Extra Case ルグモ街の妖精

 ルグモの街でも一番人気のその食堂は、夕食時とあって人でごった返していた。
 男達が無礼講とばかりに騒ぎ立て、女達が黄色い声でそれを囃し、彼らの手には漏れなくジョッキ。この店の日常が今日も繰り返されていたが、一部、ぽっかりと穴が空いたように静かな場所があった。
 そこに一人、異質な客がいるのだ。
「妖精の悪戯?」
 ルドヴィカ・ルカントーニは妖精めいた美貌をいかにも胡散臭げに歪めた。
 天使の翼のような白髪に、サファイアの如き碧眼。体格は女性としてもかなり小柄で、十代前半の子供に見えるが、実際は十五歳――この国の風習では立派な大人である。
 妖精界からうっかり迷い込んできたようなこの少女が、周囲の空気を塗り替えてしまっているのだった。
 向かい側に座る少年騎士ウェルナーは、ニシンの燻製をつつきながら話を続ける。
「この街ではよくあるんだってさ、『妖精の悪戯』が。誰も出入りしてないはずの場所から、物が忽然と消えてなくなるらしい」
「なんだそれは……バカらしい」
 憮然と吐き捨てて頬杖を突くルドヴィカ。いつになく不機嫌な様子だ。
 ウェルナーの目から見てもこの店は騒がしい。ましてや人間嫌いな彼女のことだ。今すぐ全員燃やし尽くしてやりたいくらいのことは思っているだろう。
 そんな彼女を護衛するのがウェルナーの仕事である。しかし人混み嫌いなルドヴィカを食堂まで引っ張り出したのは、ウェルナーではなくもう一人――
「あ、じゃあルドヴィカは特に気を付けないとね。きっと妖精さんの恰好の獲物だから」
 ルドヴィカの隣に座る栗色の髪の少女が、くすりと笑って言った。
「何だと! アイダ、オマエ助手の癖に――もがもが!」
「はい、あーん、っと。やっと食べてくれた。ルドヴィカったら、せっかくご飯食べに来たのに不機嫌そうにしてばっかりなんだから」
「もごもご――んぐ。オマエが無理やり連れてくるからだろうが! こんな大きさの店で一番人気など、混むのはわかり切っていたのに……」
「それだけ美味しいってことでしょ? 実際美味しいじゃない」
 栗色の髪の少女アイダはルドヴィカの文句を軽く受け流した。さすがはルドヴィカの助手兼侍女を一年もやっているだけはある。扱い方が熟練の域だ。
 アイダは続けてルドヴィカに料理を食べさせつつ、
「でも気を付けないといけないのは本当だよね。貴重品の管理、いつもよりしっかりしておいたほうがいいかな」
「かもしれないな。僕が幾ら剣を振り回した所で、妖精相手じゃあどうしようもないし」
 それなりに真面目に話し合っていた二人に、ルドヴィカが呆れたように言う。
「オマエら……妖精など本当にいると思っているのか?」
「えっ?」
「魔獣と同じようなものじゃないのか?」
「はあ……」
 ルドヴィカはこれ見よがしに溜め息をついた。
「魔獣は、スライムとかグリフォンとか、変な性質を持ってはいるがれっきとした生き物だ。一方、『妖精の悪戯』などというのは慣用句に過ぎん。自分の過失を架空の存在に責任転嫁しているだけだ。不貞を犯した人妻がインキュバスのせいだと言い張るのと同じだよ。……バカ正直を地で行くウェルナーはともかく、アイダ、オマエわたしの弟子の自覚はあるのか?」
「ごめんルドヴィカ。あんまりないかも」
 何だとう!? と立ち上がりかけたルドヴィカを笑っていなすアイダ。
「まったく……。ともあれ、この街の『妖精の悪戯』とやらも同じだろう。どこかの間抜けの単なる言い訳が、いつの間にか古式ゆかしい伝承になって一人歩きしているだけ――」
「いいや、ルグモの『悪戯』は本物だぜ、お嬢さん」
 突然口を挟んできたのはこの食堂の店主だった。筋骨隆々の彼は、「お待ちどお」と言いながら追加注文の品をテーブルに並べていく。
「本物? って、どうしてそう言えるんですか?」
