● 天使の贈り物
 それはある種の運命的な出会いだったと、彼は今でも信じて疑っていない。
 あれはまだ五月、春の暮れ。
 ……その夜、始めて彼は彼女と出会ったのだ。


 地元にある烏田高校をこの春に卒業したものの、受験に失敗、現在浪人中……という建前の実質ニートである田辺清吾(たなべせいご)は夜食のカップ麺を求めてコンビニに向かっていた。
 田辺にとって、ネットオークションの転売で稼いだなけなしの自己資金を使ってこうして夜食を買うのは、日課といって良かった。
 朝と昼はどうにでもなるが、夕食時は両親と顔を合わせて食べることが多いため、予備校にも通わず、就職活動はもちろんバイトすらしていない彼の立場は非常に悪い。「何もしなくても腹は減るんだな」と父親から二回に一度は小言を言われるので、ゆっくりと飯など食べていられない。茶碗に盛られたご飯を無理矢理に口に押し込んですぐに自室に籠もるのだが、それだけではまだ若い田辺の腹は満たされるわけがないのだ。
 夜空の下、一人でトボトボと歩いていると、田辺には気が重くなってくる。このまま自分は両親に小言を言われながらいつ終わるとも知れない日々を続けていくのではないか。目前の二〇を過ぎ、気が付けば三〇、四〇……そして親が死に、一人になって……。
 まだ今の生活に入って二ヶ月しか経っていないというのに、田辺の頭には悲観的な未来しか想像できなくなっていた。そもそも何となくテキトーに選んだ大学の受験にしくじり、滑り止めで受けた低ランク校でさえ見事に滑り切った田辺にはもう人生の最後まで直滑降で行く気がしてしょうがないのだ。それは諦めの境地であり、その結果、お金さえ出せば入れる専門学校にも行かず、予備校も二日で諦めた。就職活動など考えもしなかった。
 最悪だ、と彼は思う。予備校に入学する際に写真を撮った時、そこにはうっすらと髪の長い女の背後霊のようなものまで映る始末だ。どこまで神は自分を虐めたいのかと恨みたくなる。
 全てにおいて生きる目的が見い出せない田辺には、ただこうしてトボトボとコンビニと家とを往復するのが精一杯だった。
 せめてまだ、誰かと交流を持っていれば良かったが、進学や就職を決めた元友人たちは眩しすぎて田辺は避けるようになっていたし、彼らも田辺にどう接していいかわからず、お互いに距離を取るようになっていた。
 まさに一人。今、こうして夜道をトボトボと歩いているのと同じだ。
「あー……死にてぇ……」
 歩きながら、街頭で星が消えた夜空を見上げながら、そう一人呟く。いつものように。しかし手首を切ることも首を吊ろうとしたことも、当然一度もない。本気ではないが、それしか今の気分を表す言葉を彼には見つけられないのだ。
 歩き続ける田辺の視界に一軒のスーパーが見えてくる。そこではコンビニよりも安くカップ麺を買えるが、彼はそこを通り過ぎた。母親がパートでレジ打ちをしているスーパーなのだ。夜の時間帯は働いていないが、それでも田辺には近寄りがたい何かがある。
 あんな所に行くぐらいなら、機械的に受け入れてくれるコンビニの方が高くてもマシだ。田辺はそう思い、店の前を通り過ぎる。
 途中、田辺の後輩に当たるであろう烏田高校の制服を着た、ゴツイブーツを履いた女生徒とすれ違った。美人だった。しかし、田辺の趣味ではない。すれ違う瞬間、チラリと横目で見たのだが、彼女の目は獲物を狙う野生の獣のように鋭くて、とてもじゃないが田辺には手に負える相手ではなさそうだ。底の厚いブーツのせいかもしれないが、何よりも身長が田辺より高い時点で気が引けるというものだ。
「もっと、小柄で、優しそうで、猫みたいで……天使のような……そんな娘がいいなぁ」
 そんな娘が、ベタなラブコメよろしく、無条件に自分に惚れてきてくれて、何だかんだやっていたら彼女と親密になりつつ人生も勝ち組となっていく……そんな妄想を田辺は想い描き、へへっ、と下卑た笑みを浮かべた。
――そんな、時だった。
 歩道の田辺を追い越していく一台のバス。それが、少し先のバス停で止まった。仕事帰りのOLやらサラリーマンやらが降りてくるのを見つつ、バスを追い越そうとした……瞬間、視界の右端に普段では見ることのない、白くてホワッとした猫ミミのようなものが見えた気がした。
 田辺はギョッとしてそちらを見やれば……そこには猫ミミの天使がいた。
 隣街にある丸富大学附属高校の制服を着た小柄な彼女は、季節外れの縞模様のマフラーと生地の厚いニーソを履き、そして大きな猫ミミの帽子を被っていた。そして、しっとりとした黒髪でやや隠れているものの、その双眼は笑みに細められ……見ているだけでこちらまで幸せになるような、そんな表情を浮かべている。
 まるで理想の女の子がその場に現れたような気がして、踏み出したポージングのまま、田辺は固まってしまった。
 彼女はトテトテとマフラーを尻尾のように揺らしながら、田辺とは逆方向へ歩いて行ってしまう。それを視線で追っていると、バスの運転手が「乗るんですか?」と声をかけてきたので、田辺は慌ててその場から走って逃げた。
 せめて女の子が行った方に逃げればよかった。そう田辺は思いつつ、かなり遠回りをして女の子が行ったであろう方角へ先回りする。
 彼女を見つけて、自分はどうするのだろう。田辺にはわからない、しかし、足は勝手に彼女を目指し、目は彼女を探した。
 運動不足を痛感しつつ、再び母親がパートで働いているスーパーの近くまで来たが、女の子がなかなか見つけられない。というより、スーパーの前でトラックが事故を起こしたとかのせいで、辺りは騒然としており、普段はろくに人がいない時間帯だというのに、家から出てきた人が多く、うまく探せない。
