pv

わたしがイイ後輩になれるわけないじゃん!
ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)

著: みかみてれん 挿絵: むっしゅ

 芦ケ谷には、いろんな教師がいる。怖い人もいれば、厳しい人もいるし、優しい人もいれば、やる気ない人もいる。人気のある先生も、ない先生も。いつだって生徒たちは、自分たちが品定めされているように、教師を品定めしているものだ。
 一年A組の担任。広崎美知留は、英語教師だ。三十ちょいすぎで、身長が低い女の先生。パラメーターは、どちらかというと優しい寄りの人気ある先生。
 肩ひじ張らない大らかな雰囲気だから、大人の人に接するみたいな緊張感がなく、話しやすい。陽キャたちからは(いやわたしも陽キャだけど)みっちゃんみっちゃん言われてて、それは本人ナメられているって思わなくもなさそうなので、間を取ってみちる先生って呼んでいる。
 そんなみちる先生に、わたしは放課後呼び出されていた。
 わたしと真唯、それに紫陽花さんとの関係がとりあえずはいったん落ち着きを見せた後のこと。ホームルームが終わった後『ちょっといい?』と声をかけられたのだ。
 説教っぽい雰囲気じゃなかったと思うけど、みちる先生はいつもそうなのでわからない……。わたしは職員室、みちる先生の前にぼけーっと立って、なかなか訪れることがない職員室を見回す。
 規模感は、中学校より多少ゴージャスになったかな? って感じの職員室。
 一説によると、陽キャは先生と仲良くて、陰キャに比べてチヤホヤしてもらえたり、えこひいきされたりするものらしい。だけど、なぜかわたしはその恩恵をまったく預かっていなかった。そう、先生と仲良くないからだ──。
 いやね、わたしだって高校デビューしたんだから、もっと気軽に『みっちゃーん♪』って絡みにいけばいいんだけどさ。なんだろうね、わたしがそんな風に言われたら『は? 私の半分も生きてないガキが…………すぞ……』ってなるだろうからさ! 根が陰キャ!
 わからない。わたしには、歳の離れた人と仲良くする術がわからない。
 香穂ちゃんとかはフツーに可愛がられたりしているし、真唯はなんか先生からも敬われたりするけど。いや真唯は特別すぎるか。
 というわけで、ちょっと緊張した気持ちでみちる先生の前、話し始めるのを待っていると、だ。みちる先生がくるりと椅子を回して、わたしを向いた。
 そして、両手を合わせる。
「ごめん、甘織! 実は頼みたいことがあってー」
「頼みたいこと、ですか?」
 恐怖半分、好奇心半分で問い返す。
「うん。こんなこと、甘織にしか頼めなくってさー」
 ほほう、わたしにだけ……。
 これはもしかして、先生と仲良くなるチャンスでは?
 いや、仲良くなれるんだったら、仲良いに越したことはないんだよ。わたしはクインテットと仲良くなって、それを痛感したね。権力を持っている人に媚びへつらうのは、楽しい!
 曖昧な笑顔の裏に、悪代官みたいな打算を隠し持ったまま、みちる先生の言葉を聞く。
「私、美術部の顧問をしているんだけどさー。大して絵もうまくないのにー」
「そうですね」
「そうですね?」
「あ、いや! ほら! たまに黒板に動物の絵とか描くじゃないですか! すごいこう、独創的な感じの、骨が折れてそうなやつ!」
「まあいいんだけど」
 みちる先生はボールペンで、手元のメモ帳に骨が折れてそうな独創的な四つ足動物の絵を描く。イヌかカバかアルパカのどれかだと思う。幸いにも『これなーんだ』と聞かれるハラスメントを受けることはなかった。
「でね、その美術部でちょっと人手が足りなくってさー」
「えっ!? わたしも絵うまくないですよ!?」
「大丈夫大丈夫、そういうんじゃないからー」
「はあ」
 小学校から漫画が好きな女子の例に漏れず、わたしも一時期、絵の勉強をしていたことはある。勉強というか、暇な授業中、教科書の空いているスペースに絵を描いていたぐらいだけど。
 なので、わたしのレパートリーは正面絵の美少女だけだ。いや、レパートリーと呼ぶのもおこがましい。無だ。ペンを動かして紙を黒く汚すことができます! だ。
 でも、そういうんじゃないっていうと。
「ものを運んだり、動かしたりですか?」
 でもそれなら、わたしに頼む必要はないよね。わたしをことさら痛めつけたいわけじゃないなら、男子を呼べばいいわけだし。
「詳しいことはさ、とりあえず美術部に行ってもらって、説明を受けてもらうってことでー」
「はあ、美術部に……。え、今からですか!?」
「うん、もう話は通してあるからー」
「受けるとも受けないとも言っていないのに……」
 みちる先生はメモ帳に『甘織へ』と描いて、わたしに差し出してきた。
「なんとなく、甘織は断らないでいてくれる気がしていた」
「どういう信頼ですか……」
 確かに、先生の言うことを断ったことは、今まで一度もないけれども……。みちる画伯の描いた四足獣の紙を受け取って、わたしは『うへえ』の顔をする。
「ただ、行けばいいんですよね」
「そそそ。ただ行けばいいだけ。それだけー」
「このメモ帳が報酬ってわけじゃないですよね」
「いつか高値がつくかもよー?」
「じゃあ、ついてからください……」
「私に恩を売れるってことで、どうかひとつ」
 みちる先生が笑顔で送り出してくれる。
「はあ」
 まあ、なんとなく無理を押し付けられる感じも、わたしにとっては『先生と仲良くなれた!』みたいな気分を味わえるので……実はそんなに悪くはなかったんだけど。
 まさかあんなことになるのなら、きっぱりと断っておけばよかったんだよ! ***  美術部は校舎の二階。特別教室練の中にある。
 もちろん美術の授業などで使うので、足を運んだことは何度もある。なのだけど……。
 ドアの窓から中を覗く。
 中はシンと静まり返っていて、キャンパスを並べた生徒たちが何人もいる。さらに、上級生の方々ばかりだ。
 ここでわたしが『ちわーっす! みちる先生に言われてやってきましたー!』ってズカズカ足を踏み入れるのは、なかなか、ハードルが高いよね。
 早々に、プランBに移行するべきだろう。そう、つまり美術室の前でうろうろして、誰かに声をかけてもらうのを、待つ作戦……!
 誰にも声をかけてもらえなかったら? そのときは……つらい、ね……。
 というわけでわたしは、プランBの作戦成功率を少しでもあげるために、チラチラと美術部の中を覗く演技に精を出すことにした。これが全力を尽くすということ。どう、真唯、紫陽花さん。ほら、わたし、がんばっているよ──。
 体幹時間で二時間ほど経って(実際は五分も経っていなかった)己の行為の無意味さにしんどくなってきた頃、天から助けがやってきた。
「あれ……? あ、あの、甘織さん? 美術部になにか、用ですか?」
「え!? あ、うん!」
 見やる。同じクラスの長谷川さんだった。平野さんと一緒に、いっつもわたしをチヤホヤしてくれる、どちらかというと大人しい目立たない系の女の子。
 ハッ、そうだ! 長谷川さんは美術部!
