孤高の精霊術士 -強運無双な王都奪還物語- 小説投稿サイト「E★エブリスタ」ライトノベル部門第1位!!
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序章 紫瞳の押しかけ使い魔

「うっ、あぁぁぁぁぁぁーーーーッ!!」
 夕暮れ迫る森の中、その静寂を打ち破る悲鳴が辺りに木霊していた。
 それは妖艶たる美女の悲鳴でもなく、可憐なる少女の悲鳴でもなく、泥にまみれ薄汚れた俺の断末魔にも似た悲鳴。
 山の斜面を尻もち状態で、勢い良く滑落している真っ最中だ。山肌全体を覆うタールが滲む影響で、見た目以上によく滑る。
「ちょっとマジこれはヤバいというかぁぁぁぁぁッ!!」
 兎に角これは状況的に見て非常にまずい。
 自力で止めようとしても山の斜面はタールによる油質のぬめりで、踵に力を入れた所で焼け石に水状態。
 幸いな事に垂直落下ではないので即死する確率は低いだろうが、時折突き抜ける茂みの小枝で俺の全身はすっかり傷だらけだ。
 餓鬼の頃、白く積もった雪に喜んで、死んだ親父特製のソリで村近くの山の斜面を滑り降りて遊んだ記憶が走馬灯のように脳裏に浮かぶ。
 いや、本当に死んだら洒落にならないけど。
 
 しかし今日の俺は厄日なんだろうか。そう思わずにはいられない。
 旅に多少のハプニングはつきものと考えれば数分前までの俺は確かに順調だった。
(やっぱり抜け道なんて通るんじゃなかった!!)
 今更後悔しても後の祭りにしかならないんだけど、その時の俺は早く首都に着いてしまいたいという気持ちばかりが先に立っていた。
 目的地であるアイシャフの首都まで後少し。
 急ぎ足ならば日暮れまでにどうにか辿り着けるかギリギリの距離にある小さな宿場町で、水だけ補給して俺も首都へ急がなくてはと思っていたその時。
 同じ水場で話す旅人達の声が耳に飛び込んできた。
 この宿場町の裏の森から、首都へ続く近道があるらしい、と。
 確かに街道はそれなりに整備もされていて、歩きやすい。
 けれどもこの宿場町が小高い山の上というのもあり、緩やかな斜面を辿る街道だとどうしても時間が掛かってしまう。
 軽い溜息を吐き出しながら、俺は無意識のうちに懐に入れた一通の手紙を上から押さえていた。それは先日死んだじぃちゃんから託された手紙で、宛先は首都に住む親父の古くからの知り合いだとか。
「それにしても『アイシャフ王国青騎士団団長ゴウイ』か。親父もなんでまた、そんなお偉いさんと親友なんだか……」
 水を補給した水筒を鞄に入れ終えると、背に負う古びた剣の柄にそっと触れてみる。
 アイシャフ王国といえば大陸でも大三国と呼ばれる列強国のひとつだ。
 特に有名なのは赤青白黒の四色で表わされる騎士団で、その騎士団に入団するということは一族の栄誉とも言われるほどだと聞いた事がある。
 そもそも俺には両親がいない。
 当時まだ餓鬼だった俺に知らされたのは、親父たちが魔獣にやられて死んだという事実だけ。
 そして残ったのは、お袋がずっと大事に持っていた指輪と、親父が愛用していた古ぼけたデカい剣がひとふり。
 そんな俺をそのまま育ててくれたじぃちゃんが死んで、古びた短剣が形見に増えた。
 息を引き取る寸前、独り残される俺に「この人を必ず頼れ」と言い残して。
「まぁ、何とかなるだろ」