 結局、その夜、田辺は彼女を見つけることは叶わなかった。

 その夜から田辺はランニングを始めた。次に彼女と遭遇した時、きちんと追いかけて声をかけられるよう、体力をつけるためだ。
 また、それと平行して彼女の素性を調べることにも奔走した。確かな情報は彼女の姿の記憶と、丸富の学生だということだけ。しかし、田辺にはそれだけで十分だった。時間が有り余ってる半ニートだから、というわけではない。物は試しに『丸富 猫ミミ』でネットで検索してみたら一発で目的の女の子の情報まで辿り着けてしまったのだ。さすがにこれには目を疑ったが、どう考えても彼女のものとしか思えなかった。個人情報がここまで安易に手に入ってしまう情報化社会の恐ろしさを実感しつつも、その利便性に彼は感謝した。
 彼女の名は井ノ上あせび。丸富大学付属高校の一年生だという。
 それが判明した翌日には、田辺はあれ程毛嫌いしていた予備校に再び通い始めるようになった。理由は単純である。丸富附属高校の生徒の大半はそのまま丸富大学に入る。となれば、来年に入学しておけば、田辺が大学三年生になった時、彼女が後輩となってやって来る確率が高いと踏んだのだ。そのためにはそれまでの志望校よりランクが二つも上がるため、少しでも早く受験勉強を始めるべきだった。
 目標を持った人間は強い。たまに聞くが、田辺はそれを模擬テストの点数で実感する。彼はメキメキと成績を伸ばしていったのだ。
 滑り止めの受験でさえしくじったのは、きっと当時の自分には大学というものに何一つ魅力や目的を見いだせなかったからかもしれない、と彼は思い始めた。
 やれば出来る。しかし目指すべき目標がなければやる気など出るはずもない。田辺はそれを身をもって学んだのだ。
 そして田辺の日課となった毎日のランニングも日に日に距離は伸びていき、体もまた研ぎ澄まされていった。今ならまたあのバス停で彼女とすれ違っても、難なく追いつけるだろう。
 これに伴い、コンビニに夜食を買いに行く習慣は消えた。その時間帯をランニングに切り替えたせいでもあるが、それ以上に人が変わったかのようにやる気を見せ始めた息子に対し、両親は小言を言うことがなくなり、むしろ今では毎日笑顔で応援してくれるようになっていたのだ。毎日、ご飯がおいしかった。
 彼女、井ノ上あせびは、やはり天使だったのかもしれない。まるで自分を取り巻いていた邪気を全て取り去ってくれたかのようだ。
 もしかしたら、と思って田辺はある日自分を何枚か写真に撮ってみたが、当然のように背後霊のようなものは写ることはない。
――全てが、うまく転がりだした。まるであの夜、妄想した通りに……。
 そんなことを考えながら日課の夜のランニングをしていると、ふと、不健全な理由ながらも文武両道のとても健康的な予備校生の生活を数ヶ月を経た今になって始めて、彼はあることに思い至った。
「……何で俺は、三年も先のことしか考えていないんだ?」
 もうさっさと会いに行けばいいじゃないか。三年も待つことはない。
 全てが絵に描いたような理想的な日々へとシフトし始めた。唯一理想と違うのは、横にかわいい女の子……そう、井ノ上あせびがいないということだ。
 ここまでうまく転がり始めたのだ。今、彼女に声をかけたって……きっと向こうも自分を好いてくれて、すぐに恋人になれるに違いない。そうなればまさにハッピーデイズ……人生勝ち組だ。
 かつてのネガティブな思考では決して考えられなかったポジティブな思考。これもきっと彼女のおかげに違いなかった。

 翌日から再び田辺の行動が始まった。
 彼女を見つけるのは簡単だったが、いきなりこちらから声をかけるとさすがに警戒される恐れがある。いろいろと調べた結果、彼が目を付けたのが隣街にあるゲームショップだ。
 チェーン店でもなければ、爺さんが暇に任せてやっているような店でもない、昔ながらのゲームショップだ。利便性の高いネット通販や家電量販店での大幅な値引き合戦により、この手の店はほとんどが絶滅に追い込まれており、今の時代ではなかなか貴重な店だった。田辺の子供時代にはまだこの手の店が近所にも数軒あったような気がしたが、今では一軒たりともない。
 何故田辺がこの店に目をつけたのかといえば……実は、この店で、あの井ノ上あせびがアルバイトをしているというのだ。これを利用しない手はなかった。最初は客として入店してみたものの、あいにくと目的の彼女はおらず……何より、この手の個人経営店にありがちな一見さんお断りという空気に耐えきれず、携帯ゲーム機の液晶保護フィルターを適当に買って早々に店を出た。特に欲しいわけではなかったが、買わずに店を後にするのはいささか気が引けた。
 これまでの彼だったら、この段階で引き下がっていただろうが、もはや今の田辺は違う。
 このままではダメだと踏んだ彼は予備校への通学に支障が出るのを承知で、一か八か、バイトを申し込んでみることにしたのだ。丁度店を出た時に『オレ様と共にこの不況という荒波を戦い抜くクルーを募集する』という謎の張り紙を見つけ、五分程してからそれがバイト募集の告知だと気づいたからでもあるが、とにかく清水の舞台から飛び降りるがごとく、飛び込んでしまえばきっとどうにかなるはず……そう思ったのだった。

 バイト初日。その日、田辺は朝五時にベッドから起き上がると早速身支度を始めた。
 田辺は姿見を見る。四ヶ月前とは完全に別人のようだった。そこそこに引き締まった体、これといって特徴はないがまぁかっこ悪いわけでもない顔つき、無難なクセのない服装……まるで映画や漫画の群衆{モブ}のような印象を田辺自身覚えたりするが、それは決して人を不快にするものではないはずだ。
