● 読み切り 『白粉花の夏休み』
夏の白粉家の朝は早い。
まず起きてすぐにするべきことは、愛犬アロエの散歩から始まる。アロエはニューファンドランドという超大型の犬であり、その艶やかな黒く長い毛並みに加え、お腹周りの贅肉による無意味な耐寒能力が向上した四歳の女の子である。元々暑さには弱い犬種ということもあり、夏場は日中、エアコンの前かフローリングの上から動かないため、まだ気温の低い早朝と夜だけしか散歩に行けないのだ。
しかし、その日、白粉花はいつもの散歩の時間よりかなり早く目を覚ました。
夏休み、部活での合宿を終え、実家での自堕落な日々を送っていた白粉にとってそれは大変稀なことだった。いつもなら目を覚ましたアロエが彼女の部屋の扉をガリガリと爪を立てて引っ掻くようにしてノックし、散歩へ連れて行けと命じられるまで寝ているのが日常だった。今日はそれもなく、その時間よりもずっと早く白粉はベッドから起きて顔を洗い始めた。窓の外は未だ暗く、東の空だけがかすかに夜の終わりを示し始めたばかり。
天気予報をチェック。今日は比較的涼しげ。しかし油断は禁物だという。
髪を整え、服を着替え、日焼け止めを塗り……身だしなみを整えた白粉は小柄な彼女が持つにはやや大き過ぎるショルダーバッグを肩から下げる。
今日は大きめのTシャツにプリーツスカート、そして鍔付きのキャップを目深く被って、後ろに束ねた髪を帽子の穴から外に出す。
自室の姿見の前で何度も何度もくるくると回り、おかしなところがないか念入りに自分の姿をチェックする。彼女は特別可愛くありたいとは思っていないが、普通に見えるように、変な奴だと指を向けられて笑われないようには気を使う。普段は主夫をやっている父親に最終チェックをしてもらうが、この時間はさすがにまだ寝ているので今日は洗面所にある大きめの鏡で、一人、チェックをした。
居間に両親へ出かける旨の書き置きをし、キッチンで濃いめに作った麦茶と氷を魔法瓶にたっぷり入れ、バッグに投入。玄関へ向かう。
玄関前のフローリングではアロエが仰向けで大の字になって「ずぴずぴずぴ〜」と鼻を鳴らして寝ていたので、起こさないように慎重に横を通り抜けて白粉は表に出た。
未だ気温が上がりきらないこの時間帯、街中どこに行っても人気がないので白粉にとっては気が楽な時間だ。学校の制服を着ている時ならまだしも、私服姿で街中を歩くのは彼女にとってはなかなかに大変な行為なのだ。
普段ならば駅までバスを使うが、時間が時間なので、まだ運行前だ。白粉は一人、少しばかり気の早い雀の声を聞きながら徒歩で向かう。
駅前のコンビニに寄り、朝食用のお握り二つ(梅・鮭)を購入し、ガラガラの始発の電車に乗る。人が増える前に、彼女はお握りをもしゃもしゃと頬張った。
長時間電車に揺られ、乗り変え、徐々に人気が増えていくに従い、白粉は自分が今、目的地に近づきつつあるのを感じる。そして基本的に人気を嫌う白粉だが、この時ばかりは人混みの中に入ることにかすかな喜びを覚えた。
果たしてたどり着いたのは東京、新橋駅。車両に一杯にいた男女の若者たちがまるで全員が何かしらの打ち合わせをしていたかのように、一様ゾロゾロと下車し、川の流れ、または蛇がうねりながら進むかのようにして歩いていく。
白粉は歩きながら携帯で時刻を確認する。七時三〇分を少し過ぎたぐらいだが、すでに駅構内は人の熱気と湿気で不快な空気を作っていた。
途中、スタンドタイプのジュースバーを見つけたので白粉は人の流れから外れ、そこでマンゴージュースを注文。そのバーの前では無表情に人混みを眺めている人が幾人もいたので、彼らに倣うようにして白粉もまた無表情に歩み行く人を眺めつつ、冷たいそのジュースを口にする。
マンゴー系のジュースとなると大抵はベットリと甘く、やや重い印象のものが多いが、ここのは注文を受けた後に氷と果物をミキサーにかけて作られるため、サラリとしていた。マンゴーの甘さとかすかな酸味、そしてクラッシュされた氷によるキンッと冷たい喉越しが八月半ばのこの時期にはありがたい。特にこれから灼熱の舞台へ躍り込まんとする白粉にとってはなおさらだ。