 ルドヴィカがじろりと店主を睨むばかりで口を開かなかったので、ウェルナーが代わりに訊ねた。
「そりゃあ、つい最近俺もやられたからな。あっちの水場に木のマグが置いてあるだろ?」
 食堂の端には湯船のような水場があり、腕が入るくらいの太さの水道管から滔々と水が流れ込んでいる。その縁に大きめの木桶と木のマグが幾つか並んでいた。
 他の客がそれらを手に取り、貯まった水をがぶがぶ飲んではテンション高く笑っている。ルドヴィカが冷めた顔で「何がおかしいんだ……」と呟いた。
「あのマグがな、寝てる間にごっそり消えちまったのさ。あれだけの数が全部だぜ?」
「……誰かが盗んでいったのではないのか?」
 ルドヴィカが訝しげに言う。
「見れば、そこそこ上等な木でできているように見えるが」
「おお、そうさ。ルグモ特産のオークだよ。だがなあ、戸締りはきちんとしてたんだぜ? 誰かが忍び込んだようにはどうしても思えねえんだ」
 ふん、とルドヴィカはつまらなそうに鼻を鳴らした。
「それにしても、やっぱりすごいですね」
 アイダがとりなすように言う。
「さすが別名『水道の街』。あんな風に水を垂れ流しにしていてもいいなんて……」
「だろ? 味も絶品なんだぜ」
 店主が得意げに笑い、ウェルナーは首を傾げた。
「味も? 水道水の、ですか?」
「ああ。特にウチのはラーセ川から引いてるからな。あそこのが一番旨いんだ。騎士様方も一杯どうだい? 注文してくれた客なら幾らでも飲んでいいことになってんだ」
「それじゃあせっかくだし……いただきます」
「あたしも。……ルドヴィカは?」
「いい。オマエらだけで飲め」
 そういうわけで、ウェルナーとアイダの分を店主が汲んできてくれた。
 ウェルナーはただの水がそこまで美味しいのだろうか? と未だ半信半疑だったが、ひとたび口を付けるや仰天する。
「えっ……!? これ、本当にただの水なのか!?」
「ほんとだ、すごく美味しい!」
 清涼感に満ちながら、後を引く甘さがある。胸焼けすることもなく、クセになりそうな味だった。
「はっはっは! だろ? ウチの水は特別旨いと評判なんだ。さして大きくもないウチが街一番の人気になれた理由だよ。じゃんじゃん飲んでってくれ!」
 美味しい美味しいと水道水を飲み続けるウェルナーとアイダを、ルドヴィカはなぜか嫌そうな顔で見ていた。


 翌日。
 ウェルナー達は南へ向かう旅の途中である。今日にはもうルグモの街を出発しなければならない。
 宿の部屋で自分の支度を終えたウェルナーは、ルドヴィカとアイダが二人で泊まっている部屋へ向かった。ものぐさなルドヴィカのことだから、きっと支度にも手間取っていることだろう。
 ノックをすると、アイダが扉を開けてくれた。
「……あれ? どうしたんだ、アイダさん、その髪……」
「うう~」
 アイダの栗色の髪が寝癖で散らかり放題になっていた。ルドヴィカみたいだ。
「もしかして、起きたところだった?」
「そうじゃないの……。そうじゃない、んだけど~……」
 見れば、なるほど服は着替えている。アイダは手櫛で何度も髪を梳くが、寝癖はすぐに元に戻ってしまう。
「櫛がなくなったんだと。それで朝から大騒ぎだ。ふあ……」
 部屋の奥からルドヴィカが欠伸しながら現れた。室内では素肌に白衣だけという極めて独創的な格好をしていることも多い彼女だが、アイダが着せたのか、今は白衣の下に外出着を纏っている。一方、白く長い髪は枝毛だらけだが、それはいつものことだ。
「まったく、櫛くらいで……。そのくらい買い直せばいいだろう」
「だって買ったばかりだったし……。前のが傷んじゃったから、この街で可愛いのを見つけて……」
「ならますます買い直したほうが早いな」
「そんなの勿体ないよ!」
「貴族の娘らしからぬ価値観だな、オマエは……」