「よっしゃ、行くとするか! 今日から俺の人生第二幕だ!」
 田辺は家を出、やや離れた隣町のバイト先、『ゲーマーズショップ フォローミー』へと彼は向かった。
 果たして辿り着いて店を見上げてみれば……相変わらず良く持っているな、と思わざるを得ない店舗だった。店自体はそこらにあるコンビニの店内と同じぐらいの広さで、二階建て。上は店長の住居になっているようで、店舗は下の階だけだ。
 一応は店舗部の前面はガラス張りになっているが、ゲームのポスターが所狭しと貼られていて店内はほとんど見えず、かろうじて隙間があっても見えるのはせいぜい店内の陳列棚の裏側だけという有様だ。これがやたらと入りにくい雰囲気を作っているのは間違いなかった。どんな業種でもそうだが、個人経営で店内の様子が見えない店に入るのは勇気がいる。
 バイトで来たとはいえ、来店したのは一度だけ。驚くべきことにバイトを申し込んだら面接はなく、メールのやりとりと電話での質疑応答だけで決まってしまったのだ。その質疑応答だって「ゲームは好きか?」「体は丈夫か?」というものだ。田辺だって人並みにゲームは好きだったし、体はランニングで絞っている。そう告げればすぐに採用だ。時給はお世辞にも高いとは言えないが、目的はお金ではなく、井ノ上あせびなのだから文句はなかった。
 田辺は意を決して二度目の入店を果たす。本当は裏口から入った方がいいのだろうが、場所がよくわからなかったので正面の自動ドアから入った。
 店内は基本二つのゾーンに別れていた。自動ドア横のレジカウンターを中心として、右手には各種中古のレトロなハード&ソフトゾーン、そして左手には今時珍しいブラウン管テレビが並び、そこではカセットを使用する時代のものからGD-ROM媒体のものまでのゲームがいつでも無料で楽しめるようになっている。垂れ流される賑やかなOPテーマが店内のBGM代わりだ。
 なお、新作ゲームコーナーはカウンターの近くの棚にアクセサリ関係の商品と一緒に何本か置かれているだけで、数はかなり少なかった。
 正直、大都市ならまだしも、こんな立地の、こんな店で本当にバイトを雇うような余裕があるのだろうか。田辺にはわからなかった。
「いらっしゃ〜い」
 間延びしたような声がし、思わず田辺は背筋を伸ばした。その眠たいような、甘ったるい声は、まさに田辺が理想とした、彼女としたい女の子の声そのものだった。
 彼は見る。レジカウンターの中で椅子に座る、井ノ上あせびの姿を。
 彼女は相変わらずの白いホワホワの猫ミミ帽子に、季節感のない縞々のマフラー。それには今日は店名の書かれたエプロンをつけていた。
「あの! 俺、今日からバイトで、ここに……!」
「あ、店長から聞いてるよ〜。えっとぉ〜、田辺……清吾くん、だよねぇ〜」
 天使のような笑みを浮かべながら、彼女は自分の名前を呼んでくれた。それだけで田辺は天にも昇るような気分だ。
「今日はねぇ、あっちが清吾くんにお仕事を教えてあげてって、言われてるから……あ、みんな、いらっしゃ〜い」
 始めてのあせびとの会話を邪魔するように、数名の小学生がガヤガヤと入店してきた。中学年ぐらいだろうか。肩からは鞄を提げているし、今日は金曜日だから学校の帰りなのだろう。
「あ、あっちあっち! 店長は!? 店長は!?」
 小学生の一人が井ノ上あせびに言った。どうやらあっち≠ニいうのは井ノ上あせびの一人称であると同時に、彼女の愛称でもあるようだ。
「店長はねぇ、今二階でお昼寝中だよ〜」
「え〜、起こしてきてよ〜、今日こそぶっ殺してやるって決めてきたのに」
 田辺は一瞬ギョッとしたが、小学生たちが店長がいないことに文句を言いつつも無料ゲームコーナーで立ちプレイを始めると、きっとゲームの話に違いない、とようやく思い至った。
「それじゃ清吾くん、こっちに来て〜。早速レジの打ち方教えるよ〜」
「え? あ、はい」
 田辺はあせびに手招きされるがままにレジカウンターの内側に入り、彼女のすぐ近くでレジの扱い方を教えてもらう。
 至って普通のカウンターなのだが、それを身長の低いあせびが使うとやや高すぎるのか、彼女は背伸びをしたままキーをタイプして教えてくれる。一頻り打ち切ると一旦踵を下ろすが、またすぐにピョコンと背伸びをしていろいろと教えてくれる。
 その頑張る様と、背伸びをした瞬間に、彼女の髪の香りなのか、石鹸のような清潔感のある香りが田辺の鼻腔と心をくすぐった。
「これで一通りかな〜? あとの商品の品だしとか新作ソフトの予約とかはしばらくは店長やあっちがやるからそれを見て、覚えていけばオッケーだよ〜。今日はあっちも夜まで一緒に頑張るから、わからないことがあったらいつでも聞いてね〜」
 自分よりも三歳年下、身長も二〇センチは低いあせびに、田辺は「はい!」と元気良く返事をした。
「んお? 何だ、誰かと思ったら……アレか、ホラ、え〜っと、バイトの……そうだ、田辺か!」
 自動ドア横にあるカウンターとは反対、店の奥にある扉を明け、中年の男が現れた。洗いざらしのシャツとジーンズだけを身につけた中年太り……よりやや脂肪を多くつけた男だった。ボサボサの頭を掻きつつ、小脇にクシャクシャにして抱えていたエプロンを広げ、それを装着する。胸元には黒マジックで堂々とオレが店長だ≠ニ書かれているので、彼が田辺の雇い主で間違いはないだろう。
 出来ればもう少しあせびと二人で話したかったが、それはこれからのお楽しみにしておいた。彼は店長と正式なバイト契約のための履歴書を差し出すのだが……。
「あ〜、それ、今はいいや。正式な契約は後で」
「何故ですか?」
「お互いのためだ。とりあえず今日はこの店の雰囲気に馴れられたら馴れておけ」
