● 男子寮と従姉とバレンタインデー
 僕、佐藤洋にとって土曜の夜はもっとも時間の自由が利くタイミングだろう。ハーフプライサー同好会の活動も基本的にはないし、当然翌日は日曜だから授業があるわけでもない。
 だから自然と土曜の夜は寮の友人らと時間を共にすることが多く、今宵もまた僕は二つ隣の矢部君の部屋を訪っていた。彼の部屋は角部屋にあるおかげで、他よりも若干作りが広いためにみんなのたまり場的に活用されることが多いのだ。
 僕が矢部君の部屋に入ると、すでに今宵の主宰である内本君と僕同様暇そうにしていたために徴収された神田君が揃っていた。
 僕は部屋の中央に置かれているちゃぶ台を中心に、内本君らと車座になるようにして座る。
 矢部君の部屋はベッド、テレビ、備え付けのクローゼット、小物置き兼本棚になっているメタルラック、そして家主矢部君がせっせとクリックするだけのゲームをしているパソコンとそのデスク……。そしてそれらにはほんのり、くまなくホコリがかかっていて……まぁ、用は典型的な男の子の部屋であり、ここに最近太ってきたと三ヶ月ぐらい前から言い続けている神田君と小太りの内本君、筋肉質だけど妙に細い矢部君という点ホント、絵に描いたような残念な男子学生の日常が隠しようがないぐらい堂々と展開されていた。部屋の片隅に男性向けヘアカタログやらファッション誌が転がっていたりするものの、矢部君は入学当初から変わらずにスポーツ刈りだったり、彼が日頃から「ロシア系専門アダルトサイトの秘蔵動画が見たいが会員費二〇〇〇円は高すぎる」とか言っているのを知っている身からすると、それら雑誌はこの部屋にとって何の清涼剤にもなりはせず、むしろ逆に残念さ加減を強める珠玉のアクセントと化していた。
「おぅし、これで全員だな。ヤベッチ、もうギャルゲは辞めて、こっちへ来いって」
 たるんでいる頬を綻ばせ、内本君は眼鏡を掛け直す。矢部君は渋々というようにゲームをセーブして、僕らと同じように座についた。最近新しいゲームを買ったらしいので、本当はこんな哀れな集会に参加せずにプレイしていたいのだろう。しかし家主である以上、参加しないわけにはいかないため泣く泣く、といったところだろうか。
「今宵お前たちに集まってもらったのは他でもない。実は、とある同志による懇親会っつぅかキャンプが来週行われるんだが、その時に余興っつぅか、ゲームをしようと思うんだ。んで、ぶっつけ本番ってのも何だから、それの予行練習をしてもらいたくってな。あ、佐藤は参加しないんだっけ?」
 ……あぁ、僕に確認してきたってことは、あの集団か。Mの兄弟とかいう、アレだ。
「するかよ、んなもん。前々から言っているけど、僕は――」
「OK、用があるならしょうがないな。そんじゃ、ちょっと準備してくる」
 そう言ってナチュラルに僕の言葉を遮って内本君は部屋を出て行き、調理場の方へ行ったようだった。
 果たして数分の後、魔女の秘薬みたいにグツグツと煮えたぎったドス黒い液体の入った土鍋と、何故か何も入っていないのに湯気が立ち上るマグカップを持って戻ってきた。この匂いは……コーヒーかな?
「ルールは簡単。クソ熱いコーヒーを先に飲み干した奴が優勝な」
 実に微妙なゲームに呼ばれたな、と僕や神田君は顔を見合わせ、こんなものに予行練習なんか必要ないだろ、と矢部君がもっともなことを口にするが内本君は気にする様子もない。彼はそのたるんだ顔に不敵な笑みを佇ませながら、ちゃぶ台の上に「アツッ」とか言いながら四つのマグカップを並べる。どうやらマグカップはコーヒーの温度を下げないためにお湯にでも突っ込んできたらしい。
「いいか、ルールは簡単だが、他の奴に勝つためにはイジメていただきたい御方を可能な限りリアルに想像し、その御方から頂戴したありがたいコーヒーだと思って口にするのがベストだ……と、思う。本番ではここでイメージする御方の名前と、シチュエーションを各自に話して貰った上で、みんなで想像して興奮した上でスタートしようと思うんだが……ま、今はいい。よしっ、それじゃ始めるぞ。一応時間も計るからな」
 ……仕方ない、付き合うか。そう、思って熱々に熱せられたマグカップの取っ手を僕らはそーっと引き寄せる。
 うーん、ここまでガチにカップが熱せられていると口をつけた時点で唇が火傷しそうだな……。
 しかしそこさえクリアすれば、僕は猫舌というわけでもないし、そこそこいけ――。
「そんじゃ、お前ら、これを」
 内本君のポケットから取り出されたのは……ストローだった。神田君と矢部君は意味がわからずに呆気に取られていたが、とある同志≠ェMの兄弟であることを察していた僕はこれから行われるであろう凄惨な光景を予感して固まった。
 そして、案の定……。
「よぅしそれじゃ……スタートだ!」
 パァンと、内本君は手を叩くと、颯爽とそのストローを熱々のコーヒーの中に差し込んだ。
「し、白梅様、ありがとうございます! いただきまっツァアアアァッァアッァァァァァアア!! ぽふぅ、あ、ありがとうございます! アッツウァアァア!! ほわああぁぁあああさほおおおおおおお!! さ、最高においしちェゥツァアァァアアアアアァアア!! ほぉおおぉおおおぉぉ!!」
 ……まぁ、何て言ったらいいかわかんないんだけどさ。マキシマムなテンションで気色悪い笑みを浮かべた小太りがストローで一口コーヒー吸う度に、釣り上げたカジキマグロみたいに床の上をのたうち回る光景って、見ていて結構キツイよね。