最後にグビっと紙コップの中身を飲み干し、冷たさにかすかな頭痛を覚えつつカップをゴミ箱に放り込むと、再び彼女は人混みの中に紛れていく。そして流されるようにして東京臨海新交通臨海線――いわゆる、『ゆりかもめ』の車両に押し込まれた。ギュウギュウ詰めの中、彼女らは夏の一大イベント、三日間に渡る世界最大規模の同人誌即売会、その二日目へと勇ましく向かっていくのだった。
イベントが開催されるのは一〇時だが、白粉が現場に到着した八時過ぎの段階ですでに会場前にはとてつもない人が列を成していた。もはやそれは長蛇という言葉自体が陳腐であり、強いて言うなればアジア最大の中国の長江の雄大な川の流れを白粉に連想させる。
夏場の直射日光を浴び続けるその万を超える人々が発する汗のせいか、辺りには異様な湿気と獣のような体臭、香水や制汗スプレーなどの無数の香りが混じり合って、屋外だというのに嫌な空気が辺りを包み込んでいた。会場は海が近いせいもあって風が吹いていたが、それでもその空気は消え去らない。漢の汗が好きな白粉とはいえ、さすがにこういった混合臭は苦手だった。
悪臭、炎暑、そして微動だにしない行列の中だが、それでも白粉はどこか楽しい気分を感じていた。この手の同人誌即売会の行列は如何にして目当ての同人誌やグッズを買うかという者たちばかり。しかし、白粉はそういった目的で行列には並んでいなかった。
イベント開始数分で売り切れたり、数百人規模の行列が出来る同人誌やグッズは白粉にとってはどうでもいいのだ。彼女が目当てとするのは比較的マイナーなジャンルの物であり、正直なところ行列が解消される昼頃に訪れたとしても十分手に入る代物ばかりだった。
白粉が欲するのは、男同士の熱い関係の本だが、そうであれば何でも良いというわけではない。好みのジャンルは小説・漫画を問わず『オリジナル』、『ナマモノ』、『半ナマ』、『干物』を少々という感じであり、大多数を占める人気アニメ、漫画の美形キャラの本は少し苦手だ。例えその元の作品が好きだったとしても、イマイチ手が伸びない。皆、妙に小綺麗で、彼女が特別なこだわりを持つ肉感的なモノや、汗、体臭のようなものが誌面からあまり伝わってこないものが多いのに加え、それらにはキャラに頼り切った『やまなし、おちなし、いみなし』といった、まさに『ヤオイ』な作品が多いせいかもしれない。白粉としてはきちんとした物語の体裁を整え、ヤマもあり、オチもあり、意味もある、そんな作品が好きだった。そういった作品は書き手の拘りが出やすいせいか、やはりオリジナル本が強い。またそういった作品には書き手の理想や、恐らく身近にいるであろう人物をモデルにしたせいで、妙に詳細な描写や生々しい言動が多く、好みだった。
白粉は眼鏡を装着し、バッグの中に入れていた即売会会場のマップを広げる。赤ペンで行く予定のサークルをチェックしてあるが、数はそう多くはない。
それでもなお彼女がこの時間、この場にいる理由……それはこの行列そのものにあった。早朝に家を出、真夏の太陽に焼かれてもなお、そこはとても居心地の良い場だと感じられる。そして自分のような人間が大勢に受け入れられたかのような、そこに居ることを赦されたような気分にさせてくれるのだ。どこにいても自分は爪弾き者だという意識が白粉花の頭にはある。今でも自分が触れた物は他人が嫌がるんじゃないか、菌が……という思いは何年経っても変わらない。
しかしそんな自分でさえ、この場は受け入れてくれる。自分の趣味が、赦される。たったそれだけのこと、しかも勝手な思い込みかもしれないと自分自身わかった上での気持ちであったが、白粉にとってはそれだけでも貴重なことなのだった。