「あ、うん! そう! みちる先生に言われて今来たところなんだけどなんだかちょっと声をかけづらくって! 今来たところなんだけどね!」
 陽キャと陰キャを見分ける鑑定士9級の人にすら『うーん、こいつは陰キャ!w』って判断されそうなほどキョドりつつ、わたしは早口で説明する。
 長谷川さんはそもそもわたしを陽キャだと認識してくれているので、特に疑うこともなく「あ、そ、そうなんですねー!」と手を打ってくれた。わたしの心の平穏は保たれた。
「それじゃあ、ど、どうぞ」
 どこかこわばった笑みを浮かべながらわたしを案内してくれる長谷川さんは、一歩前に足を踏み出し。
「あっ」
 開けてないドアのさらに右隣の壁に、ゴッ! と音を立てて額をぶつけた。
「だ、大丈夫!?」
 長谷川さんが、うずくまる。
「痛い…………。ってことは、これは、夢じゃない……? 暮れなずむ廊下で夕日を浴びて佇む美少女を、私だけが目撃して、さらに私の美術部に案内するなんていう、文化部女子にとって垂涎のシチュエーションは、私だけが見た幻じゃなかった……?」
「ほんとに大丈夫か!?」
 小声でぶつぶつ言う長谷川さん。
 長谷川さんはハッとした後、額を押さえながら立ち上がる。
「え、ええ! 大丈夫です! えっ!? ひええ、甘織さんがいる……! あっ、いや、大丈夫、大丈夫ですよほんとに! 大丈夫です!」
「そ、そうなんだ……。だったらよかったけど……」
 大丈夫ですという名のツッパリに押し切られて、わたしは仕方なくうなずく。長谷川さんは妙にテンション高く、ドアを開いた。
「こんにちはー!」
 ずんずんと教室に入る長谷川さんの後を、おっかなびっくりついていくわたし。ひい、視線が集まる!
「あ、部長! 甘織さんは広崎先生から言われてやってきたみたいです!」
 髪の長い女性にそう報告する長谷川さん。わたしも慌てて両手をスカートの前に揃えて、軽く頭を下げる。
「お、お手伝いってことで、広崎先生に来るように言われました。甘織れな子です。よろしくお願いします」
 部長さんは感心したように声をあげた。
「おおー……もしかして、あの美少女集団、クインテットの?」
 他学年にまで知られている! どうして!
 なぜか長谷川さんが嬉しそうにうなずく。
「ですです! その中でいちばんの美少女で、いちばんの美人さんで、クラスでもいちばん人気の甘織れな子さんです!」
 こらあああー!
 どう考えても『甘織か、あいつはクインテットの中でもぶっちぎりの最弱……。最終ダンジョンの魔王城周辺に出てくる雑魚モンスターより弱い中ボス……』でしょ! わたしは!
 これだから陰キャは話の盛り方が下手! さすがにこれは否定しておかないと……。
「そ、そんなことないです。わたしは、その、ぼちぼちです」
「あはは、ごめんね、物珍しそうに見ちゃって。でも、実物を前にしたのは初めてだけど、やっぱりかわいいね。来てくれて、ありがとう」
「い、いえいえ!」
 やばい。一気に顔が熱くなる。こんな上級生のお姉さんからもお世辞でも褒めてもらえるなんて、高校デビューしてよかった……!
「それで、実は頼み事なんだけど」
 部長が教室内を見回したところで、窓際に座っていたひとりの女子生徒が声をあげた。
「──こっち」
 明るい髪を伸ばした女子だった。ときおり髪の毛の隙間から、ちらっちらっと、たくさんのピアスが覗いていて、ちょっとこわい。雰囲気はどことなく厭世的で、大勢の中にいてもひとり輝きを放つような、そんなトクベツな浮き方をしていた。
 遠目から眺めている分には、美人で目の保養。だけど近づくと自分の手も傷つけられてしまう。そういう印象の女子だ。
 同学年で見たことはないから、たぶん先輩だと思うんだけど……。
 部長がささやいてくる。
「彼女は、伏見咏《ルビ:ふしみ・えい》。美術部の二年生だよ。頼み事っていうのは、伏見さんに関することでね」
「こっちに来てください」
 冷たい声で命令されて、わたしは思わず背筋を正してしまう。
 え、えーと……? 救いを求めるように部長さんを見やると、部長さんは困ったように微笑んでいた。どうやら、行かなきゃいけないみたいだ。
 足を動かすと、長谷川さんが後ろから「甘織さん、がんばってください!」と応援してくれた。なにかこれからがんばることをするんですかわたし!?
 伏見先輩の前で立ち止まる。伏見先輩はただ椅子にふんぞり返って座ったまま、なにもしていなかった。
 わたしのことを、上から下までじろっと眺める。こわい。
「君、名前は?」
「あの、甘織れな子です」
「そうですか。私は伏見咏。咏先輩って呼んでください」
 初手で名前呼びを強要してくるタイプの先輩……!?
「は、はい。咏先輩」
「よろしいです。素材も、悪くありません」
 立ち上がった咏先輩は、わたしの周りをさらにぐるっと一周する。これからなにが始まるのかわからず、わたしはびくびくしたまま電池の切れたファービー人形のように固まっていると。
「じゃあ、今回は座っててもらいましょうか。今、椅子を用意します。ポーズはこちらで指定しますので、その通りに」
「ええと……?」
 わたしが事態を飲み込めずにいるうちに、あっという間に準備が完了してしまった。
 両手を膝の上に揃えて、脚を斜めにして座れ、とのこと。なんか、女子アナウンサーの人がするみたいな、貞淑でエレガントな美人の姿勢、って感じ……。
「うん、よし。それじゃあ、そのままでよろしくお願いします」
 咏先輩がイーゼルとキャンバス、画材一式を用意してきたので、わたしはようやくものすごく嫌な可能性に思い当たった。
「あ、あの!?」
「うん?」
 夕焼けが差し込む教室。他の部員の人は思い思いの作業に耽りながら、ときどきこっちをちらちらと眺めてくる。その中でも、長谷川さんなんかは思いっきりキラキラした目で、わたしを見つめていた。
 この、たまらなく居心地の悪い気分。人の視線があまり好きではないわたしに対する、まるで嫌がらせのような、これは……。
「まさかとは思うんですけど、これ! 絵のモデル的なやつですか!?」
 そのとき、ずっと鋭角を維持していた咏先輩の目が、気が抜けたように緩んだ。
「へ? 知らずに来たんですか?」
「はい!」
 力いっぱいうなずく。すると咏先輩は何気なく木炭を手にした。
「そうですか」
「え、いや、そうなんですけど……!」
 サッサッとキャンバスに向かって手を動かす。
 あ、あれ……!? なんか、会話が終わったかのように時が進んでいる……!?