 ルドヴィカは、ふああ、と大きな欠伸をして、「準備が整ったら起こせー……」とベッドのほうに行ってしまった。二度寝する気満々だ。
 仕方なく、ウェルナーはアイダの失せ物探しに協力する。
「なくなったのは櫛だっけ?」
「うん。木の……」
「最後に触ったのはいつどこで?」
「ゆうべ、寝る前に洗面所で触ったのは覚えてるんだけど……」
 この宿はルグモの街でも特に上等で、各部屋に水道を引いた洗面所がある。ウェルナーはアイダと一緒に洗面所へ向かった。
 洗面台では、壁から生えた水道管が排水口に向けて水を垂れ流している。
「たぶん、この辺に置きっ放しにしちゃったんだと思うんだけど……」
 そう言いながら、アイダは洗面台の縁を指でなぞった。
「じゃあ床に落ちてどこかの隙間に入ったのか。排水口には網が張ってあるし」
「そう思ってさっきから探してるんだけど……」
 アイダと二人して洗面所の床に這いつくばり、櫛らしき物を探す。
 捜索は一〇分ほど続いたが、収穫はなかった。出てくるのは埃とゴミばかりである。
「はあ。やっぱりない……」
「とりあえず、その髪をどうにかしよう」
 落胆するアイダを元気づけるように言った。
「櫛くらいなら誰かから借りられると思うし、そのままじゃ外に出られないだろう?」
「う、……うん……」
 恥ずかしそうに頭を押さえるアイダに頷いて、ウェルナーは部屋を出た。
 櫛を借りて、すぐに戻ってくる。
「はい、これ」
「ありがとう……」
 アイダが髪を梳かしているうちに、ウェルナーはもう一度洗面所周辺を探してみた。しかし、やはり見つからない。
 寝室に戻ると、アイダは二度寝を決め込んだルドヴィカの長い白髪を梳いていた。
「あらかた探してみたけど、やっぱり見つからなかったよ。荷物に紛れていたりは?」
「一応探したよ。なかったけど……」
「となると……泥棒?」
「櫛泥棒?」
 言って、アイダはおかしそうにくすくす笑った。ウェルナーも『それはなさそうだな』と思う。
「戸締りもきちんとしてたしね。朝起きた時、扉も窓も鍵かかってたよ」
「うーん。じゃあどこに行ったんだろう……?」
「……ん~……」
 二人して首を傾げていると、ルドヴィカが唸って目をこすった。
 彼女はゆっくりと上体を起こし、眠そうな目でウェルナーとアイダを見やる。
「ふふぁ……なんだオマエら。まだ櫛を探しているのか?」
「ああ。これが全然見つからなくてさ」
「ふん……なら『やられた』んだろうな、おそらく……」
 やられた……?
 瞬間、昨日の夕食で話していたことを思い出し、ウェルナーはアイダと顔を見合わせた。
「それって、もしかして……」
「……『妖精の悪戯』?」
「合っているとも言えるし、間違っているとも言える」
 寝起きのぼんやりとした顔のまま、ルドヴィカはわかるようなわからないようなことを言った。
「どっちにしろ櫛は戻ってこない。もう諦めろ……ふぁ~」
「ちょちょちょ! 待て寝るなルドヴィカ!」
 意味深なことを言うだけ言ってまた寝ようとしたルドヴィカを、ウェルナーは慌てて止める。
「君、もしかしてアイダさんの櫛がどこに行ったかわかってるんじゃないのか!? それに『妖精の悪戯』の正体も!」
「妖精なんぞ存在しない……昨日言った通りだ……」
「でも、今の口振り――」
「……だが、『悪戯』の犯人は厳然と存在する」
 睡魔と格闘中のふにゃふにゃな声は、しかしはっきりとそう言った。
 アイダが今にも倒れ込みそうなルドヴィカを支えながら、
「どういうことなの、ルドヴィカ? 犯人ってことは、やっぱり泥棒なの? でもどうして櫛なんて……」
「それに、戸締りはきちんとしていたんだろう? 食堂の店主もそうだったって言ってたし、泥棒なら何かしら痕跡が残るものじゃないか」
 騎士は秩序の維持者。泥棒のような犯罪者を捕まえるプロだ。その見地から見ても、この部屋に泥棒が入ったとは思えない。
「戸締りはきちんと……?」