 さすがにそんな狂気オーバードースなゲームに後追いで参戦する気などすでに微塵もなくなった僕ら三人は、ただひたすら内本君の口内の火傷が深刻さを増していくのを黙って見ていたんだけど、これがなかなか終わらない。まぁ熱々のコーヒーをストローでマグカップ一杯なので当然といえば当然なんだけど、飲み干さなくても途中で内本君が諦めるかな、と思っていたのに彼は一心不乱にコーヒーを飲み続けるばかりで、結局最後の一滴まで飲み干すに至るのだった。
 いやぁ、もう終わったら終わったで今度は内本君のボディがヤバイことになっていた。熱さに悶えてかきむしった髪の毛はボッサボサだわ、全力でのたうち回っていたせいで汗だくだわ、途中で服の上にこぼしたコーヒーの熱さから逃れるために半裸になっているわ、目は虚ろだわ……うん、何て言うか、部屋に一人だけサウナから出てきた中年のオッサンがいるぐらい、わけのわからない状況だった。
「ハァハァ……どうしたぁ、みんな?」
 荒い息で内本君が言うんだけど、生憎と今の彼に応えるべき言葉を僕たちは持っていない。ただ、ゴミを見るような目で見つつ、普通にマグカップからコーヒーをすするのみだった。
 それは安物のインスタントコーヒーらしく、妙に強い酸味があって、あんまりおいしくはない。
「何だよ、お前ら。こんなことでビビっててどうすんだよ。そんなだから日本はダメになるんだ。最近の若者は積極性が足りないな、マジで。イジメていただくのを待つだけでなく、自分から進んでイジメていただきにだな……」
 まぁ、内本君なので今更どうこう言う気もなく、矢部君はギャルゲに戻り、僕と神田君は適当にドMの持論を延々と聞き流す作業に入った。
 しかし、内本君はあることを口にした時だけはさすがに気になり、僕と神田君は怪訝な顔をした。
「そんなんだから韓国に遅れをとっちまうんだよ!」
「……何だよ、それ」
 神田君が訊くと、内本君はペチンと胡座をかいていた己の膝を叩く。
「おうおう、良く聞いてくれた。実は今度の懇親会で行う個人発表の論文部門にそれに関してエントリーしてんだよ! いやぁ、韓国は進んでるぜ? アイツ等全員真性のドM!! マジハンパねぇよ!!」
 ……いやぁ、なんつぅか、サラッと場の空気が重くなったね。マジで。軽快なクリック音を響かせていた矢部君の左手がピタリと止まったもの。この手の発言が許されるのはすでに神々の領域に達している江頭さんぐらいなものだ。
「落ち着け、軽い国際問題のトリガーを気兼ねなく引くな。お前は一体何を言っているんだ……」
 神田君がマグカップを置きながら言うと、僕もそれに続ける。
「……あ、あぁ、あれか、韓国の海兵隊のことか。ベトナム戦争時、彼らの戦果は米軍の三倍前後もあって、ジャングル戦での実力はマジハンパねぇってウチのジイさんが良く言っていたけど」
「そんなつまんないもんじゃないって。このストローのゲームの案だって韓国をリスペクトしたんだぜ? 追いつけ追い越せってさ」
 内本君曰く、韓国のカフェではホットドリンクであってもストローがついてくるのだという。あの某スター何とかいう日本でもお馴染みのカフェの韓国支店もそうであり、これは即ちそこで自分好みのイジメていただきたい方から受け取ることによって、火傷という名の快楽を以下略。
「まぁ、確かに国民全員ってのは言い過ぎだったか。訂正しよう。カフェに行く若者は全員が――!」
「いや、それだけで十分ヤバイ。っつぅかそもそもストロー使うとか危険なマネするわけねぇって。火傷するだろう」
「おいおい、神田、オレの言葉を信じろって。ヤベッチ、検索してみな。オレの言葉が真実だってわかるはずだ」
 内本君以外の僕ら全員が「何をバカな」と呆れるのだが……。
「うぉ! 神田、佐藤、コイツはマジな話だ! マジであの国のカフェ、ストローがついてきやがる!!」
 矢部君が声を上げた瞬間、僕たちは「なっなんだってェーー!?」と声を上げた。
「だから言っただろ。あの国でカフェに行く若者は全員が真性のド――」
「佐藤、矢部、話題を変えるぞ!! このままだと俺たちの身が危ない! 消されかねん!!」
 何故消されるのか純朴な僕はにはわからないが、神田君は颯爽とドイツの偉大なる哲学者イマヌエル・カント及び彼の著書である『純粋理性批判』について語り出す。が、いかんせん、他のメンツはその話題についていけない。哲学系の話といえば漫画やアニメで呆れるほど使い古された『シュレディンガーの猫』とか『コギトの命題』の基本概要ぐらいなもので、カントといえば名前こそ有名でテストにも時折登場するが、その中身となると一般的な日本の高校生にはキツイものがあった。
 何故いきなりストローからこんなぶっ飛んだ話を始めたのか。語り手の神田君の真意は定かではないが、可能な限りヤバイ話題から離れようとした――即ち、話題のコペルニクス的転回を行おうとしたがためにその単語を遡る形で提言者のイマヌエル・カントへと結びついたのかもしれないが、そこで微塵の停滞もなくややっこしい彼の著書について語れるこの男の隠れたスペックに僕は驚異を覚えた。
 だが、それ以上その話には興味が持てなかったので彼の軽快なトークをBGMに、僕は矢部君のPCに表示されていた例の韓国の件について詳細を読んでみる。
 それによれば確かに韓国のカフェでは細いストローがつくらしい。しかしながら、これはどちらかといえばストローそのものというより、数年前よりマドラーの代わりとして添付されるようになっただけで、必ずしもみんながみんなそれを使って飲むというわけではないようだ。何より吸い口がやたらと細くなっているため、チビチビとならそこそこ飲めるようだから、内本君の書いた論文は誤りであり……間違ってもそういうプレイに使うための品物ではないだろう。
 日本でいえばルーズソックスを見た外国人が『日本の若い子はゴムがダメになって、サイズも合っていないソックスを平然と履いている。日本人は全員スゲェ貧乏に違いない』といっているようなものだ。