 意味がわからなかったが、店長はメガネをかけ直す。
「店長! 勝負しようぜ! 今日はスゲーデッキ組んできたんだぜ!」
 そう言って先程あせびをあっち≠ニ呼んだ男の子が、ポケットからビジュアルメモリを取り出した。ビジュアルメモリはドリームキャストのセーブデータ等を保存するための外部メモリだ。それを小学生がポケットから取り出すなど、十数年前ぶりの光景だ。ビジュアルメモリは液晶モニタや複数のボタンを搭載しており、携帯ゲームとしての機能を持っていたので、当時小学生だった田辺のクラスメイトがプレイしているのを見たことがあった。
「お前ら弱ぇからなぁ。どうせまた力押しクリーチャーのデッキばっかなんだろうが。どうよ?」
「そんなことねぇよ、『パーミッション』、『リコール』そして『アポーツ』のスペルコンボ! これで……あっ」
「ばっかでぇ! 手札明かしてやがるぞコイツ!」
 店長が少年を指を指して笑うと、少年の友人たちでさえ笑い出す。少年は悔恨の表情を浮かべながら店長を睨んでいた。
「よっしゃよっしゃ、そんじゃオレ様は『シャッター』と『スクーズ』を入れたデッキにすっかな」
「ずっりぃ! 店長ずっりぃよ!!」
 何だかよくわからないやりとりだが、多分、これもゲームの話なのだろう。そう思って見ていると、店長は小学生たちとドリームキャストのゲームを始めてしまう。何となくどうしていいのかわからない田辺はあせびの横にあった椅子に座り、二人並んでカウンターから子供たちに混じって遊ぶ店長の姿を見ていた。途中で、何人かの小学生が追加で来店してきたりと、かなりの盛り上がりを見せてはいたが……彼らが来店してからまだ一円の遣り取りもない。強いて言えば店の電気代が消費されているような気がするが……これでいいのだろうか。田辺にはわからなかった。
 あせびに話しかけたいところだったが、彼女にはゲームの内容がわかるらしく、離れたカウンター越しであっても時折「お〜」とかの声を出して見入っていたので、何となく話しかけづらい。
 田辺はしばらく店内を見ることで時間を潰した。外に向けて貼られているゲームのポスター類は店内には少なく、商品名と値段が書かれた札が貼られていたり、『当店の中古商品取り扱いは一世代以上前の物に限らせていただきます。詳しくは店員まで』と書かれた注意書き、そして『今月のお題』と書かれた厚紙には『DC版カルドセプト セカンド』とよくわからないことが書かれたもの……そして、何かのトーナメント表らしき線が引かれた模造紙が二枚あった。どうやらこのショップ内で大会があるらしい。もしかしたら今彼らが遊んでいるのがそれなのかもしれない。
 田辺は話しかける切っ掛けとして、あせびに訊いてみた。
「そうだよ〜。毎月お題のソフトを変えて、月末に大会をやるの。それでみんなあーやって毎日のように技を磨いているんだよ〜。でも、参加するにはこのお店で三五〇〇円以上買わないと登録出来ないんだ〜」
 なるほど、と、ようやく田辺にも納得した。つまりは店長がこうして子供たちと遊ぶのも言ってみれば営業の一環なのだろう。遊ぶだけならタダでも出来る、けれど、鍛えるためには家でやらなきゃいけないから、ソフトやゲーム機本体も買う。そしてその際には大会に登録するためにこの店で……という流れなのだろう。
「清吾くんも良かったら参加してね〜。盛り上がるんだよ〜。……あ、もうすぐ三時になるから、あっちおやつの用意してくるね〜」
 あせびはテトテトと店内奥の扉の向こうへと消えていくと、また手持ちぶさたになった田辺は店長と子供たちのバトルを見る。
「おっしゃぁあ! オレ様の圧勝だぁ!」
「だから店長ずりぃって、完全に相性の悪いデッキぶつけてきてんだもん!」
「口を滑らす貴様が愚かなんだよ! 悔しかったらもっとつぇえデッキ組んでこい!」
 ……商法ではなく、どう見てもただ小学生と同レベルで遊んでいるようにしか田辺には見えなかった。
 彼らは他のゲームでも店長と遊んでいくと、一人が新作ソフトの予約をして帰って行った。
 すると今度はそれとは入れ違いになるように、あせびがお盆を手に戻って来る。そこにあったのはホットケーキと牛乳、そして三つのマグカップだ。カウンターの上に、田辺たちは自然と集まった。
「はい、これはあっちと、清吾くんと、店長の分。今日はマーガリン&はちみつだよ」
 そういえばバイト募集の張り紙には時給と共に三時のおやつ付き、とあったのを田辺は思い出す。いびつな形、ややムラのある焼け色……何よりほっかほかで、店長がマーガリンを上に落とすとすぐにとろけて皿に落ちるそのホットケーキはどう見ても作りたてだ。つまりはあせびの手作りホットケーキ。
 好きな女の子の手料理が初日から食べられるなんて、と、田辺は心の中でガッツポーズを取る。最高のおやつだ。
「じゃ、牛乳を……あれぇ?」
 あせびは牛乳をマグカップに注ぐものの、一つを満たしただけで牛乳の紙パックは空になってしまった。
「あぁ、牛乳なら確か……二階の冷蔵庫にも一本まだあったはずだぞ」
 はぁーい、とあせびは小走りに取ってきてくれ、早速マグカップに注いでくれた。
「それじゃ田辺君のとりあえずの参戦を祝して、かんぱーい」
 カンっと、マグカップの鈍い音で乾杯する。そして、牛乳を口に含んだのと同時に、信じられないものを目にする。カウンターの上に二つ並んだ牛乳パック、どちらも同じメーカーの牛乳だが、賞味期限には約二週間のズレがあった。片方は明明後日。もう片方は一週間以上前のものである。
 その瞬間、自分はとんでもないロシアンルーレットの最中だということに田辺は気が付いた。果たしてどっちが二階から持ってきたのか、そして自分が口にしているのはどちらの牛乳なのか……。