 ルドヴィカは再び手の甲で目をこすり、ぱちぱちとサファイアの瞳を瞬いた。
「冗談はよせ。この部屋のどこが戸締りされていると言うんだ」
「きちんとしてたよ。扉も窓も鍵をかけて――」
「だからだな……出入り口は扉と窓以外にもあるだろうが」
 ルドヴィカは鬱陶しげに頭を掻き、ベッドを下りてふらふら歩いていく。ウェルナーとアイダはわけもわからずそれについていった。
(出入り口が、扉と窓以外にも? 迷宮じゃあるまいし、秘密の抜け道があるなんてことは……)
 ルドヴィカが訪れたのは洗面所だった。
 彼女は洗面台の前で振り返り、ついてきた二人に言う。
「扉と窓以外に、もう一つ」
 そして手を伸ばし――壁から生えた水道管を、コンコンと指で叩いた。
「この水道管も、立派な出入り口だろう」


「あの食堂の水場には、マグの他に桶もあっただろう?」
 雑踏の中を歩きながらルドヴィカは言った。
「なのに、あの店主はマグが消えたとしか言わなかった。桶は残っていたわけだ。なぜだと思う?」
 後ろを歩くウェルナーとアイダは首を傾げる。その時、ちょうど広場を通りかかり、女性達が共用水場から桶で水を汲んでいるのが見えた。
「持ち切れなかったから……じゃないのか?」
 ウェルナーはあてずっぽうで言った。
「マグよりも桶のほうが大きいんだから」
「そこまで思い至ったならもう一歩踏み込めるはずだ。つまり――」
 ルドヴィカは視線だけを背後に寄越し、
「――マグは水道管を通るが、桶は水道管を通らない」
「あっ」
 アイダがか細く声を上げた。ウェルナーも理解に打たれる。
 水道管は腕が入る程度の太さだった。あのサイズでは桶は通らない。
「この時点で、『悪戯』の犯人は水道管から出入りしているのではないかと推測が立った。そこに盗まれたマグがこの街特産のオーク材でできていると知って確信を得た」
「犯人は一体誰なんだ? 今、僕達はそいつの所に向かっているのか?」
「まあそうだな。……着いたぞ」
 そこは川だった。ラーセ川――食堂の水道の水源だと言っていた場所だ。
 幅はさほどでもないが、深さはそこそこある。大人でも泳げなければ溺れてしまうだろう。
 ルドヴィカは左右を見渡し、左方の橋に目を留めた。近付いていき、橋の下を覗き込む。
「あったぞ」
「あった? 何が?」
「犯人の巣だ」
「「……巣?」」
 ウェルナーとアイダは首を傾げつつ、二人してルドヴィカの指差す場所を覗き込んだ。
 一見、奇妙なものは見つからない。綺麗な水が爽やかにせせらいでいるだけだ。だがよく目を凝らすと、川底に不審なものがあった。
「なんだあれ……木か?」
「木でできた毛糸玉みたいな……ルドヴィカ、あれが『巣』なの?」
 アイダが顔を上げて訊くと、ルドヴィカは頷いた。
「あれが『妖精の悪戯』の犯人――スライムの巣だ」
「「えっ!?」」
 二人の大声に周囲の通行人が一斉に振り返った。
 同時、ルドヴィカの拳骨がウェルナーとアイダにそれぞれ振り下ろされる。
「たっ!」
「いったぁ……!」
「大声を出すな。あまり流布したくはない話だ」
「でも、スライムって……あのスライムだろ?」
 額を押さえながら、ウェルナーは騎士学校時代のことを思い出す。
 魔獣討伐の実習でスライムと戦ったことがあった。ぐにょぐにょでぐちゃぐちゃで不定形で、斬っても斬っても傷つかず、途方に暮れたものだ。退治するには火で炙ったり氷水で冷やしたりしなければならないのだが、教官が意地の悪い人物でなかなか教えてくれなかったのだ。
「スライムのエサは水中の不純物だ」
 ルドヴィカは川底に視線を落としながら語り始める。
「だからああして水中に巣を作り、外に出てくることはほとんどない。人間に襲い掛かったりするのは、生まれた場所に恵まれずエサに不自由した個体だな」
「えっ? でもスライムが『悪戯』の犯人だって……」