 僕は神田君を押しのけて半裸のドMにそう伝えるのだが……。
「そういう見方もあるのかもしれないけどさ、多分それは世間を騙すためのフェイクだな。エキサイトしたくなった時にそうやって当たり前≠フこととしていれば極自然に街中でフォゥ! って出来るわけで――」
 内本君は人の話なんて聞こうともしなかった。
 もしかしたら神田君が唐突にカントについて語り出したのは、ストローを使って飲むと熱くて火傷してドMは楽しい≠ニいう経験及び事象に依存する前に、先立つものとして多くの国民がドMであるはずがない≠ニいう自明的な認識――つまり、カントが用いたかの有名な用語、アプリオリ≠ネ概念が頭から抜け落ちているぞ、という地獄のように遠回しかつ難解な警告を内本君に発しようとしていたからなのかもしれない。……正直、あっているのか誤っているのかもわからないうろ覚えの知識と回りくどい話の流れに僕自身混乱してきて何を言っているのかわからなくなってきたけど、とりあえず神田君は無駄なポテンシャルを秘めていて内本君の性癖と思い込みはヤバイということは痛いほどよくわかった。
 このままでは、話題が変に小難しいのに全体としてみると果たしてしなくグダグダな討論という、中途半端な夜の時間帯にありがちな後味の悪い展開を誰もが予期していると、家主の矢部君が一声上げた。
 ……まぁ、単に神田君の語りに飽きた内本君が、汗だらだらの半裸のままで矢部君のベッドの上に寝転がろうとしたので、必死に止めただけなんだけど、とりあえず、それを切っ掛けに今夜はお開きとなり、内本君は土鍋を持って、部屋を後にした。
「まったく、これだから変態は困るんだ」
 矢部君はそう愚痴りながら再び、クラスの女の子全員の使用済み靴下を手に入れるとクリアという変態を絵に描いたようなギャルゲの攻略に戻る。
「……それ、楽しい?」
「あぁ、今までにない斬新な切り口も魅力ながら、とにかく靴下オンリーにこだわった制作陣の本気が感じられる名作だな。しかもストッキングやニーソではなく、あくまで靴下のみってんだから、そのこだわりはスゲーよ。……昨日攻略した娘のゲットシーンは最高だったぜ。椅子に座ったその娘から主人公が直接靴下を脱がせ、それを即座に密閉保存するシーンとかは全年齢対応ゲームの限界に挑む最高のエロさがあったね」
 僕と神田君は内本君が残していった酸味の強いコーヒーをすすりながら、互いに顔を見合わせた。多分同じことを考えていたのだろう。
 何故女の子本体にそのゲームの主人公は興味を持たないのか、使用済み靴下を保存して一体何がしたいのか。……そして、女の子から直接靴下を脱がすという行為は……なるほど、ちょっとわからないでもないな……と。何だか、奥深いエロスを片鱗を感じる。
「今攻略している子は普段はニーソで、性格も奥手だから難しくてな。だから時間をかけて好意ポイントを上げて、二月のバレンタインデーに靴下をプレゼントしてもらうという方法しかとれん」
「それ、普通にチョコとか貰った方が嬉しくないか?」
 神田君の至極真っ当な疑問に、矢部君は鼻で笑った。
「……神田よ、お前はわかってないな。バレンタインデーにチョコを貰うとか、リアリティってもんがねぇよ。そんなのフィクションの世界だけの話じゃねぇか」
 あぁ……矢部君……。
 短い言葉の中に、彼の切なすぎる人生が垣間見えた気がした。っつぅか、彼の中ではチョコを貰うのは非現実的て、靴下を手に入れるのは現実的なのか……。過去に何があった……?
 さすがにそれはおかしいだろう、そう言おうとしたのだけれど、コーヒーをゴクリと喉を鳴らして飲んだ神田君が先んじる。
「なるほどな、確かにその通りだ」
 おいっ。僕は思わず至極マジメな顔をしている神田君にツッコむ。すると何故か矢部君と二人して睨まれるのだが……。
「佐藤はいいよな。あんな金髪碧眼の従姉がいるんじゃ、義理チョコぐらいは毎年貰えるんだろ。俺たちはせいぜいが母親だぞ」
「うちなんてバアちゃんが毎年くれるから、逆に泣きたくなるレベルだ。そんな時、お前は……」
 二人からの非難の目が恐ろしく痛い。嫌悪感丸出しというか……。
 僕はコーヒーを飲むことで一旦自分を落ち着けた。
「まぁ、確かにそうだな。著莪はともかく、僕は君たちとは少し違う。……でも、結果的には同じようなもんだよ?」
 そう、僕にとってバレンタインデーというと彼らとは違った意味ながら、同じようにため息の出る日なのだった。何せ来月のホワイトデーにお小遣いでちゃんとしたお返しが出来る程度に、貰うチョコの数を調整しないといけない。けれどそれはどだい無理な話。
 登校すれば下駄箱からはチョコが溢れ、教室に行けばクラスのマドンナであり、そして現在はアイドル業を営んでいる広部さんを筆頭に女子からの本命チョコと愛の告白のために女子が列を成す。過激な娘になると自分にリボンを巻いて「私を食べて……」って来るんだから、もう大変だ。
 ふぅ、やれやれだぜ、と僕は『ジョジョの奇妙な冒険』でお馴染みの、丈太郎の口癖を一人マネをしながら憂鬱な時間を送る……それが僕にとってのバレンタインデー。
「っていう、嘘だろ?」
「……うん」
 ペシペシっと神田君たちから一発ずつ僕は頭を引っぱたかれた。
 本当は、帰り際に広部さんがやって来て「今夜はあなたのベッドの上で歌わせて……」と言い寄ってくるものの、それをクールな僕は「ベッド? バカだな。……僕の上で、だろ?」と彼女のおでこをピンっと指で弾き、暗に今宵のプレイスタイルまで提示するというハードボイルド&エロスな巧みな展開を予定していたのだけれど、神田君のツッコみが意外に早かったのが残念でならない。