 陽が落ちれば街道脇の森に住む魔獣達がうろつき始めてしまうし、何より首都の門が閉ざされて中に入れず完全にアウト。
 森の中は多少危険も伴うが、首都も近く人里離れた場所というわけでもない。
 抜けてしまえば予定よりもかなり早く首都に着けると思えば、行っちゃいますかと。
 
 踏み込んだそばから道の細さに足を踏み外し、悲鳴を上げながら急な斜面を滑り落ちていた。
 そんな馬鹿な。
 
「どうでも良いけど、もうケツが限界ぃぃぃぃーーーッ!!」
 いや正確には、斜面に完全にフィットオンして滑り落ちてる尻の具合は俺的限界点をとっくの昔に超えている。
 せめてもの救いなのは、粘着的なタールの密度が濃厚なのか、尖った石などで打撲し怪我をするという事もなく、どうにかまだ五体満足で生きているってことだ。
 森全体に充満し、鼻を突くタールの臭いに顔をしかめている余裕すらない。
「うあぁぁぁぁぁ後少しぃぃぃーーーーッ!! ぶふっ!!」
 滑り落ちながら視線の先に斜面の終わりを垣間見る。
 しっかり確認する前に、本日何度目かの茂みに突入してしまったから断言できないけれどっ。
「痛って……って、えぇぇぇぇ!?」
「くっ!! しまった避けろっ!!」
 予想通り茂みを抜けたその先は斜面の終着点で、尻もち状態のまま風の様な速さで滑り込みはしたものの、止まることに成功したらしい。
 神は俺を見捨ててはいなかったんだな。
 なんて思ったのは一瞬の事でした。
 痛みより滑落の摩擦による熱で目の端に涙を溜めながら尻をさすろうとした俺の目に最初に飛び込んできたのは、頭上から勢い良く斬りかかる剣と、焦りで見開かれた青い瞳の鮮やかさ。
 咄嗟に抜いた背中の剣があまりにも長すぎて、全てを引き抜く余裕すらなく振り下ろされた剣とぶつかりあう。
 ――――ガッ!!
 それでも中途半端に引き抜かれた刀身は、鈍い音を響かせながら突然の斬激をどうにか受け止めていた。
(今の俺、絶対死んだと思った……!!)
 背中に冷たい汗が一筋伝うのを感じながら、俺以上に固い表情をしている様子の……服装からして騎士だろうかをジッと見上げる。
「すまないっ。しかし、あれを良く受け止めたな。怪我はないか、少年?」
 危うく漏らしそうでした、とは流石に言えないので頷きで答えて、詰めていた息を静かにゆっくりと吐き出した。
 すると俺の頷きに呼応するように、目の前の騎士も安堵で表情を緩め、銀の前髪をサラリとかきあげる。
「ならば良かった。そこは危険だ、すぐに私の後ろに」
「え?」
 その言葉に慌てて辺りを見渡すが、特に何かあるわけでもなく首を傾け、半分だけ引き抜いたままだった剣を鞘へと収めた。
「危険って、一体何が……」
 そう問い掛けた所で漸く、俺のすぐ真横から聞こえる獣じみた声音に動きを止める。
「魔獣の子供、か?」
 そこには泥にまみれた子猫程度の大きさの魔獣が、何故か俺に向けてフーッ!!と威嚇の声を立てていた。
 何て言うか、これはかなり……。
「かわいいなーっ、お前!! って、こら。痛いだろう、ひっかくなってば!!」
 体の所々が黒ずんだ泥でまみれて汚れてはいるが、艶やかな黒い毛並みに紫の瞳が鮮やかなソイツがあんまりにも可愛くて、我慢できずに手を差し出せば案の定。
 威嚇したまま手の甲を引っ掻かれた。
「君、早くそこをどきなさい!!」
 しかしそんな俺とは正反対、騎士は右手に持つ抜き身の剣を握り直すと、殺気を隠す様子もなく一歩踏み出す。