「エサ以外にも、スライムが収集するものがあるということだ」
 そう言ってルドヴィカは川底を指差した。ウェルナーもアイダも、それでたちまち理解の顔になる。
「巣か!」
「盗まれた物は、スライムの巣作りに使われてたってこと?」
 ルドヴィカは頷いた。
「スライムには妙な習性があってな、自分の巣をいつも同じ材料で作るんだ。木と決めたら木で。金属と決めたら金属で。まるで職人のようにな。……そして、食堂から盗まれたマグはこの街特産のオークで、アイダの櫛もこの街で買った木製のものだった」
「あっ……もしかしてこういうこと?」
 アイダが得心した声で言う。
「元々スライムはこの街の近くの森に住んでいて、でも木が伐採されちゃったから巣を作れなくなった……。だから街まで出てきて、巣作りのために木製の道具を盗んでいた」
「そういうことだろう」
 ルドヴィカは頷いた。
「見ての通り、巣は流れる川の中にある。放っておけば劣化は避けられん。定期的に材料を集めて補強しなければならないんだ」
 ウェルナーは少しだけ可哀想だと思った。襲ってくるなら退治せねばならない。だが魔獣とは言え、あのスライムはただ静かに暮らしていただけなのだ。なのに人間の都合で住処を奪われ……。
「とは言え、害と言える害はそれくらいだ」
 ウェルナーの感傷に割り込むようにルドヴィカが言った。
「むしろ総合すれば益のほうが多いだろうな」
「そうなのか?」
「言っただろう、ウェルナー。スライムは水中の不純物を食べる。水を綺麗にしてくれるということだ。これほどの益獣はなかなかいない。だからこの街の領主もあえて放置しているんだろう」
「そっか……。じゃあこの川の水が美味しいのもスライムのおかげなんだね」
 アイダはその場に屈み込み、手を川の中に差し入れる。「つめたっ」と片目を瞑るも、手を引っ込めることはなくそのまま水流を感じていた。ウェルナーも同じようにすると、清涼な感覚が手の平に返ってくる。
 ルドヴィカは二人の背中を見下ろして、
「いや……他に言うべきことはないのか?」
「え?」
「何が?」
 振り返った二人を見て、ルドヴィカは呆れ果てたように溜め息をついた。
「あのな……この川にはスライムがいるんだぞ?」
「ああ、聞いた」
「スライムというのは、ぐちゃぐちゃどろどろのゲル状生物だぞ?」
「知ってるよ?」
「……そんなのが住んでいる川の水を、オマエ達は飲んでいたんだぞ?」
「…………」
「…………」
 二人は沈黙した。
 ルドヴィカの言いたいことが、遺憾ながらわかってしまった。
 そして、白い少女は決定的な一言を告げる。
「オマエ達が甘いと言っていたのはな、スライムの体液の味だ」
 二人は川の水にさらしていた手をパッと引っ込めた。
 手を服で拭き、口を押さえる。胃の底から吐き気が込み上げた。
「うぷっ……る、ルドヴィカぁ~。どうしてそんなこと教えるの~」
「オマエらが説明しろとせがんだんだろうが」
「それで昨日、君だけ水を飲まなかったのか……うう」
「旨いのはわかっていたが、やはりスライムの体液を飲む気にはなれなくてな。まあ安心しろ。大して害はない」
 大して、ということは、多少はあるのだろうか……。ウェルナーが自分の体調を気にしていると、
「あれ?」
 アイダが、不意に首を傾げた。
「ねえ、ルドヴィカ……あたしの櫛がなくなったってことは、あたし達の部屋の水道もラーセ川が水源なんだよね?」
「そういうことになるな。それがどうした?」
「あたし、朝、部屋の水道水で顔を洗ったんだけど……」
 わずかに恐れを帯びた声で、アイダは言う。

「……昨日、食堂で飲んだのより、全然甘くなかった気がするの……」

「……何?」
 ルドヴィカは訝しげに眉をひそめた。
 アイダは焦ったように手を振って、
「いや、勘違いかもしれないよ? ……でも、昨日食堂で飲んだのはもっと甘かったような……」