「いや、でも、そうは言っても……僕だって、著莪からチョコなんて貰ったことないよ」
 矢部君たちはコソコソと僕の言葉の真偽を議論し始めた。今し方のホラ話があったせいで信じてもらいにくいのかもしれない。
 ……しかし、僕が言ったことは本当だ。生まれてこの方、著莪から貰ったことはない。むしろ、クラスメイトから貰った大変貴重な義理チョコを奪われて喰われているぐらいである。
 そのことを言っても神田君はまだ疑いを持っているらしく、ちゃぶ台を挟んで彼の真剣な眼差しが僕を射抜く。矢部君はモニターの方に顔こそ向けていたが、ゲームを一旦中断し、取調室の書記官のようにこちらに耳をそばだててる。
「……それはおかしいな。身近にあんな娘がいたら、チョコの一つや二つ要求するのが普通ではないかね?」
「……妹や姉にそんなこと、しないだろ……」
 ドンッと矢部君がパソコンデスクを叩いて立ち上がる。
「オレの妹や姉はモニターの向こう側にしかいねぇんだよ!! こっちにいるのはクソみてぇな男兄弟だけだコンチクショウが!!」
 落ち着け、と、神田君が錯乱した矢部君を宥めて椅子に座らせると、ゲホンゲホンと、わざとらしい咳払いをした。
「……しかしだな、佐藤よ」
「あぁいや、あの疑いたいのはわかるけど、ホントなんだって。ほら、著莪の母親はイタリアで生まれ育ったからその影響もあって、日本的なバレンタインデーはウチじゃやらないんだよね」
 バレンタインデーに女性が男性にチョコを送るというのは日本独自の文化で、良く言われている『戦後のお菓子会社の陰謀云々』っていうのはあながち嘘じゃないらしいのだ。
 その点イタリアはバレンタインデー発祥の地であり、その文化は第二次世界大戦どころかローマ帝国時代にまで歴史を遡ることが出来る。
「……ってわけだから、どちらに従うかとなれば、当然歴史ある方が優先されてさ。……だから、その疎外感を覚えるような冷たい目で見てくるのは辞めてくれ……」
 矢部君は僕の発言を記録……ではなく、裏付けを行うためにスタタタと華麗なタイプ音を響かせてネットで検索を行った。神田君と視線を交わして、頷き合ったところを見ると僕の無実は証明されたらしい。
「なるほど、確かにイタリアではあまりチョコのやりとりは行われないようだ。……疑って悪かったな、佐藤。てっきりお前は裏切り者かと思っちまった」
 神田君は腕を伸ばして僕の肩をポンポンと叩くと、今度は反対側の肩を矢部君が叩いてくる。
「そうだな、もしかしたら、そう遠くない内にオレの親戚になるかもしれない佐藤を疑うなんてバカげていたよ」
 ……コイツ、まだ著莪を狙っていたのか……。
「……とりあえず、わかってくれたようで何よりだ」
「しかし、そう考えるとそれはそれで寂しいバレンタインだな。まるでお預けくらった犬みてぇ」
「いや、あのさ、僕が他のクラスメイトとかから貰っているっていう可能性は考慮されないわけ……?」
 矢部君フッと笑うと、再び体をモニターへと向けた。
「お前はオレたちと同じ目をしている。疑うものか」
「嫌だな、それ。っつぅかさっきまで疑っていただろうが。……まぁ、あながち間違ってないけど」
 ほらな、と、矢部君は鼻で笑った。
「オレたちにとっちゃバレンタインデーにチョコなんてフィクションの世界さ。ドキドキワクワクもクソもない。もうアレだ、いつも半年前から悟っていたからな、今年もないって」
「随分早いな、おい。俺でも悟るのは一ヶ月前ぐらいだぞ。ただ、それでも義理ぐらい貰える時もあるだろ。ホラ、大袋入りの小さいチョコ一個とかもらったりとかしなかったのか?」
 ……何だろう、神田君と矢部君の話を聞いていると何だか切なくなってきた。目くそ鼻くそ、という言葉があるが、まさにそれだ。
 僕はため息と共に、口を開く。 
「でもまぁ、確かに僕もあんまりいい思い出ってないなぁ。毎年微妙で、ドキドキワクワクも無かったし。田舎だからさ、小中学校でメンバー変わらないんだよね。だから、サプライズな展開ってのがあんまりにもなくって。強いて言えば……」
 そう、唯一バレンタインデーらしいバレンタインデーといえば、卒業を一ヶ月後に控えた中学三年生の時だろうか。
 今まで九年もの間一緒にいた同級生たちがもうすぐバラバラになってしまう。その前に曖昧な関係をはっきりさせたいと、女子が動き出すんじゃないか。そんな根拠のない憶測というか、淡い祈りが男子の中で噂されたのだ。バレンタインデーで告白すれば、仮にその後違う学校に行くのだとしても一ヶ月は同じ学校内で会えるのだ。卒業式に告白するより……その、なんというか……ちょっとお得感がある。
 僕たちは期待した。特に中学卒業と同時にアイドルとしてデビューしてしまう広部さんからのチョコを渇望した。何故か赤井ちゃんという彼女がいるはずの小口君までさりげなく期待していたぐらいだから、当時も独り身だった僕たちの気持ちがどれほどのものか、覗い知れるというものだ。
