徳永明日香は高校一年生。
 東京都文京区の根津三丁目に住んでいる。
 ここは下町情緒を色濃く残す、にぎやかな商店街だった。そこかしこに残る昭和の匂いが、不思議なノスタルジーを呼び起こしてくれる。
 明日香のバイト先は、この商店街からすこし離れたファミレスである。
 何の変哲もないチェーン店。
 しかし、大通り沿いにあるおかげか、それなりに繁盛している。このバイト先で古なじみの姿を見かけたのは、一〇月上旬のことだ。
 三連休の初日、朝八時すぎ。
 明日香はファミレスの早朝シフトに入り、フロアで接客中だった。
 古なじみは客として来店したのではなかった。
 店の前で大きめのバッグを抱えて、時間をつぶしていた。待ち合わせ中らしい。
 草薙護堂。
 画数の多い漢字ばかりだが、それが古なじみの名前だ。
 背は高く、顔立ちは程々に整っている。ただし、どこか朴訥な雰囲気があるため、正面切って『イケメン』と呼ばれることはすくない。
 明日香とは幼稚園の頃からのつきあいになる。
 こんなところで待ち合わせるのだから、車で出かける予定なのだろう。
 護堂は見かけこそ普通そうだが、妙な知り合いが多い。ときどきバイトと称して、そうした知り合いの仕事も手伝っている。きっと今日もそうした用事なのだろう……。
 と考えて、明日香は仕事に戻ったのだが。
 ふと気づけば、護堂のまわりに女の子が集まっていた。
 しかも四人。みんな可愛い、もしくは美人。おまけに、金髪と銀髪の外人美少女がふたりも混ざっている!
「あいつ……最近、女関係が派手になってきたわね。前だって、あそこまでひどくなかったのに! 信じらんないっ。そのうち焼き入れてやるッ!」
 物騒な決意を固める明日香だった。
 そうこうするうちに、護堂たちの前にミニバンが停まる。
 幼なじみ+四人の少女たちはそれに乗り込み、ファミレスの前から走り去った。
「……今の、草薙くんだったよね?」
「万里谷さんやエリカさん、リリアナさんもいっしょだったわね。連休初日の朝に集合して、車でお出かけ……。一体どこに行くつもりかしら?」
 小声の会話が、耳に飛び込んできた。
 そちらを見る。ふたりのバイト仲間――宮間さんと澤さんがささやき合っていた。
 明日香と同じ高校一年生だという。彼女たちの視線は、ついさっきまで草薙護堂たちがファミレスの外に向けられていた。
 ピンと来た。
 このふたり、近くの城楠学院に通っていると前に聞いていたのだ。

「澤さん、宮間さん。ふたりとも、もしかして草薙護堂のこと知ってる?」
 明日香は唐突に問いかけた。
 ファミレスの早朝シフトが終わった一一時すぎの更衣室。
 かわいい制服から私服へ着替えている途中だった。澤さんと宮間さんはいきなりの質問に目をぱちくりさせた。
「たしかに知ってるけど……」
 澤さんが怪訝そうにうなずく。
 細いフレームのメガネをかけた、いかにも頭の良さそうな子だ。
「明日香さんこそ、どうして草薙くんを? 学校、城楠じゃなかったよね?」
 宮間さんに訊き返された。こちらは小柄でとにかく愛らしい。
 そのうえ、小学生にもまちがわれる童顔だ。
「あいつとは地元が同じ、この近くの商店街なの。中学までは学校も同じだったし」
「……じゃあ、幼なじみってヤツ?」
「あの草薙くんと!?」
 探るように澤さんが、びっくり顔で宮間さんが言った。
「ええ。一生の不覚とまでは言わないけど、まあまあ残念なことに、あのバカとは幼少の頃からのつきあいなの。……ところで宮間さん、今『あの』って言った?」
 明日香は冷たく微笑んだ。
 高校に進学して、たかだか半年程度。
 そんな短期間で、あの古なじみは定冠詞をつけられる存在になったのか。
「あいつがどうして『あの』なのか、ちょっと教えてもらえる? 古なじみとして、あいつがどれだけ非常識なことをしているか知っておきたいから。場合によっては焼きを入れてやらなきゃだしね……!」

「はじまりはたしか、五月頃だったと思うわ」
 澤さんが静かに語り出した。
 根津三丁目――明日香や護堂の地元にある和風喫茶に、場所を移している。
「それまでの草薙くんは、あまり目立たない存在だったはずよ。まあまあイケてる顔だし、背も高いから、ちょっとは気にしてる女子がいたかもしれないけど、いまいち目立たない人だったし。でもエリカさんが来てから、全ては変わってしまったの」
 澤さんの語り口は知的で明晰だった。
 メガネが似合う才女ぶりは、見た目だけではないらしい。
「わざわざ草薙くんを追いかけてイタリアから来た、成績抜群でスポーツ万能、おまけに日本語ペラペラって反則級の金髪美少女が現れてから、彼はすっかり変わったわ。――いえ、もしかしたら隠されていた異常性が明るみに出ただけかもしれないけど」
