『おいたんの肩車』
 もうすぐ春が来る……はずの三月初め。
 残念ながらまだ寒い日が多かった。
 お日様が当たる場所は暖かいのだが、夜の池袋はかなり冷え込んでいた。
 春休みに入って少し余力のある俺、瀬川祐太は、ちょっと早めのお迎えに保育園まで来ていた。
 夕方にも関わらずとっぷりと日は暮れて思わずポケットに手を突っ込んで歩きたくなるくらいだ。
「おいたーん!」
 幸いにして、我が家の姫はいつも通りご機嫌のようだった。
 俺を見つけると全力疾走で駆け寄ってくる。
「ひなー、今日もいい子にしてたか?」
 俺は、全身でぶつかってくるであろうひなを迎えるべく両手を広げた。
 ……あれ?
 予想外なことに、ひなは俺の前で急ブレーキだ。
 にこにこしているのだが、抱きついてきたりはしない。
「おいたん、かえろ!」
「お、おう」
 なんだか釈然としない気持ちを抱えつつ、俺は保育園の先生たちに挨拶して連絡帳を受け取ったり、着替えを回収したりと帰宅準備だ。
 その間、ひなは保育園のちいさなお友達とおしゃべりに興じていた。
「ねー、ひな、うそついてないお?」
「すごぉい、ひなちゃん、すごいね」
「へへーっ、だってひな、よんさいだからね」
 ひなはなぜか自慢げに小さめの子どもたちに囲まれているのだが……よく分からん。
 ああ見えて同学年の中では髪も多いし身長も高い方のひなだが、舌っ足らずのしゃべり方はなぜか相変わらずだ。
 とても可愛いと思うんだけど……時々話が分からないのだ。
 不審そうな顔をしている俺を見て、保育園の先生がくすくす笑っていたが、なにも言ってはくれなかった。
「よーし、終わった。帰るぞ、ひなー」
「あーい、みんなばいばーい! せんせーさよーなら、みなさんさよーなら」
 全身を折るようなお辞儀をして、ひなは俺に向き直った。
 ……む。
 今度は手も繋がずに歩き出す。
「おいたん、はやくぅ」
「こ、こら、ひな。お外に出る時は手を繋がないとダメだろ」
「えー、ひな、だいじょうぶだおー」
「そんなこといわないの。ほら」
「ぶぅ……」
 な、なぜだ。
 今までは頼まなくても手を繋いでくれたし、お迎えに来た時は全身で喜びを表現してくれていたのに……俺、何かしたかな?
 肩を落とす俺の周りで、他の子たちもお帰りの支度をしているのだが。
「ねーねー、だっこぉ」
 とか。
「肩車してー!」
 とパパやママにせがむ声に満ちている。
 まあ、誰かが始めると余所の子もやって欲しいと騒ぐので、みんな園を出たところまでは我慢させるのだが、小さな子だと我慢できなくて大騒ぎする子もいる。
 なんとかひなと手を繋いで園庭を出たところで、俺たちはくっつきあう親子にたくさん遭遇した。
「ひなちゃん、ばいばーい」
「ばいばーい!」
 ひなは元気に手を振りつつも、肩車をして貰う子どもたちを、ちょっと羨ましそうに見ているように見えた。
 実際の所、帰り路はかなり寒い。
 街灯の明かりを頼りに歩き出すが、ひなと手を繋いでいる部分以外は凍えそうだ。
 ひなには手袋をさせているけど、相当寒いと思えた。
「ひな、おいたんが肩車してやろうか?」
「えー……いいお。ひな、あうける」
 がーん。
 拒否られました。
 なぜだ。俺、なんでこんな事に……
 でも、そういいながらも、ひなはなぜかうつむいてしまう。
「ホントにいいのか?」
「……いいお。ひな、おねえちゃんだから」
 お、お姉ちゃんて……?