だからといって当然、誰彼ともなく喋ったりはしない。皆がそうするように白粉もただじっと伏兵がごとくにイベント開始の一〇時を待ち続けている。それでも感じる、不思議な一体感、何か大きなものに参加しているという喜び、小さな個ではなく、大きな群体の一部であることへの帰属意識。それが気持ち良かった。
白粉は眼鏡を掛けたまま、やや俯き加減に辺りを覗った。キョロリキョロリと視線を動かし、耳を澄まし、汗ばむ肌で気配を感じていると、例年通りだなという印象を覚える。
白粉個人の見解ではあるが、彼女が数年この手のイベントに参加して思うのは、男性参加者の半数は己の命を削りつつ戦っている劣勢国の最前線兵士のようだが、逆に女性参加者の半数は基本的な生命力そのものを倍増させてこの日に挑んでいるように感じる。だからだろうか、辺りに耳を澄ませていると「うわっ! スプレーもう無くなったんッスけど(笑)」「年二回のコレだけが楽しみで拙者は生きているようなもんで」「昨年に引き続き今年もイカ●ゴ×ル●アは押さえたいの。やっぱりあの触手でのプレイは――」といった、元気な女性の発言ばかりを拾ってしまう。単に今日が女性向けサークルが多い日であり、女性参加者の方が比較的一人よりもグループで来場している場合が多いせいかもしれないが、それを差し引いたとしても白粉にはそう思えた。実際、イベント終了時に通路の隅や路上でグロッキーになっているのは男性が大半である。
ちなみに男性・女性参加者の残りの半数は寡黙な修行僧か、何かしらのスペシャリストのように無表情に時を過ごしているようだ。自分も強いて言えばこの中の一人だろうが、彼らのように威厳のようなものが漂っているかどうかは怪しかった。
額に湧いた汗が顎まで一筋流れた頃、列がざわりと蠢き始める。床に座っていた人たちが続々と立ち上がり始めた。
白粉はハンカチで汗を拭いつつ、携帯で時刻を確認。一〇時目前。バッグからマップを取り出し、目的のブース位置を最終チェック。
彼女の今日一番の狙いは二〇〇二年よりスタートし、現在はシーズン8まで続いている大人気刑事ドラマ『バディ』の半ナマ本である。特にこのシリーズに拘りを持ち、毎回写実的なタッチのイラストが付けられた肉感的な描写で読者を魅了するハイクオリティな小説を書き続ける某サークルの本だけは何としてでも手に入れたい。
列が動き、白粉は人の波に押されるようにして前進していく。牛歩、停止、また牛歩……そんなまどろこしい動きを数十分続けた末にようやく白粉は会場に突入する。当然そこも黒山の人集りだが、列を乱すのが厳禁である先程までとは違い、ここではある程度自由に動ける。白粉は己の小柄な体格と、普段の部活動で鍛え上げられた俊敏性を活かして人と人との隙間を縫って進んでいく。歩調は普通の徒歩の速度。しかし、ぎゅうぎゅう詰めの会場の中でそれを維持して進んでいくのは並大抵の技術ではなかった。
果たして白粉が愛するジャンルのゾーンに突入すると、彼女はキャップを目深く被り直し、眼鏡越しに長机に並べられている無数の同人誌を物色しつつ、一路、『バディ』の半ナマ本を目指していった。
――午後六時過ぎ。黄昏空の下、白粉はテカテカとしたアブラっぽい顔に、ホクホクとした表情を浮かべて自宅最寄りのバス停に降り立った。
彼女のショルダーバッグは出発時よりもやや重く、厚みを増していた。目当てのサークル数自体は大した数ではなかったが、思いのほか数が出ていた新刊や、偶然見つけた良さげな本やら、何故か本を買ったらおまけとして貰った何だかよくわからない手作りのヌイグルミのようなものなどでバッグは膨れているわけだが、それは即ち、彼女のお楽しみの量だ。
今夜は『バディ』本を皮切りとして一晩中ニヤニヤしようと彼女は決めていた。きっと長い夜になるだろう。夕食はさっさと冷凍食品のピラフでも食べてしまえばいい。
今日、父は飲み会だと聞いていたし、出版社に勤めている母の帰宅はいつも遅いのに加え、週末なのでどこぞで編集部員同士で夕食も済ませてくるだろうから、自分が部屋に籠もっていれば邪魔してくることはないはずだった。
「となれば、後は……」