 あの、二月一四日。某三人組テクノポップユニットの歌じゃないが、まさに戦いの日が来たのだと、僕たちはホラ貝を吹き鳴らさんほどの気炎を上げて朝、登校した。少しでも女子との接触時間を多く確保するため、特に打ち合わせも何もしていないのに、何故か男子全員がビックリするぐらい早い時間に登校していた。僕の場合はいつものように著莪と登校すると、さすがにチョコを渡そうと数日前からドキドキが止まっていない未来のワイフに失礼だな、と思って早めに一人で登校したのだけれど、まさかの他の連中まで同じことをするとは思わなんだ。気が付けば朝七時ちょい過ぎぐらいの段階でクラスの男子が勢揃いしていたからね。しかも高校入試が終わった反動もあってか、全員が色気づいて異様に身支度を調えすぎてしまい、石岡君とかヘアスプレーでパキパキに固めたベッカムヘアに生まれて初めて無謀にも挑戦したものの……当時の彼は髪がやや長かったせいなのか、横から見ると鶏のトサカ、正面から見れば何故か某国民的漫画の永沢君にしか見えず、僕を笑い殺す気かと思った程だ。他にもバレンタインなんて興味がないと不必要に以前から言いふらしていた加戸君は何故か朝からHRが始まるまでの間、片方の手をポケットに入れてクールな眼差しで窓から外を眺めていたり、普段はボタンというボタンを全て締めていたりする生真面目以外の取り柄が見つけられない鶴島君が制服を着崩してちょっと悪ぶろうとした結果ハードな同性愛者に襲われた哀れな被害者みたいな有様になっていたり、極めつけは何故かポマードでガッツリと七三分けに眼鏡というカッコイイと思ってやっているのか体を張ったギャグなのか実に微妙なラインをリンボーダンスするようなギリギリ感で現れた小口君だろうか。落ち着いて考えてみるとどう考えてもギャグなのだけれど、先に本気であるが故に笑えた石岡君を見た以上、小口君程度では素直にギャグとは受け取れず、彼女がいる余裕から格好良さよりも爆笑を巻き起こそうと余計な事を企んだ結果、本気で痛々しい事態に陥ってしまって、ビックリするぐらいブルーになってさらに笑えなくなるという悪循環になっていたっけ。
 お互いに相手の下心が透けて見えていたせいで、いつものような賑やかな会話はクラスのどこにも生まれず、教室内は一種異様な緊張感が満ちた天下一武道会の控え室みたいになっていた。
 その異様さは女子の中で最初に登校してきた江藤さんが教室の扉を開けた瞬間にガタッっておののき、広部さんは入室と同時に「……なにこれ、キモ」とか愛らしく口にし、いつもなら確実に一つ一つに爆笑するであろうあの著莪でさえ、その男子のマジ具合に笑って良いのかどうかを躊躇う領域へと達していた。
 まぁそんな感じで一日が始まり、義理チョコを配り始める武藤さんらに砂漠でオアシスを見つけた遭難者がごとく群れるグループと、加戸君を筆頭とした「そんなの興味ねぇよ」系のクールぶったグループの二つに分かれて互いを軽蔑しあったり、斉藤君や小口君のような彼女持ちのグループが昼休みに彼女と教室を出ていくのを殺意を込めて見送ったり、広部さんの近くを不要にウロウロしたりする僕のようなナイスガイが多数現れたり、放課後近くになると慣れないセットをした頭をつい気にして触ってしまったのか、スプレーのカスが大量のフケのようになってしまった石岡君がやたらとブルーになって、無自覚に永沢君の再現度を跳ね上げたりしていた。あと、一度離れ、その後席に戻ってきた時は誰もが何気なく机の中を手探りでチョコの存在を探し求めたのだけれど、よくよく考えると当時の僕らは置き勉しまくっていたので、チョコなんて入るスペースがあるわけもなく、置き勉に関して初めて後悔したのを覚えている。
 そんな僕らにとって一番の勝負所は……言わずもがな、放課後だった。もう、ね。誰も帰らないんだよね。授業も掃除も終わっているのに不自然に教室に残ったままだった。いや、強いて言えば彼女持ちの連中は帰るんだけど、そうじゃない奴はテコも動かぬという決意を示すかのように無理矢理に用を作って教室にとどまっていて、酷いのになると「日本の政治は腐っている。何故政治家はあぁも国民や日本という国を利用して私利私欲を醜く求めるのだろう」と、過去に一度とて考えたことがないであろう日本の未来を憂うことによって、カッコつけと居座り続ける理由の一石二鳥の手段を執る奴までいる始末だった。僕だけど。
「あぁ、わかるなぁ。淡い期待を抱いて学校にしがみつきたくなるんだよな」
 神田君が僕の昔の話に同調して頷いてくれる。
「結局、その時もダメだったけどね。一応靴箱の中を確認したけど何もなくって、奇跡を信じて外靴の中敷きの下まで調べたけど、チョコはおろか手紙もなかったよ」
「佐藤は素直に諦めるってことを覚えるべきだな」モニターを見やっていた矢部君が笑うように言った。「オレなんて授業が終わったら躊躇いなく帰ったぜ。起こりもしない奇跡にしがみつくより、堅実な己の道を行くべきだ」
「いや、それはさすがに諦めが良すぎるって。……まぁ、どの道チョコや手紙があったとしても横に著莪いたんじゃ多分――」
 神田君がコーヒーを飲み干すと、「横?」と首を横に捻った。
「いや、僕が真に美しい政治とは何かを教室で一人呟いていたら、著莪にまた捕まっちゃってさ。それでその時も一緒に帰ったんだよね。……僕の予定じゃ広部さんからチョコを貰って、著莪に、今日は一人で帰ってくれ、って言うはずだったんだけど……」
 朝はともかく、僕と著莪は普段から一緒に帰宅しているわけじゃないのだけれど、バレンタインデーだけは大抵一緒だった。
 というのもイタリア式に行う著莪家では未だに著莪パパと著莪ママはこの日は仕事を休み、互いにプレゼントを用意して、娘がうんざりするぐらい朝から晩までイチャイチャしているため、毎年バレンタインデーの日、著莪は自然と僕の家の方に身を寄せていた。
 ちなみに佐藤家の方は、親父は大抵仕事でいないし、母親は「バレンタインは特別イベントが開催されるから、絶対外せないよね! クランのみんながネネのことを待ってるの!」ということで日がなネットの向こう側の世界にいるため、実質家には僕らだけとなるのだが……これがまた辛い。