 いったんみんなで話し合って、そっかそっか知らずに来たんだそれは悪かったね、だったら広崎先生呼んでもう一回ちゃんと話し合おうっか、みたいな雰囲気にならない……!?
 この、クインテットのわたくしの発言なのに……!?(グルグル目)
「ごめんだけど、あんまり、周りをきょろきょろしないでもらえると、助かります」
「あっ、はい! す、すみません!」
「疲れたらすぐ休憩を入れますから、それは言ってくださいね」
「は、はい……!」
 い、言い出せない……! この静謐な教室の平穏という名のキャンパスにナイフを突き立てるような真似、できない! 周りの人、みんな真剣に作業しているのに!
 なぜ、こんなことに……。
 わたしはこの日、正面にいる咏先輩を見つめたまま、ただひたすらに居心地の悪い時間を過ごしたのだった……。

 ていうかなんでわたしなんですか! モデルなら、わたしよりよっぽどいい人材が揃っているじゃないですか、みちる先生ー! *** 「いやー、やっぱり甘織が一番かなーって」
「どういういちばんですか!? いちばんチョロいってことですか!? いちばん騙しやすいってことですかええー!?」
 翌日の放課後、職員室でわたしはみちる先生に食って掛かっていた。
「人聞き悪いなあ。誰も騙そうなんて思ってなかったよ。甘織なら、つつがなく引き受けてくれるんじゃないかなーって思ってただけ」
 あまりにも見る目がなさすぎる……!
 こんなド陰キャなわたしに、なにかの罰ゲームですか!? って問い詰めたかったけど、それを叫ぶとせっかく大成功した高校デビューが海の藻屑になってしまう……。ぐぬぬぬ……。
「ね、ずっとモデルになってくれってわけじゃないんだよー。数日で終わるからさー。お願い、甘織」
「うう。でも、だったら王塚さんとか」
「それは無理でしょ」
 真顔で告げられる。まあ、うん。
 それがムリなのはわかる。真唯自身がメチャ忙しガールだし。それじゃないにしても、真唯がモデルとして美術部にいたら、他の部員さんがなにも手がつかなくなりそう。そもそも、モデル料として、いったいいくらお金がかかるのかもわからない。
「じゃあ……」
 紫陽花さんとか紗月さんとかは。言いかけて、口をつぐむ。
 紗月さんにはバイトがある。あんな、浮かべたくもないような笑顔を浮かべて接客するぐらい、嫌なことにもキチンと取り組んでいる。立派に家計を支えているとても偉いお方なのだ。
 それに紫陽花さんだって、普段は弟さんたちの面倒を見るために早く帰っている。わたしが『モデル変わってー!』って頼み込んだらOKしてくれそうだけど、その場合、紫陽花さんの時間を奪ってまで早く帰ったわたしがすることは、ただのゲームだ。そんなやつ死ぬべき。
「じゃあ、香穂ちゃんとか!」
「小柳さんも、用事があるみたいでねー」
「うっ」
 わたしは胸を押さえた。香穂ちゃんだって、お洋服を作ったり、コスプレ写真をせっせと挙げたりして、推し活に励んでいる……。世界中に、自分の好きを伝えるために……。
 わたしだけだ……なにもないのは、世界中でわたしだけだった……。みちる先生の抜擢は、ベストチョイス……。
「すみません、先生……。こんなわたしみたいななにも持たざる小娘が、口ごたえをして……」
「急にどうしちゃったの」
「モデル、やらせてもらえるだけ、ありがたいんですよね……へへへ、ありがとうございます、先生……。他の誰でもない、この甘織れな子を選んでくださって……」
「いや、やってくれるならありがたいけどー……」
 みちる先生は突如として手のひらを返して卑屈になったわたしを、不審げに見つめている。いいんですよ、わたしなんてモンは……。クインテットの他四人の身代わりになることが、いちばん価値のある時間の使い道でさあ……。へっへっへ……。
「う、うん。快く引き受けてくれるなら、ありがたいよー」
「誠心誠意、がんばります……」
 でも実際、クインテットのみんなには、日常生活であまりにも大きな恩をもらっているわけだから。定期的に恩を返していかないと、膨れ上がった恩に押し潰されちゃうからね。わたしの心が、ね。


 というわけで二日目。きょうもせいぜい人の視線に全身をチクチク刺されてハリネズミみたいになっちゃいますか! と意気込んで(開き直って)やってきたんだけども。
「あれ? きょうは美術室じゃないんですか?」
「ええ」
 呼び出されたのは、第二特別教室。普段は……普段はなにやっている教室なんだろう、ここ。とにかく、誰もいなくて、がらんとしている部屋だ。
 キャンバスボードを挟んで、わたしと咏先輩は向かい合っていた。他には誰もいない。
「あの部屋は、夕日のかかり方が、あんまり好きじゃありませんでした。それに」
「それに?」
 咏先輩はちょっと手を止めて、目を逸らした。
「……れな子さん、人の視線が苦手そうでしたから」
「えっ!?」
 み、見抜かれていた……? すごい。この完璧に陽キャに擬態しているわたしの弱点を看破するだなんて。観察眼っていうのかな。さすが美術系の人は違う。
 ていうか、それでわたしのために人気のない教室を借りてくれたなんて、もしかして咏先輩、いい人……!? 見た目は、すごいパンクなのに!
「あ、ありがとうございます!」
「いやいや、勘違いしないでくださいね。ぜんぶ自分のためですから。モデルがずっとこわばった顔をしてたら、ぜんぜんいいものなんて描けないんですからね」
 咏先輩はちょっと早口になって、言い訳みたいなことを言ってきた。
 やっぱりいい人だこの人!
 わたしの心の中の紫陽花さんが笑顔で判定。ズバリ『いい人!』のプラカードを掲げる。いやだめだ! 紫陽花さんにかかったら世界中の人がいい人になってしまう!
 心の中の紗月さんにお伺いを立てることにした。咏先輩、いい人だと思いませんか? 紗月さんはこう言った。
『人間なんて表向き善人を装っても、裏でどんなことをしているかわからないものよ。目の前の女だって、無名アーティストの描いた画像をダウンロードしてはツイッターにアップして、自分の新作ですwあまり上手じゃないですけどw って言っているゴミの可能性があるわね』
 わたしは心の中の紗月さんを、そっと金庫に閉じ込めた。人間不信になるんですけど!