 その声に目の前の小さな魔獣は、俺から騎士へと威嚇の相手を変えたらしい。
 フーッと低く唸り声をあげ、いつでも飛びかかれるぞとばかりに姿勢を低くする。
 気質の荒い魔獣は街の人間や旅人に危害を及ぼす事もあり、定期的に騎士団が魔獣狩りを行っている事は知っていたけど。
 でもそれにしたって……。
「何もこんな子供まで狩らなくても……」
「言いたいことはわかるが、ソレはおそらく危険種だ。育てば甚大な被害を及ぼす。速やかにこちらへ渡して貰おうか」
 目の前の騎士はそう言うと俺との距離を更に一歩詰める。
 未だ威嚇を止めない小さな魔獣と表情険しいままの騎士とを見比べ、無意識のうちにそいつを拾い上げれば、抱く腕に力を込めていた。
 それは腕の中の小さな魔獣にとっても予想外の行動だったのか、爪も立てずに俺の顔を紫の目が真っ直ぐ射抜く。
「断るって言ったら?」
「無論、腕づくでも」
 俺の言葉にその騎士は青い瞳をカッと見開くと、肌を刺すように感じる程の気迫がみなぎる。
 眼力だけでその威圧感を醸し出すなんて、相当腕の立つ騎士に違いない。
 無言の圧力に内心本気で震えそうになる足を叱咤し、チビを抱えてどうにか立ち上がる。
 とは言え俺と騎士との力量の差は明確だ。どう頑張っても勝つ事は難しいに違いない。
 しかしこの小さな魔獣を離せば、こいつの瞬殺コースが確定するだろう。
 気圧された俺が一歩後退るのと、騎士が右手に持つ剣を頭上から振りかぶるのはほぼ同時。
 騎士の背で長い銀の髪がゆらりと揺れる。
「わわっ。ちょ、問答無用とかそんな理不尽、うっ、わ!!」
 おそらくは俺の腕から小さな魔獣を引き離そうとする牽制のひと振りに、負けじとばかり騎士の顔目がけて魔獣が飛びかかっていた。
「おい、チビッ。ちょっと待て!!」
 俺も咄嗟に一歩大きく踏み込んで手を伸ばす。
 そいつの尻尾でも構わない。掴んで引き戻さなくては、小さな魔獣などすぐに真っ二つだ。
 焦る気持ちで伸ばした俺の手は、何故か――――。
「えぇぇぇぇッ!?」
「馬鹿なっ!?」
 斬りかかる騎士の手首をガッシリと掴んでしまっていた。
 後退する俺の動きを察して騎士が大きく踏み込んだ事が原因か、それに加えて焦る気持ちで俺が予想以上に深く踏み込んだ事が原因か。
 お互い余りにも予想外の出来事に動きが止まる。
 チラと見れば、騎士はその青い瞳を驚愕で見開かせていた。
 しかしそれもほんの数秒の事。
 飛び上がっていた魔獣も騎士が動きを止めた事で目測が狂ったのか、顔の横を掠めるように肩を飛び越え後方にトンと着地した。
 そしてそのまま振り返り、小さな魔獣もその瞳を驚きの色に染める。
 いやいや、一番ビックリしてるのは俺だからね?
 それでもまぁ、結果オーライという事でチビが殺されなくて良かった。
「お前、急に飛び出したら危な……ぅわッ!!」
「…………ッ!?」
 小さな魔獣が無事であったことに気が抜けて、状況を忘れていた。
 掴んでしまった騎士の腕にはまだ力が掛かったまま、俺の力が緩んだ事で均衡が崩れる。
 思わず後ろに片足を下げ踏ん張ろうとしたところで、運悪くぬるりとした泥に靴底がズルリと滑りバランスを失った俺は、そのまま後ろに倒れこむしかない。
 そうなれば結末はあまりにも悲劇的に、俺はねちょりとした黒い泥の地面へ目がけ尻もちをつくしかなかった。
(もう今日何度目の尻もちだよっ!!)