 あくまでイタリア式ということで著莪は大抵僕に本かCDとかを用意してくれるんだけれど、僕はといえば無論、予定では広部さんと著莪パパ&ママに負けないぐらいラブラブしているはずなのでプレゼントなんぞ用意していないのだけれど、それはそれで彼女の欲しがる物をお小遣いの限り無条件で購入、そして最後に夕食まで僕が支払うことになり……財布が一〇〇%の確立で空になるのだった。結果的に恐ろしく高い本やCDとなるけれど、事前に著莪へのプレゼントを用意すると、さっきの矢部君じゃないが、初めから負け戦を前提とするようで何か嫌だった。
 ……ただ、これはまぁ、いい。まだ理解出来る。しかし、本当に意味がわからないのは僕らの間で二月一四日はイタリア式、だが三月一四日は何故か日本式だということだった。というか、ホワイトデーというのは実は日本発祥の文化だからバレンタインデーを非日本風でやるのなら、ホワイトデーなんぞ行う必要なんてないはずなのだけれど……。まぁつまり、二月に著莪にいろいろ奢ったあげく、三月にもプレゼントを送らないといけないという……何か悪い詐欺に引っかかっているような二重搾取が何の疑いもなく行われていた。
「……物心ついた時からそういうもんだって教えられていたから、中学に入るまで疑いすらしなかったよ。著莪も同じようなもんで、そうされるのが当たり前だっていう感じでさ……。だから、あんまりバレンタインは良い想いでがないっていうか、僕の財布がリセットされる日でホワイトデーは……」
 佐藤よ一度口を閉じろ。神田君が言うなり、立ち上がり、モニターを凝視していた矢部君の肩を叩く。
「……同志、矢部よ、お前はどう思う?」
「一つ学んだよ。胸に沸き起こるこのタールのように粘つき、ドライアイスよりも冷えきり、マグマよりも熱く煮えたぎるこの感情……なるほど、これが殺意というものか」
「うむ、そうだ。それが殺意だ。……バレンタインの日、鏡の前でいつも以上に身だしなみを調えている息子を遠目に見守る不愉快極まりない家族の生暖かい視線、チョコを貰ったイケメンが放つ優越感に押し潰されそうになりながら授業を終えて帰宅すれば、無遠慮に貰ったチョコの数を聞いてくる母親のナイフよりも鋭利な質問、自分が今こうして一人でいる時にクラスメイトのアイツはあの娘と……そんなふうに考えて身悶えする己への情けなさ……。俺たちが共有するべき感情をこの佐藤洋という男は……」
「出て行きな、佐藤。ワイルドドッグの巣に首輪付きワンちゃんの居場所はないぜ」
「……な、何だよ、その妙に頑張った台詞回しは。勘違いされてるみたいだけど、以前言ったように僕らは双子の姉弟みたいな感じで……」
 僕が弁解しようと立ち上がると、それに合わせるように矢部君が椅子から立って、そっと僕の肩に手を置く。彼の目は優しく、視線は遠かった。
「例えそれがどのような関係であれ、同年代の女子が横にいるということがどれほど恵まれたことか、お前はそれを今晩考えるべきだぜ。さぁ、この部屋を出て行くんだ。オレがお前を殺す前に……」
「……何故に……」
「いいか、佐藤。さっき検索した時に出てきたんだがな、日本以外の国でバレンタインってのは、いうなれば恋人の日≠チて意味なんだよ」
 矢部君の言葉を、神田君が引き継ぐ。
「もしくは、愛し合う者の日=c…意味が、わかるか」
「まぁ、家族愛的な――」
 最後まで言い切る前に、僕は強制的に廊下へ追いやられていた。目の前でバタンと矢部君の部屋の扉は閉められ、ガチャリと鍵を閉める音が聞こえた。
 もう時刻も遅いから別に追い出されるのはいいんだけど、神田君が中にいることを考慮すると深夜の男子寮の角部屋で、男二人だけの部屋の扉の鍵をロックするというのは、その、何だ。……白粉を連れてきてやるべきだろうか。
 明後日、月曜日になったらアイツにこのことを話してやろうと僕は心に決めた。
「おぅ、佐藤もやっぱ追い出されたか。まぁ、オレたちのような先進的な性癖は一般ピーポーにはまだわからんよな。まったく、Mの道は茨の道だぜ」
 ぶぅわはははは、と、土鍋を洗っていたらしい半裸の内本君が笑っていた。変態か。


 シャーッという軽やかな音がして、光が差し込んできた。カーテンが開けられたらしい。
 うぉお〜……と、太陽光を浴びて朽ちていくヴァンパイアのような声を出しながら、僕はベッドの上で目に手をやりつつ、もがく。
「オッス。もう昼過ぎだぞ、起きろよ〜」
 そう言って瞼を開け、かすむ目で声の主を見やれば……パーカーに細身のダメージジーンズ姿の著莪が何故か僕の部屋にいた。……凄いデジャヴを覚える。
 半年前と違うといえば今日はニット帽を被って、そこに金髪をを押し込み、手にはジュース類が入ったレジ袋を持っているぐらいだろうか。
 っつぅか、コイツ、本当に毎回どうやって僕の部屋に侵入しているんだ……? 男子寮は魔境、二つとなりには矢部君という野獣がいるというのに。
「佐藤、寝過ぎじゃない?」
「昨日、夜にコーヒーたっぷり飲んじゃってさ。それで……」
「ふーん。でも起きなって、折角遊びに来たんだから」
 そうは言われても……と、ぼやきながら僕はまた布団を被り直し、瞼をゆっくりと閉じようとするのだが……著莪の片足がスっと持ち上がり、布団の隙間から入り込んできて……。
「オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラ!」
 著莪の足先が僕の横っ腹をグリグリとやってくる。身悶えしながら僕は呻いた。
 靴を履いているわけではないので別に痛いわけじゃないが、寝起きでたるんでいる体にはいささかキツイ。
 空を捻って著莪の足から逃げようとするも逃げられず、体をくの字に曲げて著莪に攻めを腹に続ける。何とか止めようと彼女の足を両手でつかむのだが……いかんせん寝起きなので力が入ら――ぅぐ!?