 さすがに片思いの女の子とようやく接触できたその日に口から牛乳を吹き出すなど持っての他。ここは、飲むしか選択肢はなかった。
 万が一ヤバイ方だったとしたら、味を確認した瞬間に吹き出す恐れがあったため、田辺は一気に飲んだ。そして他の二人の様子を見るが……特に二人はコレといって変なリアクションはしておらず、颯爽と割り箸でホットケーキを食べ始める。
 田辺の背中に若干嫌な汗が浮かんだが、真実を確かめることなく、彼もまたホットケーキを食べる。牛乳はともかく、こっちは好きな女の子の手料理だ。とにかくこれだけはしっかり味わい、そして最高においしいと彼女に伝えなくては……。
 それを口に入れて租借する。中からじゅわ〜っと甘いハチミツがしみ出てきて、表面を覆っていたマーガリンと混じって得も言われぬ甘さが口内を満たす。
 かなりハチミツの量が多くてホットケーキの味などわからなかったが、とりあえず田辺はおいしい、とあせびに告げる。
「ホント〜? 良かった〜、店長の手作りだからちょっと心配だったんだ〜。以前なんて真っ黒焦げでね〜」
「何だよ田辺君、その顔は。まさか井ノ上ちゃんが作ったとでも思ったか? これは昨日、夜食代わりにオレが作ったものだよ。井ノ上ちゃんはただ温めて上にハチミツとマーガリンを載せただけ……女の子の料理じゃなくて残念だったな! はっはっはっはっ!」
 二〇分後、田辺は店の奥にあるトイレへと駆け込んでいた。

 激しい腹痛を催した時、人は熱心な宗教家となり、トイレを懺悔室へと変える。
 田辺はまさにどうしようもない腹痛にもがき苦しみ、ただひたすらに神に助けを乞い、トイレの中で過去の過ちを悔い続けた。
 サッカーボールで小学校の窓を割ってしまったこと、好きな女の子にイタズラして泣かせてしまったこと、高校最後の夏休みに友人たちと心霊スポットで花火をしてしまったこと、受験勉強を中途半端にしてしまったこと、浪人生になってしまったこと、親のスネを囓っているのに自分勝手な理由で反抗してしまったこと……。
 後悔すべきことは無数にあったが、それら全てを悔い改めると神に告げても腹痛は治まらない。
 かなりの時間を経て、何とか収まったと思ってトイレを出れば、数歩歩いた段階で再び腹の中で蛇がのたうち回るかのような痛みが走り、押し寄せる圧迫感がケツをノックし、Uターンを余儀なくされる。
 ある時、扉の向こうに人の気配を感じた。まさかと思ったが、声をかけてきたのは店長だ。田辺は少しホッとした。
「いやぁ、悪いな田辺君。二階にあった牛乳、アレ、賞味期限切れてたみたいだわ」
 ……だとすればあの時飲んだ三人の内二人はそれを口にしていたはず……。店長は平然と喋っていることを考えると……。
 激しく心配した田辺を扉越しに察したのか、店長はあせびは大丈夫だと告げた。
「あの子が飲んだのは大丈夫なヤツだよ。多分、飲んだのはオレと君だ。オレは腐ったもん喰っても平気なんだよ。がっはっはっはっ! とりあえず胃薬ここに置いておくから飲んでおくといいぞ」
 どっちみち最悪だ。田辺は思う。好きな子の前で、始めて会話を交わしたその二時間後にトイレを懺悔室へと変えてしまったのだ。

 田辺が腹の中を完全に空っぽにしてトイレを出たのはそれからさらに二時間後だった。
 田辺は鏡に映るゲッソリとした顔を見ながら、洗面台で手を洗う。
 気のせいだろうか、鏡に映る姿はまるで半年前の自堕落な日々を送っていた時にそっくりだ。特に何かしたわけでもないのに目は疲れにも似た色が浮き、肩は下がり、全体的に精気がない。しかも気のせいかもしれないが、自分の背後にまた髪の長い女の影のようなものが見えるような……。
「お、ようやくシャバに戻ってきたか」
 店長だった。トイレの外はシャバなのか、意外と合っていると田辺は思う。
「すみません、何か……初日からこんな……」
「いいっていいて。こっちのミスだし、それに……あ、ちょっと待て」
 彼は何故かズボンのポケットから白い粉が入った袋を取り出し、それを田辺の肩にかけた。そして何やらブツブツと何かを唱えると最後に「はぁっ!」とかけ声を上げて肩をバシッと叩かれた。
「……とりあえずはこんなもんかな。実家で習ったことが今になって役に立つってのは皮肉なもんだぜ」
 何だかよくわからないことを店長は言って、笑った。それについて訊いてみると、彼はやや言いづらそうにしながらも口を開いてくれる。
「いやなに、オレの実家は寺でさ。長男なんだけど、継ぎたくないんで、株で一発当ててこうして店を持ったわけよ。ガキの時誰もが一度は思うだろ? あぁ、ずっとゲームだけして金貰えないかなぁ、って。アレをついに実現したってわけよ」
「……はぁ。あの、それと今になって役に立つってのが、イマイチよくわからないんですけど」
「ん〜、コレあんま言いたくないんだけどさ。……出るんだよ、最近。半年ぐらい前から急にこの店とかに、その、あちらさんがさ」
「……は?」
「だから最初に訊いただろ、体は丈夫かって」
「……関係、あるんですか、それ」
「耐久力が高いってことさ。よく心と体は別物のように言われるけど、大抵はどちらかが不健全になるともう片方も影響を受けてダメになるからなぁ。体が丈夫なら、大抵心も丈夫なんだよ。ウチの家系の持論だけどな。だからさっき来ていた生意気盛りのクソガキ共は全然影響受けねぇんだわ、コレが」
「俺、もう、割と限界っぽいんですけど……」
「そうなんだよなぁ、ウチのバイトって大抵今の田辺君みたいになって、二〜三日で辞めちまうんだよなぁ。頑張っても一ヶ月とかな。あちらさんが出るようになってから長期バイトを続けているのは井ノ上ちゃんぐらいなもんさ。もう半年だ」