「……昨日飲んだ水はどのくらい甘かったんだ?」
 ルドヴィカの真剣な声音に、ウェルナーはアイダと顔を見合わせる。
「どのくらい、って言われると……かなりだ。口の中に残るくらい」
「うん。果汁みたいだった」
「……バカな」
 ルドヴィカは硬い声で吐き捨て、イライラと爪先で地面を叩いた。
「体液が溶け出すと言っても、川の水は膨大だ。普通なら希釈されて、甘さはせいぜい香りが残るくらいのはず……と、いうことは……」
 ――チッ、と。
 妖精のような美貌から舌打ちが漏れる。
 かと思うと、彼女は唐突に白衣と白髪を翻し、せかせかと歩き出した。
「おい、ルドヴィカ!?」
「行くぞ、二人とも来い!」
 一方的に言われ、二人はわけもわからず後に続いた。ルドヴィカはさらに歩く速度を上げていく。
「いきなりどうしたのルドヴィカ!? どこに行くの!?」
「昨日の食堂だ」
 ルドヴィカの声音は、怒りを孕んでいた。
「ヤツめ……やってはならないことをしたな」


 食堂はまだ開店前だった。
 施錠されたドアをガチャガチャと揺らし、ルドヴィカはまた舌を打つ。
「どうしたんだ、ルドヴィカ。この店に何の用があるんだ?」
「ウェルナー……この店、少しおかしいと思わなかったか」
 突然の質問に、ウェルナーは反応できなかった。
 ルドヴィカは急いた様子で問い直す。
「妙に騒がしいとは思わなかったか?」
「まあ、確かに活気のある店だとは思ったけど……」
「お酒も出てたみたいだし、あんなものじゃないの?」
 アイダに対し、ルドヴィカは真剣な表情で首を振る。
「連中が持っていたジョッキの中身は、おそらく酒ではない」
「お酒じゃない……? だったら――」
「決まっているだろう――水道水だ」
 へ? と、二人は目を丸くした。
「まさか。あの水は確かに美味しかったけど……」
「水道水であんなに騒げる人なんて……」
「いない、と思うだろう? わたしもそう思う。――だから、あの時この店では異常なことが起こっていたんだ」
 その言葉を聞き、アイダが表情を引き締める。
「ルドヴィカ……これは、重要なことなんだね?」
「ああ。できれば店内に入って確認を取りたい」
「……ウェルナー君。鍵、どうにかできるかな?」
 二人の少女から眼差しを向けられて、ウェルナーは困ってしまう。鍵を破壊して押し入るなんて、丸っきり犯罪行為だ。だが彼女達の顔つきはこれ以上なく真剣で――
「ああもう、わかったよ!」
 ウェルナーは腰の鞘から長剣を抜き、店の扉を両断した。
 三人は倒れた扉を踏み越えて店内に入る。
 昨夜、あれだけ活気に溢れていた店内にひと気はない。それを確認するなり、ルドヴィカは壁際にある水場へ向かった。
 水道管から滔々と水が流れている。溢れ出さないのは側面の上部に排水口があるからだ。ウェルナーも覗き込んだが、おかしなものは何もなかった。アイダも見つけられないようだ。
「どこだ……?」
 ルドヴィカは水場ではなくその周囲を見回していた。程なく、水道管が生えている壁に目を留める。
「ウェルナー。この壁を壊せ」
「え? 壁を……!?」
「いいから」
 ウェルナーは躊躇いつつも、渋々長剣を抜いた。
 斬撃が高速で閃き、木の壁を四角く切り取る。
 その奥には――
「タル……?」
 タルだ。巨大なタルがそこにはあった。
 水場より少し高い場所に設置してあり、よく見ると水道管はそのタルから伸びている。
「貯水タンク……? なんでわざわざ……」
「……気が進まんが、確認せんわけにはいかんな。ついでにぶち壊してしまおう」
 不穏さを感じて振り返ると、ルドヴィカがアイダを連れて離れていく所だった。
「ちょっ、ルドヴィカ!?」
「ウェルナー、そのタルを斬れ! そしてすぐに離れろ。服をダメにしたくなければな!」
(わけがわからない……!)