「エリカさんの次は、わたしたちのクラスの万里谷さんが草薙くんに……」
 ぽつぽつと宮間さんも語り出してくれた。
 澤さんとちがって、重い口調だ。それだけ草薙護堂の振る舞いは常識外れなのだろう。
「万里谷さん、すごいおしとやかなお嬢さまなんだけど、いつのまにか草薙くんにべったりで、恋する乙女みたいで、そのうち駆け落ちでもするんじゃないかって感じに……。でも、草薙くんったら、ふたりだけで済まなくて……!」
「リリアナさんという子まで、東欧から草薙くん目当てで日本に来たのよ」
 こちらは銀髪でいかにも東欧出身らしい妖精めいた美少女だという。
 明日香はうなずいた。
 金髪に大和撫子、そして銀髪。さっきファミレスの外で見た娘たちか。
「あ。この人たち以外にも、よその学校から草薙くんに会うために忍び込んでくる子がいるらしいよ。うちじゃない制服の女子と、ときどき学校でいっしょにいるのを見るし」
「そういうわけで草薙くんは、すくなくとも四人、もしかしたらそれ以上の美少女に囲まれた、ハーレムの王様として君臨しているの。今じゃ城楠学院はじまって以来の怪物だって言われてるわ。でも、そんなヤツのくせに、不思議と女子に嫌われてないのよね」
「あの人、傍目には草食っぽいし、何だかんだで親切だし……そのせいかな?」
「日常生活における存在感がうすいせいで、かえって反発されないのかも。一部の男子はすごく嫉妬してるみたいだけど」
 なるほど。そういう状況か。
 ふたたび明日香はうなずき、ちょっとやさぐれた笑みを浮かべた。
「そっか……。あいつ、高校に入ってからは量よりも『質』にシフトしたのね」
「り、量より質……?」
 ぼそっとつぶやいたら、宮間さんに聞きとがめられた。
「一四人」
「え?」
「中学時代、あの朴念仁のことを好きだった女の子の数。私が把握してなかった子をふくめれば、もっといくかも。……あいつを気に入っていた男の子も加えたら、さらに増えるわね。あ、一応断っておくと、べつに同性愛とかじゃなくて、男の友情って意味だけど。――ああ、でも野球でいっしょだった瑠偉ってヤツは結構微妙だったかも……」
「ええっ!?」
 明日香のつぶやきに、宮間さんがのけぞった。澤さんも興味津々の体だ。
「く、詳しく聞きたくなる話ね。どういうことなのかしら……?」
「どうもこうもないわ。言ったとおり、あいつは昔から一部の女子と一部の男子をたらし込むのが上手いの。長くて面倒な話になるから、詳しく話すのはまたの機会ね」
 明日香は苦虫をかみつぶしたように、しかめ面をした。
「護堂のヤツ、クラスや学校の人気者って感じじゃないんだけど、あいつと深くつきあった人間はたいていヤられるわ。しかもあいつは、女の子に惚れられてることにも気づかないで『おまえは大事な友達だ』とか言っちゃうのよ! 信じらんないッ!」
 思わず熱くなり、テーブルをたたいてしまった。
「そ、それはすごいわね……。ところで明日香さん、もしかしてあなたも草薙くんを……」
「す、好きだったり……とか……?」
「!? バカ言わないで! 誰があんなボンクラのことを! 私はね、ああいう学校や地元商店街の平和をかき乱すヤツが、幼なじみとして許せないだけなの! 誤解しないで!」
「うわあ、そういうことか。やるな草薙護堂……」
「うん、ものすごくわかりやすいね……。典型的って感じ……?」
 つい激昂してしまった途端、澤さんと宮間さんが何やら訳知り顔になる。
 ふたりとも、まじまじと明日香を見つめている。
 ちょっと子供っぽいかなと思いつつ、似合っているなと自負するツインテール。ややコンプレックスな吊り目。少々きつめな顔の造作。
 澤さんたちはそのあたりを注視して、うなずき合っていた。
「ねえ明日香さん、あなた、好きな人の前でついツンツンしちゃって後悔したりしない?」
「そ、そんなことない! 変な言いがかりつけないでっ!」

「でも根本的な疑問として、草薙くんがどうしてそんなにモテるのかしらね?」
「ものすごいイケメンでもないし、口が上手かったりマメでもなさそうだよね」
 興奮した明日香が落ち着いた頃、澤さんと宮間さんが言った。
「あー……あいつはものすごい人たらしの背中を見て育ったから、そのおかげじゃない? 最高の先生がすぐそばにいたおかげで、あいつが生まれながらに持っていた才能とか、永世モテ期の星回りとかが覚醒したんじゃって思ってるんだけど」
 投げやりに答えたところで、その教師役の姿が目に飛び込んできた。
 明日香と澤さん、宮間さんが話している和風喫茶。