「オラオラオラオ……おっ?」
「ちょっ、がっ! ……著莪、朝はダメ……やめ、やめろって」
 体をくの字に曲げていたせいか、それとも腹が苦しいとして著莪の足を退けようとしたせいか、自然と彼女の足先は僕の下腹部へ。
 ……いかんせん寝起きなのでソコには力が入っていて……その、ね。うん。男の子の朝の風物詩と言っても過言ではない生理現象なのだけれど、それが今、著莪の足の指の間で「これ、なんぞ?」というように器用にニギニギされていた……。
「お、起きる、起きるから……それはダメ……」
 布団の下のことだったので、最初は向こうも自分の足先が何に触れているのかわからなかったようだが、僕のリアクションと足先の感触で察しがついたのか、眼鏡越しの蒼い目がニヤリと歪曲して「……ふーん」と、不安になることこの上ない呟きが漏れる。
 彼女のイタズラ心たっぷりな笑みに僕は引きつった笑みを浮かべ、相変わらずニギニギされ続けるアレの感覚に耐えるのだが……怖い。
「オラァ!!」
 トドメというように、著莪が強烈に一撃を僕のエクセレントなポイントにダイレクトな……アバババババババババ。
 ひぎぃ! と声を上げて悶絶する僕をよそに、著莪は足を布団から引き抜くと、限界まで仰け反りつつも満足げなその顔は僕に向けたままで、ビシッとこちらを指さす。
「やれやれだぜ」
 ……この一連のやりとりについてよくわからない方は、是非ともジャンプコミックスより好評発売中の『ジョジョの奇妙な冒険シリーズ』をご覧いただきたい。
「……うぐぉおおあぁおぉ……」
「ホラ、佐藤、もう目が覚めたでしょ? ゲームしよう。お菓子も買ってきたし」
 自分が男の子にとってどんな苛烈なことをしたのか理解していないのか、彼女は悪気なくニッコリと笑って手にしていたレジ袋を持ち上げてみせるのだった。
 股間を押さえてうずくまる僕を尻目に、著莪が言うには、今夜あせびちゃんのバイト先である『フォローミー』というゲームショップで今夜大会があるのだという。ソフトはセガサターンの『X-MEN VS. STREET FIGHTER』。これに参加するので、僕に練習相手になれ、ということらしい。
「……でも、僕んトコに4メガRAMカートリッジも、ソフトもないけど」
 何とか刺激から復活した僕はベッドの上で下腹部に布団を掛けた状態であぐらをかきつつ、言った。刺激から復活しても、今しばらく元気であるが故……うん。
「そこは大丈夫。ちゃんと用意してきた」
 著莪はまるで自分の部屋のようにサターンを用意すると、レジ袋の中からソフトとRAMカートリッジを取り出して、セットしていく。
 実はこのソフト、サターンだけでは遊べない。ゲームとして知らぬ者のないストリートファイターと、アメコミでは知らぬ者のいないエックスメンのキャラクターがタッグを組んで戦うという、当時としては信じられないような豪華仕様であり、交代制ながら1ラウンドに四人のキャラが入り交じり、華麗かつ過激なバトルが展開されるため、サターン単体のマシンスペックでは処理しきれないのだ。そのため『足りなければ足せばいい!』というセガの伝統に乗っ取り、通常はパワーメモリーを差し込んでいる部分に、RAMカートリッジをぶっ込み、マシンのパワーを増強することによってロード時間ほぼ皆無、処理落ちしない等々、ストレスなく、アーケードの興奮そのままに家庭で遊ぶことが出来るという、ユーザーの度肝を抜く高い移植度だった。特にこのソフトは4メガRAMカートリッジ対応ソフト第一弾であったことを考えると、それがどれほどの衝撃だったか伺い知れるというものだろう。
「ワンラウンド制の勝ち抜きトーナメント戦、時間は99秒、モードはノーマル。選択キャラクターはストリートファイターとエックスメンの双方から一人ずつ選び、トーナメント中のそれらの組み合わせ変更は認めない、豪鬼はなし……ってとこかな」
 著莪が僕にコントロールパットを手渡しながら言うと、ベッドの縁に体を寄りかかる。彼女が被っていたニット帽を取ると、バサリとそのボリュームのある金髪が現れ、それだけで男子寮では発生し得ない匂いが僕の部屋にかすかに香った。
「コンボは?」
「え〜っと、倫理に反しない限りは基本何でもアリ」
 とにかく派手なこのゲームは、それに比例するように若干ゲーム性に大味なところがあり、一度入ると抜け出せない……つまり永久コンボが存在している。もちろん、よっぽど気心の知れた相手でもないと使った瞬間から場の空気が悪くなるため、大会のようなことをやるならその辺りのルールはしっかりとしておく必要があった。
「アタシは練習だからケンとウルヴァリンのキャラ固定で、佐藤は出来るだけいろんなキャラ使ってよ」
 ……何だよ、著莪の奴、遊びに来たんじゃなくって、本当に大会の練習相手をさせに来たのか。お菓子とか持ってくるなんて珍しいなと思ったんだよな。
「んじゃまぁ、とりあえずスタートっと」
 寝起きの上に股間に一撃喰らった僕のコンディションなど完全スルーで、著莪は楽しげにゲームを始めるのだった。
 
 来週に両親と温泉旅行へ行くという彼女の話を聞かされたりしながら、一頻りのプレイの後、一旦休憩ということになった。著莪は昼飯、僕は朝食だ。
 彼女が買ってきたのはソーダ系のドリンクが二つと、一〜三〇円の駄菓子がたくさん、そしてエクレアが二つ。……本当にお菓子だけだな。
 エクレアはカスタードクリームとチョコクリームの二種。どちらを食べるかは僕に選ばせてくれるらしい。
 どうしようっかなぁ、と迷っていると、ベッドの縁を背もたれとしている著莪が「そういえばさ」と体を反らすようにして、ベッドの上に座っている僕を見てくる。
「昨日、遅くにコーヒー飲んだって、テストとか? アタシらんとこはそろそろだけど」
「中間ならもう終わったよ。昨日は、ほら覚えているかな。あの文化祭で『神田フライヤー』って出店やってた連中と、内本君っていう稀代のドMが……」
 簡単に内本君の変態的ゲームと彼の考察を話しながら、僕はチョコクリームタイプのエクレアを選んだ。