 気のせいか、今短い間に店長の口から半年というワードが二回ほど出てきた気がするが……それについて何か考えることさえ、今の田辺には億劫だった。
 あせびにどんな顔をして会えばいいのだろう。田辺はそれだけが気になった。
「とりあえず、今日は後三時間で閉店だからもう少しガンバレや」
 そう言って店長は一度二階に上がると、すぐに小型のまな板と果物ナイフを持って降りてきた。ほれ、行くぞ、と彼に背中を押されるように戻るのを躊躇っていた田辺は再び店内へ。すると昼間の小学生がガヤガヤと騒いでいたゲームショップとはまったく違う雰囲気の店がそこにあった。
 四つ並ぶモニターには仕事を早めに切り上げてきたらしいサラリーマンや、高校生、そしてやたらにボリュームのある金髪を携えたメガネをかけた美人、そして井ノ上あせびの計八人が並んで黙々と格闘ゲームをプレイしていた。そしてそのプレイヤーの後ろでは同じような客層の人間が数名、腕を組んで、一言も喋らずにモニターを見つめている。
 場の空気はやたらに硬く、緊張感が凄まじい。
 それは、かつて田辺が何となく行ってみた秋葉原のゲームセンターを彷彿とさせる妙な雰囲気だった。それもUFOキャッチャーやリズムゲーなどのフロアではなく、対戦格闘ゲームのフロアだ。そこは今のこの店内のように幾人もの男たちが腕を組んでゲームのモニターを見つめている男たちがいた。まるで鍛え上げられた本物のアスリートが他の選手の競技を見学している時のように目は真剣だが、どこか無表情に近い顔つきだった。
 その中で、唯一違う表情をしているのは井ノ上あせびだろうか。彼女は相変わらず神から祝福されたような笑みを浮かべ、メトロノームのようにゆっくりと左右に頭を振っている。まるでリズムゲーをしているようだが……その手元はそんなリズムなど関係なく、指一本一本が独立した生き物のように凄まじい速度でアーケードスティックを操作をしていた。ダダダッとマシンガンのようにボタンを押したかと思ったらピタリと手を止めたりするのに、あせびの左右へ頭を振る動きは何も変わらないのだ。
 思わず、田辺は呆気に取られた。モニターの中では激しい攻防が繰り広げられているが、それがどのくらい凄いものなのか、彼にはわからなかった。
 彼はよろよろとカウンター奥の椅子に一度座るも、ちょっとお尻に不安感を抱いたので、仕方なく立ったまましばしボケッと過ごした。すると、そこで昼間と違うのは店内の客層だけではないことに気が付く。今月のお題のソフト名が変わっていたのだ。『DC版カルドセプト セカンド』とあったはずのところが『SS版ストリートファイターコレクションより、スーパーストリートファイターUX』となっていた。
 カウンターに寄りかかり、包丁で林檎の皮を剥いていた店長に訊くと、これは夜の部なのだという。一七時に切り替えが行われ、昼の部の主な客層は小中学生、夜の部は高校生から社会人までとなっているらしい。確かに、この空気に昼間見た小学生を放り込むと戦意消失してしまうことは間違いなさそうだ。
 いくつかのモニターで勝敗が決したようだった。どうやら勝った方が抜けて、負けた方はそのまま残留して他のプレイヤーと戦う、というルールらしい。
 あせびは負けたらしい。代わりに金髪の若い女が勝ったようだ。彼女はカウンターに来ると店長と並んで寄りかかり、彼がカットしていた林檎を無造作に口に入れた。
「やっぱサターンのパッドなら著莪ちゃんも井ノ上ちゃんに勝てるんだな」
「まぁね、さすがにアレには慣れ親しんでるから。あせびがバーチャスティック使っても、まだ何とか。でもさすがに他のハードだったらアーケードスティック使わないと話になんないかな。間違っても3DOのスパUXでパッドプレイとかは勘弁」
 店長に著莪と呼ばれた流暢な日本語を喋る金髪美人は、二人して笑った。田辺にはまったく何が面白いのかがわからなかった。3DOのスパUXはもちろん、そのハードにさえ、田辺は触ったことがない。
「スタートボタン、一応はPボタンだったか、あの小さなゴムのボタンがまさかの中パンチボタンだったもんなぁ。オレも始めてやった時はさすがに笑ったよ」
 また二人は笑い、著莪がチラリとメガネ越しに田辺を見た。
「新しい人? 店長、前の人は?」
「ん〜、よくわかんねぇんだけど、ウチで働くと不幸が次々に襲いかかってくるんで、辞めます、だってさ。お祓いしてやるって言っても、もう怖くて店には顔出せないってよ」
「あ〜……なるほど」
 著莪は苦笑し、またチラリと田辺を見る。
「えっと、アタシは著莪あやめ。一応、常連かな。お宅は?」
「あ、えっと、田辺清吾です」
「清吾か。ふーん、お守りとかって持ってる? 持ってないよね、そうだよね」
 何やら意味深な顔で著莪は田辺を見てくる。どこかその目は哀れんでいるような……。
「あやめちゃんはやっぱりサターンが強いよねぇ〜。敵わないよ〜」
 どうやらゲームに勝ったらしく、あせびがカウンターにやって来た。
「あせびは他が平均的に強いんだし、サターンぐらい譲ってくれたっていいじゃ〜ん。欲張るなって。佐藤だって……あ、そうだ、明日ってあせび、行けるんだっけ? 佐藤んとこの文化祭」
「あ、忘れてた〜。店長、明日のあっちのバイトって休んじゃダメかな〜?」
「明日かぁ。もうちょい早めに言えよなぁ、も〜。……うーん、午前中だけでも出てくれると助かるんだけど……あ、田辺君はどうだ?」
「はい?」
「明日の午前中だけでもいいんだ。店内をトーナメント用に切り替えるから、ちょっと手伝って欲しいんだよね」