 ゴミ……もとい! 咏先輩の前に腰かけて、正面を向く。
 そうすると昨日と同じように、必然的に、ばっちり咏先輩と目が合っちゃうわけで。
「…………ええと、咏先輩」
「はい、なんでしょう」
 また目が合った。
「れな子さん、きょうはちょっと、メイクが濃いですか?」
「え? いや、いつもどおりですけど、たぶん!」
 慌てて頬に手を当てる。なんだろう。ふたりっきりってシチュエーションだからか、昨日とは別種の緊張感が殴りかかってきた。
「そうですか。まあ、あまり緊張しないでくださいね」
「は、はい」
 顔立ちの整った上級生のお姉さんを、見つめて見つめられて……。わたしは大勢の視線が苦手だけど、別にひとりから向けられる視線だって得意ってわけじゃないんだ。
 とはいえ、咏先輩はさっきから一度も休憩せず、一生懸命に手を動かしているので、邪魔しないようにしていなきゃ……。
 絵筆のこすれる音が聞こえてきそうなほどに、静まり返った室内。
 咏先輩がひたむきに絵を描くその様子は、香穂ちゃんが真剣な顔でコスプレ衣装を作っているときの顔にも似ていた。
 ……わたし、座っているだけで、本当に役に立てているんだろうか。
 なんか、申し訳なくなってきた……。
 口を開く。
「あの、わたしにはふたつ年下の妹がいまして」
「え? うん」
 わたしは唯一の鉄板ネタを披露することにした。
「その妹がですね、言ってきたんですよ。おねーちゃんスマホ貸してーって。話を聞いてみると、どうやら自分のスマホをなくしちゃったみたいで、鳴らしてみたいって言ってきて。仕方ないなー、ってスマホを貸してあげたわけなんですけど、なんか、嫌な予感がしてたんですよね。やだなーこわいなー、って背中が寒くなってきたんです。そしたらなんと妹の電話に誰かが出たんですよ。しかも『もしもし、甘織遥奈です』って言うんですよ。妹は目の前にいるのに。わたしもうゾクゾクゾクーっとしちゃって、思わず『こっちこそ遥奈だけど!?』って言っちゃいましたよもう」
「え?」
 咏先輩がわたしを二度見する。
「なんの話……?」
「いや、あの」
 空気が妙に重々しい。
 あれ、おかしいな……。これ、鉄板ネタのつもりだったんだけど……。
 思わず助けを求めるように視線を揺らすが、ここにはわたしたち以外誰もいなかった。違う意味で背筋がゾクゾクゾクーっとしてきた。
「怖い話ですか?」
「いえ! 実は妹が友達の家にスマホを忘れてきちゃって、その友達が仕方なく電話に出てくれたんですけど、なぜか妹自身の名前を名乗っちゃったっていう、超オモシロ話です!」
「そう……。超、オモシロ話……」
「は、はい」
 咏先輩は申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんなさい。笑ってあげられず」
「いえ…………」
「でも、超オモシロかったです」
「大丈夫です! あ、死にますね!」
 衝動的に窓から飛び降りようとしたら「待って」と止められた。
「あの、でもどうしたんですか、急に。そんな超オモシロ話を繰り出してくるなんて」
「いえ………………」
 陰キャが色気を出すとこうなるんだぞという愚かな見本のわたしは、もはやなにひとつ取り繕うこともできず、小さく口を開く。
「咏先輩がとてもがんばっていらっしゃるのに、わたしはただ座っているだけなのが、忍びなくて……」
「動かず耐えるのも、なかなか辛いのでは?」
「それはなんか割と平気みたいで!」
 なんでだろうね。不意に中学時代、気配を完全に消すためにじっと椅子に座って、ただ腕時計の秒針だけを眺めていた記憶が蘇る……。
 同時に、様々な闇の記憶が噴き出してきそうになって、わたしは慌ててパンドラの箱を閉めた。これはもう二度と開封せずマグマにでも落とした方がいい。
「ふっ」
 咏先輩が口元に手を当てて、目を細めた。
「ふっ、ふふふふ……。だからってそんな、超オモシロ話だなんて……」
「え、咏先輩?」
「ふふふふふっ、そんなことする人、初めて見ました。ふふふっ」
 ……どうやら、爆笑しているらしい。
 体をくの字に折って、咏先輩はしばらく笑い声をあげていた。
 これは結果的にわたしの作戦が大成功……? いや、違う。これよく聞く『オマエ、おもしれー女w』のやつだ!
「す、スミマセン……なんか、結果的に作業の邪魔をしてしまい……」
「ううん。ユーモラスな方なんですね、れな子さん」
 決して誉め言葉ではないやつでは!?
 ふぅ、と咏先輩が胸に手を当てて、呼吸を整える。
「……私も、肩に力が入っていましたか?」
「え?」
「和ませようとしてくれたんでしょう? れな子さん」
 いえ、それは完全に勘違いなんですが……。
 咏先輩は優しく微笑んでいた。髪を明るく染めたピアスだらけの上級生のお姉さんが、まるで慈母みたいな眼差しを向けてくれて。その見た目とのギャップに、思わずわたしは……。
「さすが、クインテットですね」
 うぐっ。
 わ、わたしは………………。
「……そ、そんなことも、ありませんよー。あははー……」
 否定もできず、ただ咏先輩の言葉を受け入れたのであった……!
 だって、さすがクインテットなんて言われたら! もうわたしひとりの問題じゃないし! わたしがゴミだとクインテット全体の評判が落ちるし! 仕方ないよねえ!? わたしは合法!
 良心の呵責とかいう名前のキツツキが、わたしのこめかみをトントントントンやってくるおかげで、頭痛がしてきた。
 咏先輩はどこか遠くを見つめて、鮮やかなリップで彩られた唇を開く。
「急にという意味では、こちらも同じです。ごめんなさいね、モデルをお願いして。れな子さん、さぞ忙しかったでしょう?」
「あ、それは、別に、ぜんぜん。みちる先生にも、恩を売れますし……」
 ド正直に言ったら、またふふっと笑われた。真唯がお外で見せるような、品のいい笑顔だ。
「私、最近ちょっと焦っていて……もしかしたら、軽くスランプなのかもしれません。だから、同年代の女の子を描く人物画で、少しカンを取り戻したいと思っていて」
 咏先輩はぼんやりとキャンバスを眺める。昨日、少し進捗を見せてもらったけど、写実的な画風のデッサンは、めちゃくちゃうまかった。わたしがまるですごく美人みたいだった。
 きょうからは下絵の上から、少しずつ油絵的な塗り? をしていくらしい。
「ええと、リハビリ、的な?」
「そうです。そのために広崎先生には、誰かモデルの子を、ってお願いしていたんです。それがまさか、あのクインテットのれな子さんが来るなんて、びっくりでした」
「クインテットって、上級生にも当たり前に知られているんですね……」
「どうでしょう。私は特に芦ケ谷生を観察するのが趣味、のようなところがありますので」
 恥ずかしそうに微笑む咏先輩。絵描きのさが、ってやつなのかな?