 今度こそ絶対に尾てい骨が死んだなと思う衝撃に眉をしかめながら、騎士の手首を未だ掴んだままという状況にハッとなる。
「あぁッ!?」
 そんな悲劇のお裾わけとばかり、俺に手首を掴まれた騎士もまた俺と共に倒れこんでくる。
 が、しかし。小さな魔獣を受け止めた際に、俺の手にまみれたタールのぬめりは顕在で、引き寄せた格好になる騎士の重みをいつまでも掴んでいられるはずもなく、途中でその手はズルりと離れ……。
 結果として何故か騎士は、俺に投飛ばされるような形で後方に吹き飛び、泥でぬかるむ地に滑る様に転がる。
 同時に飛んだ騎士の剣が近くの木の幹に当たり、カンッと硬い音が静かな森に響くのを、俺も、騎士も、魔獣のチビも、驚いた表情で聞いていた。
「…………ま、まぁ。お前、無事で良かったなぁ」
 気を取り直して、とばかりにどうにか立ち上がった俺は、落ちた騎士の剣を拾い上げながら小さな魔獣に視線を向ける。
 その声で再び威嚇の声を上げ始めた小さな魔獣を、剣を持たない空いた手でひょいと掴み顔の高さまで持ち上げた。
 未だ収まらない怒気を孕んだ紫の瞳を正面から覗き込む。
「あぁ、お前。怪我してるんだな。泥だらけで全然気が付かなかった」
 よくよく見れば、目の前の騎士にでも斬られたのだろうか。タール質の脂臭い泥にまぎれて気が付かなかったのだが、小さな体のあちこちから鮮血を滲ませている。
 それならばこれだけの威嚇を続けるのも無理はない。
 そんな小さな魔獣を小脇に抱え、拾った騎士の剣を返そうと差し出したその時。
 ガササッと背後の茂みが乾いた音を立てるのに振り返れば、黒い物影が明らかな殺気を纏いつつ俺めがけて飛びかかってきた。
「――――うわッ!!」
 あまりにも突然の出来事に避ける余裕すらあるはずもなく、未だ手にしたままの剣を左から右へ横に一閃薙ぎ払えば、切っ先はそいつの首筋を捉えスパリと切り裂く。
「ギャンッ!!」
 その痛みからか短く鳴き、後方に飛んで距離をあけたそいつを改めて見れば、狼にも似た魔獣で目はギラつき口からは涎を滴らせている。
 獣に届いた剣の切っ先はあまりにも浅く、致命傷にはならなかったのだろう。
 悲鳴は一瞬の事で、寧ろ痛みを怒りに転換させたのか、低く唸りながらも逃げる様子はない。
(って流石にヤバいだろコレはぁぁぁぁっ)
 助けを求めようとチラと見た騎士は未だ地に座り込み、突如として出現した獣と対峙する俺を呆然とした表情で眺めていた。
(いや、ちょっと騎士ならそこはこう、颯爽と俺を助けてくれても!!)
 そう思うが言葉はどうにか飲み込んだ。
 いや、だって俺も男だから。紙より薄いプライドくらいは持ち合わせているからね?
 小さな魔獣をしっかりと抱え直すと、俺は低く腰を落として剣を構えなおす。
 森に住む獣相手に、脅えたり怯んだ瞬間こちらの負けだと餓鬼の頃から死んだ親父に叩きこまれていた。
 気づけば時は夕暮れが近づき、森の中は足を踏み入れた時よりも薄暗さを増している。
 ここで色々と悶着している間に、予想以上に時間を食っていたのだろう。
 加えておそらくは、抱えた小さな魔獣が負う傷からの血の匂いに誘われ、こいつが襲いかかってきたに違いない。
「あー、もうっ。仕方ない!! なる様になれだっ!!」
 ジリとそいつが一歩踏み込む動きに合わせて構えた剣を振り上げる。
 が、しかしまだ掌に残っていた油質のぬめりで剣の柄がツルッと抜けた。
「って、えぇぇぇぇぇぇっ!?」
 やばいと感じた時には後の祭りで、投げつけたわけでもないのに振りあげた際の遠心力そのままに勢いを得て飛び、先刻の傷の痛みで反応が遅れたらしいそいつの脳天めがけてザクリと突き刺さっていた。
「……えぇぇっ!? で、でも。助かった……のか?」
 頭に剣を貫通させた魔獣がドサリと地に倒れるのと、幸運にも命拾いした俺の気が抜けるような呟きが零れたのは、ほぼ同時の事だった。