 もうどうにでもなれ、と半ばヤケになり、ウェルナーは長剣を振るった。
 タルに大きな裂け目が生まれると同時、すぐさま飛びずさる。
 バキッ、と裂け目が広がり、ウェルナーは大量の水が溢れてくるのを覚悟したが――
 ――でろでろでろでろでろっ、と。
 実際に溢れ出てきたのは、スライムの大群だった。
「ひああっ……!」
 アイダが悲鳴を上げて尻餅をつく。
 無理もない。床に散らばった緑色のスライム達は、まるで零れ落ちた臓物だった。しかしそれらは床板の上でぐにょぐにょ蠢いているだけで、危険はなさそうに思える。
「ルドヴィカ、これは……」
「ああ。……やはり、飼っていたな」
 そう言って、ルドヴィカが表情を歪めた時だった。
「なんだ今の音は! 泥棒だったらタダじゃ済まさね―――え、ぞ」
 店の奥から昨日の店主が走り出てきたかと思うと、ウェルナー達と散乱したスライムを見て、顔を凍らせた。
 その顔には見覚えがある。
 悪事を見破られた者の顔だ。
 目つきを鋭くしたウェルナーの前に、ルドヴィカが一歩進み出る。
「昨日は世話になったな、店主。今夜も商売は繁盛しそうか?」
「へ……へへ……そうなったらいいと思っていた所で……」
「謙遜はよせ。今夜もこの店は千客万来だろう。――何せ、客をヤク漬けにしているのだからな」
「なっ……!?」
 ウェルナーに戦慄が走る。
「ヤク漬け……!? そう言ったのか、今!?」
「スライムの体液は、普通なら膨大な水に希釈されて無害化する。スライムは群れを作ることもないし、生息地も川や湖沼がほとんどだからな」
 しかし、とルドヴィカは続け、
「こんな風に大量に詰め込めば、自然、体液の濃度は上がり、本来の性質が希釈されずに残る。本来の性質――つまり、向精神作用と依存性がな」
「向精神作用と、依存性――って、要するに……!」
 ああ、とルドヴィカは応じ、水場を指差して告げた。

「――一種のドラッグだよ。ここに堂々と貯まっているのは」

(ドラッグ……!)
 ウェルナーの脳裏に、昨日ここで食事をした時のことが蘇った。
 妙に騒がしい客達。水道水をがぶがぶ飲んでは大笑いしていた人々。昨日は『活気がある』程度の印象しかなかった。だが真実が明かされた今、その光景の意味はまるで変わってくる。
「客を依存させていたのか……! リピーターにしてお金を取るために!」
 鋭く睨みつけて長剣の切っ先を向けると、店主は薄ら笑いを浮かべた。
「へ、へへ……ドラッグだって?」
 大仰に肩を竦め、
「そいつは大袈裟だぜ。こんなもんは酒や煙草と同じだ。そうだろ?」
「そんな理屈――」
「確かにそうだな」
 ウェルナーは驚いてルドヴィカを見る。彼女はウェルナーには振り返らず、
「スライムの体液を取り締まるか否かは、領主によって意見が分かれる所だろう。昨日そこそこ飲んだウェルナーとアイダに中毒症状が出ていないことからもわかる通り、本来のドラッグより毒性はずっと弱いからな。酒や煙草のようなもの、と言われればそれまでだ」
「ルドヴィカ……! 何を言ってるんだ! こんなの見逃していいはずないだろう!」
「罪を定めるのは法律だ。道徳ではない」
 はねつけるような言葉に、ウェルナーは絶句する。
 その代わりとばかりに、「ぶわはははははっ!!」という笑い声が食堂に響いた。
「わかってるじゃねえか、お嬢ちゃん! そうさ、ルグモの街じゃスライムの体液入りの水を飲ませるのは罪にはならねえ。濃度の程度に拘らずだ! 俺はお天道様に顔向けできねえことなんざひとっつも――」
「だが」
 鋭い声が、得意げな店主の言葉を引き裂いた。
「キサマが悪事を働いているという真実がここにある。それだけで、わたしには充分だ」
 サファイアの双眸が処刑人めいた酷薄さで店主を射抜く。店主は得意げな表情を瞬時に崩し、冷や汗を浮かべて一歩後ずさった。
「て、……てめえ……一体、何を……」
「確かにキサマは罪を犯してはいない。……だが、客に真実を伝えなかった。選択肢を与えなかった。真実を悪用した。――わかるか? キサマは、わたしの怒りを買ったんだよ」