「あれだけ可愛らしい人たちが集まっていれば、それはもう、目を惹きますよ。私はかわいらしい人が好きなので、なおさら」
「そ、そうですよね。かわいい人ばっかりですよね……。王塚さんとか、紗月さんとか、紫陽花さんとか、香穂ちゃんとか」
 切れ長の瞳をした咏先輩が、前かがみになって、顔を近づけてくる。
「それに……甘織れな子さんとか」
「ひょぇ」
 思わず声を漏らしてしまった。
 だって上級生のお姉さんがこんな無防備に迫ってくるなんて、人生でそう何度もあることじゃないし! いや、迫るというのは物理的な距離って意味でね!?
「れな子さんにモデルをお願いできて、本当に幸運です」
 夕暮れの教室。ふたりきり。なんだかよくないような気がしてきた。いや、これはただ絵描きとモデルが顔を突き合わせているだけなので、よくないことなんてなにもないんですが。
 くすくす笑う咏先輩を、ちらと見て。
「ど、どうですか……? わたし、モデルできてますかね……?」
 咏先輩はもとの位置に座り直して「うん」とにこやかにうなずく。
「すごく、助かっています。描いていて楽しいですよ、れな子さん。進捗も、きょうで半分ぐらいなので、残りあとわずかですがお付き合いお願いします」
 お付き合い……!
 いや違う! そういう意味ではない!
「こちらこそ、お願いします!」 ***  先輩っていいかもしれない。
 学校生活、わたしは教師はおろか、先輩や後輩ともまったく接していなかった。だから、同じ学校にいる上級生や下級生のことを、ただ同じ学校にいるだけの人と認識していたのだ。
 それがどうだろう。話してみると当然、先輩は後輩に優しいのだ。いや、中には厳しくてコキ使ってくるような人もいるかもだけど……。姉が妹に横暴なように……。
 しかし! 紫陽花さんのように、弟に優しい姉がいるように、下級生に優しい先輩も一定数いて……。そのひとりがきっと、咏先輩に違いなかった。
 特に、理由のある優しさっていうのがわたしに嬉しい。年上だから年下に優しい、は納得できる。納得できれば、受け入れられる。というわけで、わたしは初めて手に入れた『後輩』というポジションの心地良さに、すっかりとハマってしまった。
 年下って良い。なんだったら飛び級したい。フィクションの女の子みたいに、小学生の年で高校に入学できたら、さぞかしかわいがられることだろう。結局、みんな自分がいちばんかわいがられるポジションのために生きているのだ。それが人間なのだ……。
 という気持ちを、香穂ちゃんに軽く打ち明けてみた。
「わたし、『先輩』に弱いのかもしれない……」
「え? なに。罪の話?」
「いや違うけど!?」
 休み時間。わたしと香穂ちゃんは、女子トイレを出る。ハンカチで手を拭きながら廊下を歩いていると、向こう側から偶然(運命!?)咏先輩がやってきた。
「あ、咏先輩ー」
 小さく手を振る。すると、気づいた先輩が軽く手を挙げて、立ち止まる。わたしは香穂ちゃんにちょっとごめんって言ってから、咏先輩のもとへ小走りで駆け寄った。
「先輩、こんにちは。移動教室ですか?」
「いえ、少し飲み物を買いに。れな子さんもどうですか。買ってあげますよ」
「え? 悪いですよ!」
「いいえ、お世話になっているのは私のほうですから。なにがいいですか?」
 並んで歩いて、自動販売機に到着する。
 咏先輩が小銭入れから硬貨を取り出す。そのネイルも派手派手で、穏やかな咏先輩とのギャップがまた面白かった。
「そ、それじゃあカフェオレで……」
「ふふふ、はい」
「わーい」
 素直に嬉しい顔をする。ここでわたしが済まなさそうな態度を続けるよりは、後輩らしく喜んでおいた方が、おごってくれる咏先輩だって気持ちがいいはずなので。
 ていうか実際、嬉しい。早速、先輩にかわいがられてしまった……!
「わたし、こういうの初めてです。中学では、真面目に部活溶かしてこなかったので、先輩におごってもらうのとか、なんかちょっと憧れでした!」
「そうなんですか? だったら声をかけてよかったです」
 カフェラテを大事そうに胸の前で抱えていると、また咏先輩が微笑んだ。
「かわいいですね」
「えっ!?」
「れな子さんのことですよ」
「重ねて言いますか!?」
 すご、やば。かわいがりの連打がえぐい。
 髪が風に揺れて、咏先輩のたくさんのピアスがついた耳があらわになる。こ、こんな怖そうな人ですら、わたしをかわいがってくれる……! これが、後輩……!
「きょうの放課後も、楽しみにしています。よかったら来てくださいね、待っていますから」
「は、はい」
 流し目を残して、咏先輩が立ち去ってゆく。
 な、なんかドキドキしちゃった。上級生の魅力、っていうのかな……。わたしは少し火照りを覚まそうと、中庭に出て風にあたることにした。
 はー……もっとマジメに部活やっておけばよかったかな……。こんなにかわいがってもらえるなら……。いやいや、咏先輩がトクベツ優しいだけかもしれないけど……。
「また新しい女引っかけてんの? れなちん」
「わひゃあ!」
 陰から話しかけられて、飛び上がりそうなほどに驚いてしまった。
「な、なんで!? 香穂ちゃん!?」
「いやあ、ちょっと怪しい気配を感じて、つい追いかけてきちゃった。なんかいい雰囲気だったね」
「雰囲気とかないし! ただの先輩と後輩だから!」
「からのー?」
「からない!」
「そっかぁ。話変わるけど、れなちんって自分に優しくしてくれる人に会うと誰でも好きになっちゃうって本当?」
「変わってないよねえそれ!」
 ぜえぜえと息をつく。
 ひとしきりわたしをからかって満足したのか、香穂ちゃんはケラケラと笑っていた。これだから陽キャモードの香穂ちゃんは強い。歯噛みする。
「うう、わたしに優しくない同学年の香穂ちゃん……」
「でも好き?」
「好きだけども! ともかく! わたしと咏先輩はそんなんじゃないから!」
 香穂ちゃんはちょっと首を傾げて。
「咏先輩?」
「え? あ、うん。なんか、咏先輩がそう呼んでほしいって」
 少し考えるそぶりを見せる香穂ちゃん。な、なんですか……。やましいところはひとつもありませんよ……? ただの先輩と後輩ですよ……。
 そんな風に、内心で冷や汗をかいていると。
「うーん、でもなー、これをれなちんに言ってもなー」
「え、なになに。匂わせやめてほしい。こわい」
「あたしってほら、耳年増だから、学校のいろんな情報とか噂が集まってくるんだよね」
「う、うん。耳年増ってそういう意味じゃないけど」
 香穂ちゃんも自販機で、飲み物を買ってきた。やたら甘ったるそうなやつだった。
 とてててとやってきて、中庭で並んで立つ。なんとなくわたしは、買ってもらったカフェオレをまだ大切そうに抱えたまま。
「伏見咏先輩って、いろいろと噂がある人なんだよね」
「あ、そうなんだ。ええと、やっぱり美術のコンクールとかで有名だったり?」
「うん、それはそう。子供の頃からすっごくいろんな賞をゲットしてきたとかで、うちの美術部ではいちばん優秀らしいよ」
 ほえー。そんなすごい人に絵を描いてもらっているのか、わたし。これ、また妹に自慢できる案件かもしれない。後で自慢メモに書いておこう。
「ただ、あの見た目だし、トクベツ仲いいって人は、いないみたいでね。それで」
 香穂ちゃんはここからが本題とでもいうように、声を潜めた。
「ときどき、下級生の女の子に、モデルをお願いしているらしいんだよ」
「あ、それは本人も言ってた」
 確か、軽くスランプになったときに、頼んでいるって。
 香穂ちゃんがさらに顔を近づけてくる。
「だけど、実はその女の子にお願いしているのは、モデルだけじゃなくって──」
 そこから先は、わたしの知らない話だった。
「……え?」
 わたしは香穂ちゃんの話した内容に、目を丸くする。香穂ちゃんの口から語られたそれは、わたしの知っている咏先輩像とはまるで違うものだったから。
 あの咏先輩が……?