「先ほどの剣の構えはまさか……」
「…………?」
 そんな俺のすぐ背後に、いつの間にか立ち上がっていたらしい騎士が歩み寄り、ほぅと感嘆の息を漏らす。
「あの獰猛な魔獣をこれほどいとも容易くとは何と見事な腕前。少年……いや、貴殿のお名を聞かせて頂けないだろうか?」
「え? あ、俺の名前はハルキ。でもこれはそのっ、何て言うか事故っていうか俺は別に何も」
 確かに俺も全く剣を使えないというわけではない。餓鬼の頃から死んだ親父やじいちゃんに多少は叩き込まれてきたけれど、今のは流石に偶然だから。
 そう告げようとした矢先、森の奥から何かを探すように叫ぶ数人の声が響いてきた。
「どうやら他の騎士達が私を探しているようだ。ハルキ殿、すぐにこの場を離れて下さい」
「でも、こいつは?」
 腕の中で大人しくしてはいるものの、警戒心を隠そうとしない眼差しで騎士を睨む小さな魔獣に視線を向ければ、獣の頭を貫く自分の剣を引き抜きながら緩く首を振っていた。
「ご判断はハルキ殿にお任せ致します」
「良いのか? って、あー……。あのさ、首都ってどっちを目指せば」
「ここは首都の城壁のすぐ脇に位置しています。……これをお持ち下さい」
 再び仲間の呼ぶ声に一旦森の奥へ視線を向けたその騎士は、腕に巻きつけていた青い腕章を引き抜くと俺に差し出してくる。
「え、そうなの? って、これは?」
「首都に行かれるのでしょう? じきに陽が落ち門が閉まれば入れなくなりますが、それを門守に見せて騎士団の使いと言えば中へ通る事を許されるはずです」
 ぐずぐずしていれば仲間達が来てしまう。
 そしてチビを目撃されれば再び標的にされてしまうだろうと、踵を返した騎士はその背に長い銀の髪を揺らしながら急ぎ足で去って行った。
 遠ざかる後ろ姿を見送りながら、俺は安堵のため息をひとつ零す。
「お前、殺されなくて良かったなぁ。少し痛いかもしれないけど、辛抱してろよ?」
 泥でこれ以上に傷口が汚れてしまうのもかわいそうで、鞄から布切れを一枚引張り出すと軽くぬぐってやる。薬の持ち合わせはないけれど、何もしないよりはましだろう。
 それはこの小さな魔獣も理解できているのか、腕の中で大人しく息をひそめたまま抵抗する様子はなかった。
「……ん? 何だこれ、首輪? お前もしかして、人に飼われている奴だったか?」
 泥にまみれて気付かなかったが、ぬぐってやれば黒く艶やかな毛並みの中に埋もれるようにして、首輪の様な細い革紐が結ばれていた。
 名前でも刻んでないかと指で引っかけて見ていると、まるでその首輪の存在を厭うかのように小さな魔獣が手の爪でカリと引っ掻く。
「あー、これ。傷に当たって痛いのかな。首から外して、足にでも巻きなおしてやろうか」
 革紐の結び目に手を掛け、スルリと解いてやる。
 表側を見ても裏側を見ても、飼い主やこいつの名前らしき物が刻まれている様子は何処にもなかった。
 となればこいつをどうするか。
 首都へ連れて行っても構わないけれど、などと考えを巡らせていたのだが腕の中の小さな魔獣に明らかな変化を感じて首をかしげる。
「お前、なんだか急に熱く……ッえ、ちょっ、何で光って!!」
 手負いの小さな魔獣は急速に熱を帯びはじめ、そして次第に淡い紫色の光を放ち始める。
 その光は強まりながら見る見るうちに容積を増していき、突如としてフワと宙に浮く。
 暗闇が迫り始めた森の中、仄紫の蛍が幾多にも風に舞い揺れ踊るかの如くに無数の光の球をまき散らし始めたソレは、あまりにも眩しくいつしか俺は腕で顔を覆い目を閉じていた。

「まさか、あの封呪をいとも容易く取り去るとは。加えて卓越した武勇ながらも優しく紳士なる立ち居振る舞い……」