 正直、今の田辺の体調を考えるとあと一二時間かそこらでどうこうできるような感じではなかったが……あせびに哀願するように上目遣いで「清吾くん、お願いだよぅ〜」と言われてしまっては、さすがに了解せざるを得なかった。
「ホント〜? ワーイ、やったぁ〜! ありがと〜ぅ。……あ、そうだ、はい、あやめちゃんのお土産の林檎だよ。あっちの分あげちゃう、はい、あーん」
 そう言ってあせびはカットされた林檎の一つに、用意こそされていたものの誰も使わなかったフォークを刺して、田辺の口へと運んでくれる。ただ、身長差に加え、二人の間にはレジカウンターがあった。あせびは精一杯に背伸びをして食べさせようとしてくれる。
 田辺もさすがにこれには嬉しくなって少し前屈みで食べさせてもらった。口の中に冷たく冷えた林檎が入った……瞬間だった。
「あっ!」
 あせびの声と共に冷たい林檎が一瞬に喉の奥に差し込まれる。フォークと共に。
 田辺は反射的に仰け反りつつ、後ずさった。慌てて口の中に指を入れ、喉の奥ギリギリでフォークの端をかろうじて摘み、一気に口から引き抜いた。
「痛いよ〜、足、ちょっとつっちゃったよぅ〜」
 カウンター前に倒れたあせびは泣きそうな顔でふくらはぎを押さえる。その様子を見たらカウンターを飛び越えて抱きしめにも行きたくなるぐらいに愛らしいのだけれど……今し方、割と命に関わりかねない状況を経験した身では足が震えて動けなかった。
「あせび、大丈夫? まったく、無理するから」
 著莪もしゃがんであせびの足を揉む。その際、不思議なことに、もしかしたら気のせいかもしれないが、彼女の履いているジーンズの後ろポケットからわずかな煙が上がり始めたように見えた。
 はぁはぁ、と荒い息のままフォークを手に田辺は今一度考えてみる。確か店長は半年前ぐらいからあちらさん――幽霊的なものが出るようになったと言っていた。そして、あせびが働き出したのも半年前だと言っていた。
 そして著莪の先程のお守りについての質問……。総合して考えるとまるであせびは……。
 いや、そんなはずはあるわけがない。井ノ上あせびは天使、近々自分の彼女になるべきヒトをそんなふうに疑ってはいけない。田辺はそう思うが、しかし、手に持つフォークが彼の胸に宿った不安をかき立てる。フォークを抜く際に林檎がまるまんま胃に落ちていったせいかもしれない。
「あやめちゃん、ありがとう。もう、大丈夫だよ〜。……よいしょっと」
「井ノ上ちゃん、今日はもうあがっていいよ。明日遊びに行くんだろ、ゆっくり風呂に入って足を揉んだりしな」
「え〜、いいの〜? ワーイ、店長、ありがとう〜! それじゃこのまな板とか片付けたら帰るね〜」
 あせびがまな板の上に林檎の皮やフォーク、包丁などを載せると店の奥へと向かっていく。そのタイミングで田辺は恐らく事実を知っているであろう、著莪に、あせびについて問いかけてみた。
「あ〜、勘づいたか〜。……そう、あせびって、その、ちょっとかわいそうな子なんだよ。ついでにちょっと、そのお裾分けが周りの人にいったりも、ね……。店長は何かお寺の息子だか何だかしんないけど、あせびからの不幸をはね除けてるからいいんだけどバイトの人はちょ〜〜〜〜〜〜っと、用心した方がいいかも。あ、コレ店長には秘密にしてあげてね。あせび、ここで働くのが好きなんだ」
 田辺は全身にネットリとした嫌な汗が噴き出てきたのを感じる。そんなバカな、と考える冷静な田辺もいたが、やっぱり、と焦る田辺もいる。二つの気持ちの間で、田辺は揺れた。
 さすがに今のは怖かった。何度となく「死にてぇ」とは呟いたが、本当に死にたいわけじゃなかった。むしろ死にたくはない。生きたかった。たとえ親のスネかじりだろうが何だろうが、死ぬよりは絶対にマシだ。
 今のはまだ、うまく食道の方へ向かったから良かったものの、もしそのままフォークの先が喉の奥に突き刺さっていたりしたら……。しかも喉に林檎が来た瞬間に田辺は後ろへ下がっている。それで、フォークの終端が喉の奥にまで到達していたのだ。つまり……ヘタをしたら今の一撃で食道を突き破って脊椎に到達していた可能性も否定できない。
 田辺は再び呼吸が乱れてきて、足の震えが酷くなった。
 ……しかし、まだ、わからない。たまたまという可能性も否定できないのだ。例え半年前、あせびがバイトを始めたのと同時期に幽霊が出始めたり、彼女が注いでくれた牛乳によりトイレを懺悔室へと変えたり、彼女にあーん、としてもらったら喉の奥にフォークを突き刺されそうになったりしたのも、全て偶然の可能性が……ないわけではない。
 とりあえず、家に帰ったら落ち着いて考えてみよう。明日もバイトのようだが、あせびは朝から著莪と遊びに行くようだから接触することはないだろう。大丈夫だ。
 ふと、朝までは井ノ上あせびに会うためにここに来たはずなのに、会えないことで安心している自分は何かおかしいような気がする。頭ではまさか≠ニ思っているが、体は正直である。多分、またさっきのようなあせびの――
「あっ!」
 あせびの声、田辺の全身が硬直した。
 そして、時間が引き延ばされるかのように、全てがスローモーションに彼には見えた。
 田辺の頭は考える。あせびのその声は遠い、大丈夫だ。そう判断した。
 彼の目は意識するまでもなく声を出したあせびの姿を探す。店の奥に、いた。小さな背中。足がやっぱり本調子じゃないのか、つんのめったようにして、転倒しそうになっている。両手でまな板を持ったままそれを上に放り投げるように……林檎の皮やフォークを辺りに撒き散らすように……。
 田辺の目はアレを探す。恐らくこの場において、最もヤバイであろう、アレ。……見つからない。ない。どうして?