 わたしの手の中で、汗をかいたカフェオレがちょっとずつ温くなっていった。


「それじゃあ、きょうもよろしくお願いします」
「……よろしくお願いします」
 わたしは一昨日や昨日と同じように、ちょこんと行儀よく咏先輩の前に座る。
 挨拶もそこそこに、咏先輩は真剣に筆を動かしていた。
 ……。香穂ちゃんから聞いたことに関しては、実はまだ半信半疑だった。いや、香穂ちゃんにはバンジージャンプの命綱を預けてもいいぐらい全幅の信頼があるんだけど、でも噂って所詮は噂だしね。
「あ、きょうはありがとうございました、咏先輩。飲み物買ってもらって」
「いいんです。私も少しぐらい、先輩らしいことがしたかったので」
「そうなんですか? 先輩は、絵も上手ですし、その気になればいくらでも人望を集められそうですけど……」
 わたしがそう返すと、咏先輩はしばらく経ってから、ぽつりぽつりと口を開く。
「鬱陶しくなっちゃったんです」
「えっ?」
「私は昔から、それなりに絵がうまかったもので。いろんな人に、よく声をかけられていたんですよね。やっかみとかも、しょっちゅうで。私はただ絵が描きたいだけだったので、そういう部内の問題が面倒になってしまって。だから、あえて人を遠ざけるようにしたんです」
 そう言う咏先輩の格好は、確かに一般生徒が見たら怖いと思うようなファッションで。
 香穂ちゃんも言っていた。トクベツ仲のいい人はいなかった、って。
「あ、それで……」
「一時期、汚い言葉遣いを心がけていたときもあったんですけど、それは広崎先生にやめたほうがいいって止められちゃって。昔の写真の私は、本当に地味ですよ」
「あはは、それもひとつの高校デビューですね……」
 なるほど、もともと人気だった人が、人を遠ざけるために……。
 人の輪に入るために量産型女子を目指したわたしとは、真逆だ。いろんなデビューの形があるんだなあ。
「でも、れな子さんは最初からあんまり、怖がっていませんでしたよね。さすがクインテットの子です」
「いやあ……それは確かに、多少あるかもしれませんね……」
 不良じゃないけど真唯は光り輝くような金髪だし、咏先輩の鋭い目つきだって紗月さんのときどきする人殺しみたいな目よりはぜんぜん優しいし。
 そうか、あの連中に揉まれたことで、わたしの恐怖耐性もレベルアップしているのか……。
「でも、さすがに最初はちょっと怖かったですよ。すぐに、あ、いい人かも、って気づいちゃいましたけど」
「ふふっ、それはどうでしょう」
「えー!?」
 大げさに驚くと、咏先輩は口元に手を当てて、優しげに笑っていた。せ、先輩かわいい……!
 まったく知らない人だった咏先輩だけど、三日目ともなると、なんだか打ち解けた空気が流れてる気がする。これはもちろんわたしのコミュ力が急激に進化したとかではなく、咏先輩がわたしを気遣ってくれているだけだ。だけだぞ、れな子。そこは調子に乗るなよ。
 ただ、このままいけば三日目も、さらに最終日の四日目もつつがなく終わるだろう。よかった。最初はわたしがモデルなんてどうなることかと思ったけど、なんだかんだ咏先輩がぜんぶいい感じにしてくれた。空き教室に連れてきてくれたり。もつべきものは先輩なんだよなあ!
 しかもほら。上級生と仲良いのって、なんかちょっと、かっこいいよね。ドヤれる要素だよね。わたし、咏先輩にジュースおごってもらったこともあるんだぜ、ってポイント高いよね。
 いやあ、わたし後輩向いているかもしれない。これから一生一年生でいようかな。親に勘当されそう。
 と、わたしが、モデル業を務めあげながら内心、頬を緩ませていると。
 気づく。
 咏先輩の手が止まっていた。
 あれだけずっと、せっせと作業していた咏先輩の手が。
 本人も真剣な顔でキャンバスを見つめ──睨みつけている。なんだか、教室の空気がピリピリとしてきたような。
 声をかけていいのかどうかためらっていると、不意に咏先輩がつぶやいた。
「ダメかも」
 えっと……?
 どうしよう。聞いたほうがいいんだろうか。やばい。後輩としてどういう態度で接するのが正しいのか、まったくわからない。打ち解けたと思ったのは、わたしだけの気のせいだった!
「ごめんなさい、れな子さん。私、ダメです」
「ええと……。ど、どうかしたんですか? 急に、なにか……?」
 咏先輩は、キャンバスを腕で乱暴に払った。
「ええー!?」
 ぶっ飛んでいくキャンバスボード。音を立てて倒れるイーゼル。床を滑ってゆく絵を見送って、わたしはおろおろと咏先輩を見やる。
「し、失敗作ってことですか!?」
 咏先輩は、こくりとうなずいた。
 で、でも……。
「あんなに、きれいに描けているのに……」
 キャンバスには、わたしの正面を向いた顔が描かれている。様々な色が塗られていて、現時点でも完成が楽しみになるぐらいの出来栄えだ。そりゃわたしは、芸術のことはことさらなにもわからないけど、でも……。
「だ、だめなんですか、咏先輩」
「…………ダメです。ぜんぜんダメです」
 静かに、咏先輩が首を振る。
「モデルの良さを、なにひとつ活かし切れていません」
「そんなことはないと思いますが!」
 芸術の良さはなにもわからないけど、それだけは自信をもって叫ぶことができる!
 仮にその絵がコンクールに出て有名になって『へー、絵のモデルになった女の子がいるんだー?』ってわたしを紹介されたら、大勢が『あ、へー……。絵すごくうまいね』ってなるだろうよ! それぐらいはわかる!