白粉は玄関の扉を開けようとするもガチャリと音がしただけで、開きはしない。ロックされている。財布の中から鍵を取り出して扉を開けると、ただいま、と声を投げ込む。玄関のロック、そしてお帰りの声がないところからするに、すでに父は出て行った後のようだ。代わりに玄関前のフローリングで眠っていたアロエが「お?」というように瞼を開き、一応飼い犬の勤めだとでも思っているのか、仕方なく、そして面倒臭そうに尻尾をパタパタと床に叩きつけるようにして振った。寝たまま。
白粉は靴箱の上にバッグを置くと、代わりに自分の指三本分よりも太いロープを手にし、笑顔でアロエの前に垂らして見せた。
「アロエ、いつもよりちょっと早いけど、行くよ。ほら、散歩」
この段階になってアロエは初めて首と、その垂れた両耳をムクッと持ち上げ、マジマジと白粉の顔を見てくる。いつもなら散歩タイムは完全に日が落ちた午後八時過ぎぐらいであり、規則正しい生活を好むアロエにとって二時間近いズレは小さくない。それで少し混乱しているのだろう。
アロエは白粉が言っていることがただのイタズラなのか、それとも本気なのか見極めようとしているようだった。しかし白粉がアロエの首輪にロープの金具を取り付けると、本気だとわかったようで、慌てて立ち上がり、前屈のような体勢で伸びをする。それが終わると口を開け、ハッハッハッと興奮した様子で尻尾を千切れんばかりに振り、白粉の出発を促す。
「はいはい、ちょっと待ってね」
アロエに先導されるようにして白粉は表に出ると、玄関の鍵を掛ける。そのガチャリという音がした瞬間、アロエは一気に走り始めた。
いってみれば重量級の四輪駆動車と、非力軽量な小型車ほどの体重及びパワーの差がある一匹と一人である。白粉はロープに引きずられるようにして黄昏れの街の中に消えていった。
即売会の疲れと相まって散歩からボロボロの状態で帰宅した白粉は熱いシャワーを浴びた。汗だくだった全身、特に自分のに加え即売会で接触した際に塗りつけられた他人の汗やアロエのヨダレのせいでベタベタしてしていた両腕が一気に洗われるのは快感だった。まるで芋虫が脱皮して蝶にでもなったように、身も心も軽くする。
半日以上歩き続けた両足を揉んだりしつつ、少し長めに湯を浴びた。バスルームから出ると着替えの用意がないので、バスタオルを体と頭に巻いた。散歩から帰宅した後、二階の自室に行ってまた戻ってくるのがあまりに億劫だったせいだが、別に家にはアロエだけなので良しとした。
ダイニングルームに行くとソファーの上でエアコンの風を浴びているアロエがムクリと顔を上げ、何かを期待する顔で尻尾を振った。それは白粉が帰宅した時のような面倒臭そうな動きとは違い、激しくはないが、どこか軽やかだ。
「あ、もうご飯の時間か。長く入っちゃってたなぁ」
白粉はタオルを巻いた姿のまま、キッチンでアロエの夕食の準備をする。乾燥ドッグフードに缶詰の生タイプドッグフード、さらに父親が事前に用意してくれているカットした生の大根やキャベツ、リンゴ、そして軽く火を通したブロッコリーなどを大きな金属性の器に入れていく。野菜類は栄養のためもあるが、実質的にはダイエットと夏バテ防止を意識したものだった。
白粉が準備をしている間にアロエはソファーから降り、彼女の横に座って期待に尻尾を振り続ける。この時だけは、普段は我が儘三昧のアロエとはいえ、愛玩犬のような振る舞いだ。
多少食べ散らかしても片付けが楽なように、マットを敷き、その上にご飯の容器を置く。子犬の頃からの決まりで、食事前は『お座り』『お手』『おかわり』をアロエにさせるも、ほとんど命じる途中で座り、手を挙げ、間髪入れずもう片方の手を上げる有様であり、言われてやった、というよりは食前の一連の動作のようになっていた。どうせ、ご飯を前にしないとやらないので、今更両親や白粉がどうこう言うことはなかった。