 あせびが床にヘッドスライディングするように転倒。林檎の皮が彼女の頭に降りかかった時、田辺の目に光が差し込んだ。
 何だ? そう思いながらその光の方を見る。天井付近、照明の光。しかし、それが何故目に差し込むのか。
 ――あった。最もヤバイ、アレが。
 著莪と店長は倒れたあせびの方へ足を踏み出す。代わりに天井を見上げる田辺は腰を抜かして、床に倒れ行く。
 田辺の視界は天井ギリギリで回転しながら綺麗な弧を描きて、彼に迫り来る果物ナイフをはっきりと捉らえていた。
 田辺は尻餅をつく。ナイフが迫る。彼はそのまま背中も床につけて完全に倒れた。目前にまで迫る、ナイフ。柄。刃。柄。刃。柄……そして、刃。
 何故……こんなことになったのか。一体どこで道を踏み間違えたのか。少なくともこれまでは最悪な日々もあったが、命の危険などはこれっぽっちもなかった。それなのに、何故……。
 田辺は声にならない絶叫を上げる。死にたくない。まだ――死にたくない!
  ザクッ。そんな音が聞こえた。
 ……どうなった……? わからない。
「痛いよ〜。転んじゃったよ〜」
 あせびの声を聞きつつ、田辺は必死に今の状況を理解しようと努めた。視界下方には、かすかに果物ナイフの柄が見える。恐る恐る指先を這わせてみると……首元にピッタリと沿うように、床に果物ナイフが突き刺さっている。
 ……生きている。
「あせび、大丈夫? あ〜、林檎の皮が……ったく。ほら、立てる?」
 田辺は身を捻って果物ナイフから体を離すと、首スジを手で撫でる。かすかに傷があった。手を見れば、かすかに赤い。薄皮一枚、切り裂かれていた。あと数センチ違えば……頸動脈である。
 しかし……生きている! 生きているのだ!
 田辺の体を、得も言われぬ安堵感……そして、充実感が満たす。そして鼓動が際限なく高まっていく。
「いいよいいよ、まな板とかは片付けておくから。井ノ上ちゃんたちはもう、今日は帰って休みな」
「店長〜、散らかしてごめんなさい」
「気にすんなって。それじゃ、ほら、鞄」
「うん、ありがとう、店長。それじゃまた明後日〜。お店のみんなも、バイバ〜イ。……あれぇ? 清吾くんがいない……あ、またトイレなのかな。店長、よろく言っておいてね〜、それじゃ〜」
 自動ドアが開く音が聞こえ、二人が出て行く足音。少ししてバイクらしきエンジン音が聞こえると、それが一気に走り去っていった。
 田辺はそれをレジカウンターで、寝転がったままただただ呆然と聞いていた。
「……あれ? おかしいな、包丁、どこいった……?」
 田辺は荒くなっていた息を整えつつ、立ち上がった。床から果物ナイフを抜いてカウンターに置くと店長を呼ぶ。
「おぉ、そこにあったか。スゲー飛ばしたな、アイツ」
「店長」
「ぁん?」
 田辺は息を吸った。
「辞めさせていただきます!」
 はっきりと、彼は言った。少しの未練も、後悔も、迷いすらなく全力で言い切った。
「俺はまだ、死にたくありません!」
 そして彼は借りていた店のエプロンを投げ捨て、店を出る。
「お、おい、田辺君……?」
 店長が呼び止めようとしているが、そんなものでは歩み行く田辺は止められない。
 自動ドアを抜け、夜空の下へ。汗ばんだ肌に秋風が心地よい。
 彼は歩き出す。半年前のようにトボトボと仕方なく歩きはしない。自らの意志で歩いた。何せ、生きているのだ。
 一歩踏み出すごとに高揚感が高まっていく。気が付けば田辺は走っていた。生きている、ただそれが嬉しかった。それが楽しかった。それが、幸せだった。
 田辺は思う。井ノ上あせびはやはり天使だったのかもしれない。ただ、ちょっと思っていたのと違って、やや堕天使の側だったのかもしれないが、それでも天使だ。
 正直二度とあんな恐怖体験はしたくないので、丸富大学に行く気は完全に失せたが……恐らくそこで学べる以上のことを田辺は学んだ。、
 生きていることはこんなにも素晴らしいのだと教えてもらった。
 過去の自分に教えてやりたかった。もし父親に「何にもしなくても腹は減るんだな」と言われたらこう答えればいいのだ。
――生きているから。
 生きているということは恥ずかしいことじゃない、素晴らしいことなのだ。
 田辺には何だか未来が開けたような気がした。全てが黄金色に輝いているような気すらした。もう明日が怖くない。今日という日を後悔しない。明日も生きているだけで、幸せなのだ。今日を生きただけでも、満足だ。
 今の田辺清吾には、そう思えた。大学を直滑降で滑りきったとしても、浪人をこじらせていたとしても、そんなものは大したことじゃない。生き死には関わらない。些細なことなのだ。一度死にかかった人間は強いのだ。
 テンションがマックスまで上がりきった田辺は走りながら両手を空に突き上げ、腹の底から雄叫びを上げた。
「今日から俺の人生、第三幕だああぁあぁーーーーーーーーーー!!」
 世界中から自分は祝福されている、そんな気がした。
 気が付けば上着を脱ぎ捨てて半裸で走っていた。風を浴びる。最高に気持ちが良かっ――。


 それから二時間後、田辺清吾は変質者として警察に取り押さえられ、そのことで世間体を気にした予備校は彼を退学処分とした。
 そうして彼の人生第三幕、二度目の半ニート生活が幕を開けたのだった。
 しかし彼は幸せだった。
 何故なら……今もなお、彼は生きているのだから。


 <了>