「で、でもそんなに描いたのに……。今からなんとかこう、いい感じに修正とか」
「……」
 咏先輩はうつむいている。
 わたしは倒れたイーゼルを立て直し、絵を拾って立てかけようとして。
「私、美術部で特別扱いしてもらっているんです」
 絞り出すように、咏先輩が言う。
「え、ええと……?」
「それってぜんぶ、私がちゃんと絵がうまいからなんですよ。ちゃんと実績があるから。なのに絵が下手になったら、それってもうダメですよね。ただの髪染めてピアスつけて友達がいないだけの痛々しい不良になりますよね」
 ずどーんと咏先輩はものすごい速度で落ち込んでいく。ついていけない!
「い、いや、そんなことはありませんよ! 咏先輩はほら、絵が下手になっても、優しい先輩ですし!」
「それって私の絵が下手ってことを暗に認めています?」
「認めてませんけども!」
 この方向はまずい。軌道修正しよう。
「咏先輩の絵が下手になるなんてこと、ありえませんよ! だって今だってすっごくがんばっているじゃないですか! あ、ほら、第一これってスランプ脱出のための練習台みたいなものですよね? だったら、さっくりと軽い気持ちで完成させちゃったらいいじゃないですか!」
 わたしがそう訴えたところで、咏先輩が頭を抱えた。
「最初はもちろんそう思っていましたけど……。でも、れな子さんのことを知れば知るほど、こんなのれな子さんじゃない、ってなっちゃって……」
「それ本末転倒じゃないですか!?」
 スランプ脱出のための落書きで、スランプになるとか……!
 そりゃ、どんなものでもうまく描きたいのは、それはそうかもしれないけど……。でもそれができないから、モデルを呼んで調整していたのでは……?
 どうしよう。わたしひとりじゃ説得できないような気がしてきた。みちる先生呼んだほうがいいかもしれない……。
 なんて思っていたら。
「……れな子さん、私……」
 私が立てたキャンバスを、咏先輩が指でなぞる。
 その瞳の奥の感情を読み取ろうと、わたしは目を凝らす。なんもわからん! わたしとは住む世界が違いすぎるので!
「ごめんなさい、れな子さん。きょうはここまでにしましょう」
「でも!」
「いいんです。私も、きょうはちょっと疲れているのかもしれません……。また明日、お願いします」
 咏先輩はその場で大きく頭を下げる。
 わたしがなにも言えないでいると、さらにキャンバスの頭を撫でるみたいに。
「……あなたも、ちゃんとうまく描いてあげられなくて、ごめんなさい。次は、もっとがんばるから。誰にでも認めてもらえるように、がんばるから」
 それはまるで、歳の離れた妹をあやすお姉ちゃんみたいで、わたしの心はなぜかきゅっと締め付けられた。

 空き教室の前で別れる。
「それじゃあ……。きょうは、不甲斐ないところを見せてしまって、ごめんなさい。また明日、お願いします」
 もう一度深々と頭を下げてきた咏先輩にさよならを言って、わたしはしばらくその背中を見つめていた。
 あんなに才能がある優しい人でも、うまくいかないことはあるんだな……。
 しかも、誰かから非難されたとかじゃなくて、自分で自分のことを認められない、みたいな……。そういうの。
 わたしはもやもやした気持ちを抱えたまま、教室に戻る。なんとか咏先輩の悩みを自分に当てはめようとして見たけど、難しかった。
 スランプなんて経験ないし、わたし……。スランプというなら、人生がずっとスランプの真っ最中っていうか……。だから、確かに家に帰ってぐっすり休むっていうのは、解決策のひとつだと思ったんだけど。
 他になにか、わたしにできることあるかな。
 なんとなくそのまま帰る気が起きなくて、わたしは足を美術部へと向けた。もちろん咏先輩はいなかったんだけど、わたしに気づいた長谷川さんが顔を出してくれる。
「あれ、甘織さん、どうしたんですか?」
「あ、いや、ちょっとね」
 咏先輩が早く帰ったってことは、なんとなく言わない方がいいのかな、って思ったんだけど、他に理由も思いつかなかったので黙り込んでしまう。
 すると、長谷川さんだってそれ以上突っ込んでこなかったので、わたしたちの間には気まずい空気が流れてしまう!
 だけど、その瞬間、閃いた。気まずさを脱するために、わたしの脳がフル回転したのかもしれない。ありがとう脳!
「そうだ! 長谷川さん!」
「え? な、なんですか?」
 わたしは前のめりになって、長谷川さんに尋ねてみた。
「ね、咏先輩の描いた絵って、どこかにあったりしないかな!」
 思いついた。本当にそれが先輩のためになるかどうかはわからないけど。でも、もしかしたらわたしにだってできるかもしれないこと。
「え、絵、ですか。それなら、たぶん、美術準備室のほうに」
「見せてほしい! だめかな!」
「あ、えと、だったらたぶん、広崎先生の許可を取らないと……」
「わかった! ありがとね、長谷川さん!」
「ちょっ、やっ、顔ちか、ヤバ、香りが、あわ、あま、甘織さん!」
 わたしは大きく手を振って、校則違反ギリギリ、大股で歩き出す。
 だって、せっかく知り合えた先輩のために。
 かわいがってもらった後輩として、できるだけのことは、したいじゃん! ね! ***  予定の最終日。咏先輩の顔は、落ち込んだままだった。
「先輩、やっぱりまだ」
「え? いえ、そんなことはありませんよ。昨日はちゃんとたっぷり寝ましたから。ええ、大丈夫です」
 咏先輩は力なく微笑む。
「それに、この絵はやっぱり手直しして活かすことにしました。まだここからでも、なんとかなると思いますので……。普段通りの力が発揮できれば、ええ、きっと……」
「……」
 どんなに隠そうとしていても、向かい合っているからすぐわかる。この四日間で、わたしは咏先輩の顔をのべ三時間以上は眺めている。他人と目を合わせることも滅多にないわたしが、だ。下手したらクラスメイトの半年を越えている。
 芸術家のことはさっぱりわからない。
 だけど、咏先輩のことだったら、ちょっとはわかるから。
「あの、咏先輩」
「あ、はい?」
「邪魔にならない程度に、ですけど……ちょっと、お話してもいいですか?」
 咏先輩は、きょうはぜんぜん手が進んでない。そんな自分の様子に気づいてか、苦笑いを浮かべる。
「ええ、もちろん。きょうはどんな超オモシロ話をしてくれるんですか」
「え、咏先輩の絵のことです!」
 パンドラの箱が開きそうになる寸前、わたしは声を張る。
 咏先輩はびっくりして、瞬きを繰り返す。
「私の……?」
「はい、あの、実はわたし、今まで咏先輩が描いた絵を、見せてもらってきたんです。長谷川さんにお願いして」
「……え?」
 こんな素人丸出しの女が、本物の人に感想を吐き出すなんて怖い。だけど……!
 先輩はわたしのことを考えて、わたしに優しくしてくれたから! だったら、わたしだって! なんかこう、賢しげな後輩として!
