停止した。
「あれ? まだ時間残ってるよな……」
 確認してみると、どうやら蓋がきちんと閉まってなかったらしい。
 蓋を閉め直すついでに、ほぐしておこうと手を突っ込んで洗濯物を引っ張り出す。
 袖の絡まった洗濯物をほどいて、シワになりそうなシャツを伸ばしてまた戻す。
 そんなことをしていると、ふと見慣れない小さな布きれに目がとまった。
「こ、これは……!?」
 ひとり暮らしの男の部屋には絶対にあるはずのないもの。
 薄く小さな三角形の布を二つ組み合わせた、世間一般的にはブラジャーと呼ばれる代物だ。
 空ちゃんのものだろうか、ほんのり暖かくてまだ生乾き。
 しかし、なんだろうかこの背徳感というか罪悪感は。
 ただ俺は、洗濯物が痛まないようにしたいだけなのだ。
 そう、何もやましいことなんてない。
 このまま何事もなかったかのように乾燥機の中に戻してしまえばいい。
「な……なにやってるの」
 と、背後から聞こえた声にビクリとした。
 振り返ると、そこには……
「そ、空ちゃん……!?」
「ああっ!?」
 空ちゃんの目が、俺の右手に握られた水色の物体に注がれていた。
「そ、それ、私のっ」
「いや、だから、これはたまたま掴んだのが……」
 空ちゃんはうつむき、その拳がぶるぶると震える。
「あ、そっちはあたしのパンツですねー」
「いいっ!?」
 気づかなかったけど、ブラに絡まるようにして、もうひとつ薄い布きれが。
「違うんだ! これは、絡まってたのをほどこうとしただけで……」
「この変態! バカ!」
「だ、だから誤解だってば!」
 軽くパニクった俺は、真っ赤になって怒る空ちゃんに対して必死に弁解をする。
「誤解でもなんでもいいから、その手に握ったものを返せー!」
「うごっ!?」
 空ちゃんのパンチをくらって、床に倒れ伏す俺。
 そんな俺にコンビニのビニール袋を持ったひなが近寄ってきて。
「おいたん、あいすどえにするー?」
 まったく緊張感のない質問だった。
「……残ったのでいいです」
 その夜、「洗濯は男女別にする」という議案が賛成多数によって可決されたのは言うまでもない。
 
 しかし、こんなトラブルは記憶に留めるほどの出来事ではない。
 毎日が波乱に満ちた俺たちの生活は、まだ始まったばかりだったのだ……