 窓の外には根津三丁目商店街の風景。
 向こうから歩いてくるのは、端正な立ち姿の老人だった。上品な麻のジャケットを涼やかに着こなし、若かりし頃はかなりの美男であっただろう風貌。ちょっと通りを歩くだけで、あちこちの店の人間から声をかけられている。
「もしかして、あの人が草薙くんにいろいろ教えたっていう?」
 明日香の視線に気づいて、宮間さんが察しよく訊ねてきた。
「そう。一朗おじいちゃん……あいつの祖父にあたる人」
「たしかに、すごく人気がありそうな人ね。でも、ものすごい人たらしって、たとえばどんなところが?」
「うーん……何て言えばいいのかなー」
 澤さんの問いに頭を悩ませていたときだった。
 和風喫茶のすぐ前を草薙一朗――草薙家の家長が通りがかった。彼は店内にいる明日香にめざとく気づき、ウインクしてきた。この年齢の日本人男性とは思えないほど絵になる、洒脱な挨拶。鬱陶しくもなければ素っ気なくもない、絶妙の案配。
 こういうことを自然とやってのける人なのだ。
 さすが、と明日香が感じ入ると、和風喫茶の電話が鳴った。カウンターのおばさん(この人とも明日香や護堂は子供の頃からの知り合いだ)が応対している。
 そのまま悩んでいると、おばさんが近づいてきた。
 おぼんに乗せていた栗ぜんざいを明日香たちのテーブルに載せてくれる。
「おばちゃん、わたしたち頼んでないよ」
「ふふっ。いいの、一朗さんに今、電話で頼まれたヤツだから♪」
「一朗おじいちゃんに!?」
「うん。何だか難しい顔してたから、差し入れだって。もしかしたら孫のことで迷惑かけてるんじゃって気にしてたわ♪」
 あの一瞬のすれちがいで、ここまで読んでしまう。
 電話一本で和風喫茶のおばさんにツケで注文し、イヤな顔ひとつされない。いや、この浮かれようを見るに、おばさんはじいちゃんに頼み事をされて、むしろ喜んでいる。
 しかも、テーブルに載った栗ぜんざいは三人分。
 きちんと澤さん、宮間さんの分までカウントしている……。
「とまあ、こういうことが余裕でできちゃうところで察してもらえないかな、おじいちゃんがとんでもない『たらし』だって」
「……何となく理解できたわ」
「……あの孫にして、ってヤツなんだね」
「あのおじいちゃん、護堂のヤツを子供の頃から面倒見てきた人なの。いろんなところに護堂を連れて歩いてたから、どんな人と会ったときにどう振る舞っていたか、幼心にしっかり刻み込まれたみたい」
 護堂自身が語ったところによると、実にさまざまなドラマがあったらしい。
 たとえば、じいちゃんが『昔いろいろあった』らしい老婦人と遭遇したとき。昔じいちゃんにあこがれていた中年婦人にあったとき。昔、じいちゃんに『世話になった』明らかにカタギでない人との酒盛りのとき。あるいは、じいちゃんが昔の友人のピンチを救いにはるばる南米の僻地に出かけたり……。
「そういうドラマの数々を見て育った護堂は、『女性と一部男性にモテモテ』な一朗おじいちゃんの行動パターンが骨の髄にまで刻み込まれていて、それがあいつを非常識にモテさせている……なんて、バカげたことを考えたりもするけど……」
 そのあたりは真偽定かでない、ただの思いつきであった。
「だけど、ひとつだけ不安な――しかも、将来的にかなりの確率で実現しそうな不安があるのよね」
 栗ぜんざいを箸でつつきながら、明日香は言った。
「あのバカさ、じいちゃんのたらし技を子供の頃から間近で見ているのよ。『門前の小僧、習わぬ経を読む』っていうじゃない? ……あいつが将来、女の子に慣れてきて、自分からモテたいとか思うようになったら――」
 そのまま口ごもる。すると、こちらの意を察してくれたのか。
「そ、そっか……。これだけできちゃうおじいさんのノウハウが、草薙くんのなかには刷り込まれているわけで、それを自分の意思で使いこなすようになったら――」
 宮間さんが恐る恐るという感じで、あとを継いでくれた。
 小柄な彼女は、どうやらかなり勘がいいらしい。
「い、今でさえ魔王級の女たらしだってのに、そこにあれだけモテそうなおじいさんの手練手管が加わるわけ!? 正真正銘の化け物じゃない、それじゃあッ」
 澤さんも切迫した口調で言う。
「これ、私だけじゃなくて、あいつの妹の静花ちゃん、あと亡くなった草薙のおばあちゃんも、ずっと前から心配していることなのよね……」
 徳永明日香や草薙家の一部女性が感じていた、近い将来に向けての恐怖。
 それを共有することになった澤さんと宮間さん。
 彼女たちは、三連休でどこかに出かけたらしい草薙護堂の行く末を思い、大きなため息をつくのであった。


 <了>