「どれも、素敵でした。わたしは絵のド素人なので、気の利いたことはぜんぜん言えませんでしたけど、なんというか、華がある絵だなって思いました! いっぱい賞を取っているのも、納得な感じで……。だから、大丈夫ですよ! 先輩の絵は、人の心を動かせます!」
 わたしは必死に叫んだ。
 といっても、芸術のげの字も知らない、三日前に知り合ったばかりの後輩から捧げられた言葉なんて、ちっとも響いてはくれないんだろうけど!
 それでもいいって気持ちで、わたしはやるだけのことはやるんだ! いろいろがんばるって決めたんだから!
 なんて、思っていると──。
「……れ、れな子さん……」
 違う! 咏先輩は涙目になっていた!
 よろよろと袖を掴まれる。まるでつかまり立ちを覚えたばかりの幼児みたいに。
「クインテットのれな子さんに、そんな風に言ってもらえるなんて、私、私……」
 めちゃめちゃ響いてる……!
 びびるほどの効果だった。
「絵を描いてきて、よかった……」
「そ、そうでしたか。それは、その、なによりで」
 こんなわたしの言葉が、バズーカみたいな威力を発揮するなんて……。そうか、知らず知らずのうちにわたし、クインテットとして成長していたのかもしれない……。
 クラシックを聴いて育った花みたいに、わたしは日常的にクインテットのみんなの声を聞いているわけだから……なんか、こう、声がいい感じになったのかも……。
「ありがとうね、れな子さん……」
「い、いいえ、そんな。どういたしまして」
 ティッシュで鼻を噛んだ先輩が、鼻の頭を赤くしながら聞き返してくる。
「他には?」
「え!?」
 にっこりと笑う咏先輩。
「他に、私の絵で好きなところ、ありました?」
「え、ええと、その、色味がすごくきれいで、素敵でした! さっすが賞を取る人のセンス、って感じで! 目が幸せでした!」
「嬉しい……」
 またオイオイオとすすり泣く咏先輩。
 誰ともかかわらず、ただひとりで芸術の道を突き進む先輩の背中を押すことができたのなら、わたしもよかった。モデルをしたかいがあったというものだ──。
「他には、どうですか?」
 うん……。
 さすがのわたしも、三度目になると、いよいよなんかおかしいな、と気づいてくる。
「雰囲気が、すごく優しい感じがして! と思いきや、なんかこう、シャープな絵もすごくかっこよくて、いろんな作風を絵のテーマごとに使い分けていて、すごいなーって思いました!」
「あとは?」
「なんていうか、そもそものテーマ性っていうんですかね! 絵ごとにそれぞれあると思うんですけど、とても高校生離れしていて! 目の付け所がいいと思うんですよね! あれってやっぱり、発想力が人よりすっごくあるんだと思います!」
「うんうん! 他には!?」
「そうだなー! ちょっと待っててくださいねー!」
 わたしは両手でこめかみを押さえて時間稼ぎをする。
 あれ……? わたしの仕事はモデルだったはずなのに、どうしてこんなに全力で咏先輩をチヤホヤしちゃっているんだろう……。
 でも一瞬正気に戻ったところで、目の前の咏先輩は星空みたいに目をキラキラさせてわたしを見つめているから、『もうないです!』なんてとても言えるわけもなく。
 わたしは必死にネタ(と冷や汗)を絞り出しながら、香穂ちゃんの言葉を思い出していた。

『だけど、実はその女の子にお願いしているのは、モデルだけじゃなくって──。とにかく、気が済むまで自分を褒め称えさせているらしいんだよ。それで、美術部で女王様みたいに振舞っているんだって』

 なるほど、ね……!
「ねえねえ、他には? 他にはありませんか? ねえねえ、あ、よかったらもう一度絵を見に行きますか? ねえ、行きましょう、れな子さん」
 ただ、わたしの袖をちょんとつまみながらニッコニコの笑顔を浮かべる咏先輩は、どちらかというと女王様というより、わがままちびっ子プリンセスといった雰囲気だった。
 わたしはもはや無抵抗で、咏先輩に引っ張られてゆく。
 スランプ脱出方法ねー! そっかー、なるほどねー! ***  結局──。
 下校時間直前まで、わたしは咏先輩を褒め尽くした。
 そのかいあってか、翌日の放課後に咏先輩の下を訪れると、先輩はすっかりいつもの調子を取り戻していて──むしろ完璧にスランプを脱しており──昨日の続きを爆速で仕上げ終わった。
 手直ししたわたしの絵は、そりゃもう素人目から見たらとても美しい出来栄えで、嬉しかったんだけど……。あんまり絵に見とれていると昨日の続きの『ホメ』を要求されそうなので、わたしは逃げてきた。
 完璧な先輩だと思ったんだけどなあ!
 そして今ココ、である。
「ぜんぶ知っていたんじゃないんですか、みちる先生」
 ジト目で見つめる。職員室。椅子に座った先生は、がんばって目を逸らそうと斜め上を見つめていたんだけど、やがて諦めたように苦笑いを浮かべた。
「いやー、ごめんごめんー。貸しイチってことで、ね」
「む……。まあ、いいですけど……」
 先生がしらばっくれたら、それ以上どうしようもない話だし、そもそもわたしは屋上のカギをずっと借りている身。それなのに、素直に認めて貸しイチだと言ってくれるなら、まあ、いい落としどころだろう。
 みちる先生の、ある意味でこういうときに気取らないところが、わたしは好きだ。好きだけども!
「知っていたんだったら、最初から言ってくれたらいいじゃないですか!」
「いやー……。いろいろと、条件が合ってねー」
「……モデルの条件、ですか?」
「うん。いや、伏見さんが言ってきたわけじゃないんだけどねー。でもやっぱり、励ましてもらえるなら、それって心からの言葉のほうがいいよねー」
「まあ、先生からあらかじめ教えられていたんだったら、それはサクラみたいな感じになりますけど……」
「そうなんだよねー。いやーでもよかった。伏見さんのやる気が復活して、ほんとによかった。これもぜんぶ甘織のおかげだよー」
 ぽんぽんと二の腕を叩かれて、わたしは頬を膨らませる。いーですけどー。あんな恥ずかしい真似、もうしませんからねー?
「しっかし」
 みちる先生は腕を組んで、しみじみとつぶやく。
「言えないよね。美術部のエースのスランプ脱出方法が、顔のかわいい下級生にひたすら褒めてもらう、だなんてさー。そんな噂が知れ渡ったら、伏見さん学校来れなくなっちゃうよー」
「それは確かにですけども!」

 伏見咏先輩は、次の作品でまたもコンクールの大きな賞を受賞したらしい。
 その受賞にほんの少しだけでもわたしの力が寄与しているのかもしれないって思うと、なんだか後輩として誇らしい気持ちになるのだった。
 もう一度モデルをやってって頼まれたらぜったいイヤだけどね!?

ダッシュエックス文庫