アロエが勢い良く食べ始め、シャリシャリという大根やリンゴの子気味の良い咀嚼音を聞いていると白粉のお腹もつられたようにして、鳴る。朝はお握り、昼は会場で売っていたケバブを食べただけ。そして今日はとにかく歩き続けたせいで、いつも以上に空腹になっていることに今更ながら気が付いた。
白粉は自室へ向かい、パジャマへと着替える。それから眼鏡を装着、本日の収穫物を机の上に雑に並べ、それを眺めつつ髪にドライヤーを当てた。自然と顔がニヤけてくる。今回もあのサークルの『バディ』本は表紙のイラストからして最高だった。筋肉質ではないものの、主人公の熟成された男の魅力はたまらない。
これを最後に読むべきか、いや、それとも最初に……。いっそもう夕食の前、もう、今すぐにこれだけでも見てしまおうか。
「……うん、見ちゃおう。今見ちゃおう!」
ただその前に髪は乾かしておかないと、読んでいる最中に雫が落ちて汚してしまうかもしれない。鼻息を荒くしつつ白粉は髪を急ぎで乾かすと、早速ページを捲る。
「ほぅ……これはこれは、冒頭から……ほほぅ」
耳まで裂けんばかりの笑みを口に浮かべつつ、白粉は次から次へと頁を捲っていくが、ふと、ある時その手が止まった。視界の隅に、同人誌の間からはみ出た一冊の冊子が目に入ったせいだった。
手にしていた本を置き、代わりにその冊子を開く。冬の、同人誌即売会の申込書セットである。生まれて初めて購入してきた。
いつからか、白粉は自分でも実際に本を出したいと思うようになっていた。ネットで公開している小説のアクセス数や貰ったコメントは多い。それだけで十分だとする気持ちが半分、自分の作品を本という紙媒体にて発表してみたいという気持ちが半分だった。
中学生まではやってみたいという気持ちはあったものの、申し込み及び製本する資金を初め、自分自身の覚悟がなかった。けれど、今は違う。経緯はどうあれ、HP同好会に入ったことにより、食費はかなり抑えられており、実際ちょっとした贅沢なら出来るぐらいの余裕がある。そして、高校入学して早々に始めた『筋肉刑事』シリーズの人気を起爆剤としてネットでの読者数は跳ね上がり、自信が生まれた。
そう、気が付くと、全ての準備が整っていたのだ。
やってみたい気持ちはあった。でも、怖かった。売れないのはいい。それは大したことじゃない。問題は、自分の趣味をさらけ出すことだ。
また、笑われ、バカにされ、拒絶されるんじゃないか。そう思うと震えそうになる。以前は白梅梅が助けてくれ、支えてくれた。けれど、今回はそんなことは叶わない。彼女には――うっすら感づかれている気配があるものの――この趣味のことはほとんど伝えていないのだ。
ネットでは匿名性があることに加え、よっぽどその手のジャンルが好きでもない限り彼女のホームページ『The novel of Four o'clock』には辿り着けないようになっているので、ほとんど傷つく心配はなかった。だが、製本し、それを手にして現実の世界で頒布するとなると話は違う。
先ほどまでの興奮は消え、空腹だったはずの胃は何だか重苦しく感じられた。白粉は萎えていく気持ちのまま、机の上に散らかしていた同人誌を片付け始める。すると、机の上に何やら覚えのないぶ厚い封筒があることに気が付いた。達筆な文字で書かれた宛名は自分、送り主は槍水仙。
どうやら自分が留守中に届いていたものを父が机の上に置いておいてくれていたらしい。その上に同人誌を置いていたのだ。
「……先輩から? なんだろ?」
封を切ると、中から現れたのは大量の写真、そして一枚のDVD−R。HP同好会強化合宿の時、槍水が撮影していた写真だった。DVDは恐らくそのデータだろう。わざわざきちんと写真仕上げにプリントアウトした上、データまで同封してくる辺りに槍水のマメな性格が感じられた。普段は粗野というか大雑把な印象だが、変なところだけ細やかだったり、心配性だったり……不思議な人だな、と白粉は少し笑う。
同人誌を一山にしてまとめると、その写真の束を手に取る。最初は川で佐藤と白粉が滝打ちをしている写真だ。少し、ブレている。