「……うわぁ、ひでぇ……」
「まぁ、いつものことと言えばそうなんだけど。……あぁ、そうそう、その後なんだけど……」
 チョコの方のエクレアを選んだせいか、僕は自然と昨夜の矢部君たちのこととバレンタインについて触れつつ、エクレアに齧り付く。
 見た目よりは重いそのシュー生地はしんなり。上半分ほどの表面をやや厚めにコーティングしているチョコレートに歯をはわすとパリパリと心地よい歯触りをで砕け、中のクリームに到達する。先程見た目より重いと感じたように、中のチョコクリームはたっぷりで、まるでシュー生地の中に入っている、というより、チョコクリームの器としてシュー生地があるようにさえ思える。
 噛みきると口の中でむにゅっと生地に包まれていたクリームが溢れ出した。ホイップされているそれは甘すぎて重過ぎることもない、少しビターで軽くしっとりとしたチョコレートクリーム。胃もたれなぞ知らない子供の頃とかにあるけれど、チョコケーキのクリーム部分だけ口いっぱいに頬張りたいっていう夢、それを叶えさせてくれるような食感だった。
 しばらく口をもにょもにょしていると、シュー生地の表面を覆っていた厚いチョコ部分が口内で溶け始め、チョコレートクリームとは正反対の濃厚でコクのある甘いチョコの風味が口の中に現れ始める。
 徐々に変わっていく味わいが楽しい。
 炭酸水より牛乳……いや、熱いブラックコーヒーがあいそうなエクレアだ。おいしくて、充足感のある一品だった。
「……それで慌てて弁解しようとしたら、その前に追い出されたんだよね。もう、ね。それこそ、やれやれだぜって感じで……著莪?」
 カスタードのエクレアを食べ終えた著莪が相変わらず仰け反るようにしてベッドの上の僕を見ているのだけど、何故かその顔がニンマリと嬉しそうに、しかし見ている側が不安になるような微笑みを浮かべていた。
 彼女はベッドの上にはい上がってくると、あぐらで座っている僕に、後ろから抱きついてくる。そして、肩に細い顎先を載せるように、頬をすり寄せてくるのだけれど……。
「ナニナニ……。まだ一一月じゃん。それなのにそういう話するって、今からそんなに不安?」
 何がだよ、そう言って首に巻き付いてきた著莪の腕に手をやるが、外す前に、著莪は僕の背に乗っかかるようにして体重をかけてきたので、ヨガか何かみたいな体勢で前に倒れそうになって、手をつく。
「だぁいじょうぶだって。ちゃんと今年も付き合ってやるから」
 よちよち、というように僕は頭を撫でられるのだけど……。
「な、なんだよ……それ」
「だってそうじゃん。どうせ佐藤、今年も本命チョコなんて貰えないんだし、一人で過ごすのも寂しいでしょ?  だから……ね」
 わざとらしいほど優しげに言ってくるので、著莪が本気でそう言っているのか、それとも僕の財産(貯金)を狙ってそう言っているのか、さすがにちょっと判断がつかず、僕は閉口した。
 体勢のせいか、著莪の長い金髪が僕に覆い被さるようになっていて、鼻から吸った空気には、彼女の香りが濃い。男子寮内に長くいるせいか、昔は毎日嗅いでいたそれが特別で、貴重なものに感じられるのが不思議だった。
 著莪がウリウリと、後ろから体重をグイグイとかけてくるのに抵抗しつつ、僕は一人、彼女に見えないように小さく、フッと笑った。
 ……著莪は、知らないのだ。でも、それでいいと、僕は思う。
 バレンタインデーの日、著莪の両親は朝からラブラブで、夜にはディナーを兼ねて高級ホテルへ二人っきりで行ってしまう。つまり、折角のこの素敵な記念日に著莪は一人家に残ることになってしまうのだ。
 さすがにそれは、かわいそうじゃないか。
 ……だから、僕は事前に彼女へのプレゼントはあえて何も準備しない。
 例え広部さんとラブラブになるにしたって、著莪への花……は、喜ばなさそうだから、お菓子でも買っておけば良い。けれど、そうしてしまうと、彼女にとってのバレンタインデーがプレゼント交換だけで終わってしまう。
 それは、とてももったいない。
 だから僕はあえて何も用意しないで、自分の持っているお金と一日という時間を著莪に贈る。
 生まれてきてからずっと側にいた従姉の寂しさを埋めることこそ、僕からバレンタインの贈り物であり、そして義務だと思う。
 ……そんな僕の気持ちなんて、著莪は知らない。きっと、考えもしないだろう。
 けれど、それでいい。知れば意外と優しい彼女のことだ、気兼ねしてしまうに違いない。
 だから、感謝なんていらない。彼女の笑顔があれば、それでいい。
 全部ひっくるめたそれが、僕からのプレゼント。
 そして、それが、僕たちのバレンタインデー。
「っていう、嘘でしょ?」
「……うん」
 あははは、と僕が笑うと、ペシッと著莪に頭を引っぱたかれた。
「もうちょいマシなのにしろよ〜」
 それまでとは逆に首を絞められるようにして、僕は後ろに引き倒された。著莪の腰というか、足の付け根のところを枕にするようにして彼女を見上げる。
 まったく、と著莪は苦笑するように、笑っていた。
「ま、そんな先のことより大事なのは今晩のことかな。続きしよっか。あの店の参加者はみんな化け物だからさ〜」
「そういやそれって、今から僕が参加するのって無理なわけ?」 
「無理。事前登録制だもん。……でも、来なよ。アタシが優勝するところ、見せてやるから」
 僕は著莪の太ももに寝転がったまま、頷き、そして少し笑った。
 別に著莪の顔が面白かったわけじゃないし、彼女が以前と比べると明らかに胸が大きくなっているのを間近で観察したせいでもない。
 ただ何となく、高校に入ってもさして変わらないこの著莪との関係からするに、今年のバレンタインデーも本当に例年通りに著莪と二人で過ごすんじゃないか、そんな気がしただけだ。
 もう一〇年以上そうだったのだ。今更、それが嫌というわけでもない。お金の問題以外は……。
「ほら、始めるぞ〜」
 著莪が、ベッドの上から腕を伸ばしてコントロールパットをたぐり寄せる。
 先程までと同じように、また僕たちのゲームが始まった。


 <了>