 もしかして、四歳になったことを言ってるのかな。
 ひなはつい数日前に誕生日を迎え、盛大に祝ったばかりだ。
 よく分からないなー。
 ひなは、うつむきつつも俺に抱っこも肩車もされることなく、家までの距離を歩ききったのだった。
 池袋の住宅地にある小鳥遊家に辿り着く。
 玄関をあけて家に入るだけで、外よりは少し暖かく感じる。
 ひなも俺も、ほう、とため息をついた。
 吐く息はまだ白いけど、上着を脱いでいく。
 ここでもひなは俺の手を借りずに上着を脱ぎ、リビングに駆け込んだ。
 慌てておいかけた俺が暖房を入れると、ひなはやっと落ち着いた、というようにソファーに全身でダイブした。
「……おいたん、おねえちゃんってたいへんだお。そらねーたんやみうねーたんえらいねー」
 四歳児は、真剣な顔で尊敬を口する。
「え、ええと……そ、そう?」
 まあ、確かにお姉ちゃん二人はいつも偉いしよく頑張ってくれるけど……文脈が判らない。
「うう……だって、そらねーたんやみうねーたんは、おいたんにだっこしてもらったりかたぐるましてもらったりしないお?」
「ま、まあねぇ」
 抱っこ……というかハグすることはたまにあるけど、そりゃ幼児を運搬するレベルの抱っこは……あまりしないよな。以前、空ちゃんが高熱を出した時くらいか?
 肩車はさすがに論外というか、今のところそんな状況になったことはない。
 だけど、それは……
「ひな、まさか、四歳になったから抱っこや肩車しちゃいけないと思ったのか?」
「……えーと、そう……だお?」
 な、なんという思い込み。
「ひな、そんなことないぞ。少なくとも、四歳は抱っこもおんぶも肩車もOKだ。まだちっちゃいお姉ちゃんで、抱っこがなくなるのはもっと先だ」
 ひなは、だだでさえ大きな目を見開いた。
「それに、さっきも上のクラスの子だって抱っこしてもらってたろ? ひな、それはちょっと頑張りすぎだよ」
「……ひな、ほいくえんで『もうだっこなくてもへいきだお』ってみんなにいっちゃったお……みんなにすごいっていわえたのに……」
 真面目にこまった顔をするひな。
 その真剣な表情に俺は思わず笑ってしまった。
「大丈夫、みんなひなが抱っこされてたら、『自分も抱っこされていいんだ』って安心するだけだよ。ひなだって、本当は抱っこして欲しかったんだろ?」
「……うん! ひな、おいたんにだっこしてほしい!」
 そういうと、ひなはソファーから俺の腕の中にダイブした。
 その小さな身体をしっかりと抱きしめ、俺はなぜかとても安心していたのだった。

「……ふうん、そんなことがあったんだ」
 帰宅した空ちゃんは、優しい目でその話を聞いていた。
「ふふっおませさんだね♪ ひな、お姉ちゃんだってだって……叔父さんに抱っこして欲しいんだよ?」
 ニコニコしながらそんなことを言うのは美羽ちゃんだ。 
「うん! ひな、こえからもおいたんに抱っこしてもらうっ!」
 ひなは高らかに宣言する。
「……うんうん、そうだな。それでさ、ひな、そろそろ……降りてくれないか?」
「えーっ、ダメだおー! もっと、もっとしてー」
「で、でも……なんか、俺ずーっとこの体勢なんだけど……」
 情けない声がでるのだが、それも分かって欲しい。
「だめーっ! ひな、ずっとおいたんにかたぐうましてもらうおーっ!」
 そうなのだ。
 あれから、既に二時間近くが経過している。
 その間、抱っこから肩車に移行したものの……ずーっとこの状態なのだ。
「お、おいたん疲れたよぉ」
「ダメだおー! ひな、まだちっちゃいから大丈夫!」
 ちっちゃいったって……うう、自分から言ったから……頑張るしかないのか。
「ふふっ、頑張ってください、叔父さん!」
「じゃ、今日のご飯は私たちが作るから。頑張ってね、お兄ちゃん♪」
「そ、そんなぁ……」
「おいたん、こんどはこのままにかいにいきたいーっ!」
「えっ、えええっ! 階段は勘弁してくれーっ!」
 俺の悲鳴に、みんなの笑いがこだまする。
 ひなも、大きな声で笑っていた。
 やれやれ……こりゃあ今日は大変そうだ。
 だけど、俺は重くなっていくひなの心と体の成長を、なんだかとても誇らしく思えていたのだった。