 その声の鋭さは、一言ごとに店主を斬り裂いていく。店主は怯え切った表情で、自分の胸辺りまでしかない少女を見下ろしていた。その様はもはや狩られる獣のそれで――
「わたしには、然るべき真実を然るべき者達に明かすことができる」
 小柄な身体に見合わない超然とした居住まいで、ルドヴィカは告げた。
「キサマ如きに報いを受けさせるには、それで充分だと思うがな?」
「こッ――」
 店主が臨界に達した。
 それは怒りの臨界ではなく、恐怖の臨界だった。
「――こンの、ガキがァあああああああああああああああああああああああッ!!」
 店主が鬼の形相でルドヴィカに飛びかかる。筋骨隆々の巨体は、その質量だけで熊さえ跳ね飛ばしそうな突進力を生んでいた。
 しかし――太い腕が純白の少女に届くまで、およそ一秒。
 ウェルナーが庇いに入るのには、充分すぎる時間だった。
「どけ小僧ッ!! 騎士だか何だか知らねえが――」
 直後、ウェルナーがしたことはたった三つ。
 剣を持っていない左手を伸ばし、
 店主の右手首を掴み、
 ――くるり、
 と、軽く捻る。
 たったそれだけ。
 たったそれだけで、店主は上下を反転させる。
「―――は?」
 彼が間抜け顔でいられたのは一瞬だった。
 次の瞬間、頭が痛々しい音を立てて板張りの床に落下する。
「ぐッ……がッ……!」
 自らの体重に潰されて、店主はぐったりと横たわった。怯えているのか、スライムがのろのろ逃げていく。スライム塗れの店内にあって、倒れた店主の周囲だけが空白になった。
「その……力……」
 焦点のずれた目が、軽々と大の男を投げ飛ばした少年騎士を見上げる。
「て、めえ……まさか、聖騎士――」
「帝国騎士団本部所属、準聖騎士ウェルナー・バンフィールドだ。……別に覚えなくてもいいよ」
「ついて……ね……――」
 声が潰え、目が裏返る。
 死んではいない。気絶しただけだろう。
 ルドヴィカが白い髪を揺らし、伸びた男を冷たい瞳で見下ろした。
「……哀れな男だ。他にやり方は幾らでもあっただろうに……人間、楽な方法があれば飛びつかずにはいられないということか」
 ウェルナーには何も言えない。悪人の心を慮るには、知識も経験も足りなかった。
 アイダが隣に来て、悲しげな目を男に向ける。
「……料理、美味しかったのにね」
 ウェルナーは、昨日味わった料理を思い出し、無言で頷く。
 ぶちまけられた水とスライムが、ぴちゃぴちゃと水音を立てていた。


 三人は店主をそのままにして店を出た。後で騎士団のほうから手を回してもらうつもりでいるが、現状ウェルナー達にできることはない。
「時間を喰ってしまったな……。急がなければ」
 店から出るなりルドヴィカが言い、アイダが頷いた。
「そうだね。そろそろ出発の準備を整えないと旅程が狂っちゃう」
「違う。オマエの櫛だ。買い直すんだろう?」
「え?」
 アイダは面食らった顔になる。
「もしかして……買ってくれるの?」
「そのくらいなら買ってやる。スライム塗れの櫛を探し出すと言うなら話は別だが」
 アイダは一瞬ぽかんとした後、ウェルナーと顔を見合わせ、一緒にくすくすと笑った。
「オイ、なんだ! 何がおかしい!」
「だって、ねえ?」
「ルドヴィカはいい先生だな、って思ってさ」
 ルドヴィカは恥ずかしそうに顔を赤くして、ふいとそっぽを向いてしまう。
「……いい。わかった。自腹で買い直すということだな」
「わっ、ちょっと待ってルドヴィカっ!」
 ずかずかと歩いていくルドヴィカを、アイダが慌ててぱたぱた追いかける。その後ろに、ウェルナーは微笑みながら続いた。

 これは、なんてことのない旅の幕間。
 求められることのなかった枝葉の筋書き。
 暗転はまだ明けることなく。

 ―――魔女だけが、舞台袖で真実を抱いていた。

Thinking Start.
Witch Hunt Curtain Call――The Case of "*****".