 凛として透き通り、最後は何処か甘さを含んだその声にゆっくりと目を開ければ、俺の前には黒い髪に紫の瞳をした美しい少女が一人、恍惚とした表情を浮かべて立っていた。
「え、えぇと……。え? あれ?」
 こんな森の中に突如として現われた存在に目を瞬かせるが、同時に腕に居たはずの温もりが消えている事にも気付いていた。
 慌てて足元や周囲を見回すが、小さな魔獣の姿は何処にも見当たらない。
「ハルキと申したか。そなたが居らねば妾の身が危うかったのもまた事実。礼を申すぞ」
 消えた魔獣。現れた少女。そして目の前で繰り広げた不思議な光の乱舞。
 全てを組み合わせれば答えなど出ているはずなのに、それでもやはり驚きの方が勝るのか、目の前の少女を凝視することしか出来ないでいた。
「ふふ。本当は気付いて居るのじゃろう?」
 そんな俺の驚愕の表情がお気に召したのかは分からないが、少女が俺との距離を詰め顔を覗き込む。背丈は俺よりも少し低い程度か、にも関わらず纏う空気の威圧感が半端ない。
 正面から見詰めてくる紫の瞳は、つい先ほどまで腕に居た小さな魔獣と同じ色をしていた。
「お前……そんな、馬鹿な。でも、まさか……あのチビ、なの……か?」
 唇が妙に乾いていた。ゴクリと唾を飲み込むと、恐る恐る問いかけを口にする。
「あれは妾の仮なる姿。この身で人の地を回るにはランカとの約定を違える事になる故、その忌々しい革紐で力を抑されておったのじゃ」
「この首輪が?」
 細く形の良い指先で示された革紐をまじまじと見つめてみるが、そんな大層な代物には感じられなかった。
 しかしそれを顔の前にぶら下げた途端、込められていた魔法力が尽きたのだろうか。
 紐の端がじわじわと灰色に変化を始めたかと思えば、砂のようにサラサラと零れ落ち形を失っていく。
 それは間違いなく、魔道具が役目を終えて消失する時の現象と同じだった。
「よもやランカの聖者が幾重にも呪を施せしソレを容易く抜き取る者が居ようとは、そなた程に腕の立つ魔導師を見るのは流石の妾も初めての事。
 ……褒美にこの身を召ずる栄誉を与えようではないか」
「いやいや、待って。言ってる意味が良く分からないんだけどっ」
 いや、意味が分からないわけではない。
 分からないわけではないが、あまりにも有り得ない言葉に理解が追い付いていかないのだ。
 ランカとは大陸の中央に位置し、国力こそ低いものの『世界の始まりにして終わりの国』と呼ばれる宗教国家だ。その国王は信仰の柱として大陸の民衆から崇拝され、当然ながら国の歴史も古く数多くの魔導師達が暮らしていることでも有名である。
 この少女もまたランカに住む魔導師なのか?
 一瞬そんな考えが頭をよぎるが、先ほど言われた言葉を冷静になって思い返してみる。
 気になるのは『ランカとの約定』という言葉だ。
 そして何より『この身を召ずる栄誉を与えよう』と、言わなかっただろうか。
「妾を使い魔にせよと申したのじゃ。人間風情に身を助けられるとは思うておらなんだが、そなた程に卓越した魔導師であるならば使い魔となってみるのも悪くはない」
「お前……やっぱり魔族なの、か?」
 問いかけに答える代わりとばかり、少女は紫の瞳を細めて妖しく笑むと、その指先で俺の額にそっと触れる。
「熱ッ!?」

「我が名はユナ。ハルキよ、今この刻より妾を従え、この身を汝が傍らに召す事を許そうぞ」

 契約は突然に、望むか望まぬかにも関わらず。
 額に感じた灼熱の痛みを伴い、辺りを紫光の輝きが支配する。
 古来より『使い魔』契約とは人間側の意思とは無関係に結ばれるのだ。
 それは誇り高き魔族が、己の認めた者にしか膝を折らぬということの証に他ならない。
 もう陽も暮れようかという黄昏刻。静寂の支配するその森の中で、運命の契約が俺の額に刻まれる。
 偶然という必然は運命という鍵を呼び、歯車は回り始めたばかり。
その鍵が持つ本当の意味を、俺はまだ知らないでいた。