「確か、先輩、妹さんから借りてきたんだったっけ。だからかな?」
最初こそブレているのが多かったが、徐々に慣れてきたようで、白粉が神輿を担いでいる写真ともなると、夜なのにきちんと写っていた。
いろんな写真があった。主に写っているのは佐藤と白粉だ。いろんな所での、思いがけないものまである、たくさんの写真。それらは自然と白粉に微笑みを浮かべさせた。
「……あ……」
ゆっくりと、白粉の笑みが濃くなる。それは二日目の昼過ぎ、あのお婆ちゃんがやっている漬物屋の前のもの。デジカメが珍しいというので、お婆ちゃんにカメラを渡して撮って貰った一枚だ。白粉と佐藤を中心に、槍水と著莪が両脇にいて、四人がギュッと肩身を寄せ合い、全員が笑って写っている一枚だった。
確か、お婆ちゃんがかなり近い距離でファインダーを覗いたので、被写体である自分たちの方がカメラのレンズに収まるように無理矢理に体を寄せ合ったのだ。その時の、笑顔だった。
「……いいな、これ」
自分が誰かと一緒にこんなにも楽しそうに写っている写真は果たしてどれだけあるだろう。一人だけで写っているものなら、白梅が一杯撮ってくれている。けれど、二人で撮るのでどうしても一人の写真が多い。誰かと写っている写真となると、家でアロエと撮ったものか、あとは学校の集合写真ぐらいしか思い浮かばなかった。
不思議と、即売会で感じるあの一体感と似た、しかし何かが決定的に違うものを白粉は感じる。
白粉にとって、あれは集団の中の一つになれる、それこそのあの行列の中で歩いていたように、流れの一部になることの喜びだった。
しかし今彼女が感じるのはそれとは少し違う。共に受け入れて貰えることの喜びだが、こちらはもう少しウェットで……特別な気がする。
彼女は微笑んだまま、少しばかりの恥ずかしさに頬を赤らめながら、しばらくその一枚を眺めていた。気が付くと、重苦しかった胃は軽くなっていた。空っぽだ。きゅるぅ〜、と鳴り、締め上げられるような強烈な空腹感が襲ってくる。
白粉は小さく苦笑しながらお腹を撫でた。
「先輩や佐藤さんの顔を見ると……うん。条件反射なのかな」
時計を見る。七時五〇分――急げば、間に合うかもしれない。
白粉は慌ててパジャマを脱ぎ捨て、ハーフパンツにチュニックを適当に取り出して着る。髪を大雑把に後ろにまとめると、一度姿見の前でクルリと回って確認する。時間がないので、今回は一度だけ。
財布と携帯を手にすると、白粉は今一度机の上の写真と、同人誌の山、そして即売会申込書セットを見る。不思議と、不安な気持ちは沸いてこない。鼓動が速まり、胸が少しばかり熱くなる。
四ヶ月前、スーパーで佐藤と槍水に出会った。そこから高校生としての自分が始まり、何かが変わったような気がする。白梅以外にも、特別な理由がなくても自分を受け入れてくれる人がいる……それを知った。いや、知ったとか、気付いたとかいう以前に、いつの間にかそれに馴染んでいた自分がいる。中学生まではとても考えられなかったことだ。
あの時、スーパーに行ったから。叩かれて、蹴られて、床を転がって……それでも、興味が、好奇心が、空腹が、スーパーに足を運ばせた。それが今に繋がっている。
白粉は一人頷き、申し込み冊子を手に取った。
――やってみよう。
もちろん笑われ、バカにされ、拒絶されるかもしれない。けれど……。
「……そうじゃないかも、しれない」
その時また、きゅるぅ〜、と腹の虫が騒ぐ。腹は減っては戦はできぬ、そんな言葉が白粉の頭に浮かぶ。
冊子を机の上に置くと、彼女は携帯を取り出し、素早くメールを打った。相手は槍水。
『写真、届きました。ありがとうございました!』
何だか無性に槍水たちに会いたかった。しかし今はそれぞれの実家、遠方の地だ。叶わない。
「よし、行こう」
携帯をポケットにしまうと、部屋を、そして家を出る。
夜空の下、白粉は彼らに会いに行くような気分で近所のスーパー、そして半額弁当を目指した。
<了>