● 有明の狼たち
需要と供給、これら二つは金銭を伴う取引における絶対の要素である。
しかしながらその領域の多くは需要過大にして供給過小……しかも手に入れられる機会は、まさに刹那の刻。
その厳しい領域に生きる者たちがいる。
己の資金、性癖、そして誇りを懸けてカオスと化す極厳領域を狩り場とする者たち。
――人は彼らを《狼》と呼んだ。
キャップを目深く被ると、その後ろの穴からまとめていた髪をにゅっと出させる。そうすることで髪が圧しつけられることがなくなり、何より誰かとぶつかった時に人混みの中で帽子を落としてしまうこともないのだ。
玄関の姿見にて最後に全身を見る。白いモッズコートに、大きな鞄。インナーもタートルネックセーターにプリーツスカート。靴はデザインよりは機能性で選んだショートブーツ。全体的にお洒落というわけではないが、それを気にするべきは今日ではない。何も問題はないだろう。
「……行ってきます」
『彼女』――白粉花は玄関の隅っこで眠たげな眼差しで座っている、超大型犬のニューファンドランドという真っ黒な犬種であるアロエ(女の子・四歳)に、そう、声を掛けた。
アロエはさすがに散歩ではないとわかっているため、尻尾を振ったり、こちらのご機嫌を伺うようなこともなく、ただ犬の勤めとして見送りしているに過ぎない。それでもその黒い瞳は白粉に「どこに行くん?」と訊いているようだ。
「あたしがこれから行くのはね……戦場だよ」
白粉は眼鏡を掛け直すと、玄関のドアを開け、日の出前の空の下へ。年の瀬の痛い程の冷たい空気が彼女を包んだ。
体を一度震わせると念のため外から鍵を掛け、白粉は駅へ向かう。
途中、朝食用にと持ってきていたソイジョイ(フルーティトマト)を囓りながら忘れ物がないかを考えていく。無論、忘れ物があったとしても戻るのではなく、途中で買っていくのだ。
いつも持ち歩くような物はともかくとして、それ以外の今日のためのもの。携帯電話の予備バッテリー、腕時計、タオル、折りたたんだトートバックに紙袋、カイロ、いくつかの差し入れ、そして何かとあると役に立つ透明で大きなゴミ袋が数枚。
このゴミ袋はゴミをまとめるのには当然、体力の消耗が激しくて路上等に座り込んでしまう際には敷物、雨が降った時には大切な戦利品を守るバリアにもなる。そして乗り物や人混みにヤられた際の最後の緊急時用としても非常に有効な上、ほとんどかさばらない優秀なアイテムだった。
「念のための予備のソイジョイと、飲み物のポカリスウェット……そして……」
白粉は大きなショルダーバッグをわざと揺らし、中にある大型のフォルダの存在を確認した。フォルダはもちろん戦利品を入れるためのもの。いくら型がしっかりしたショルダーバッグであっても、どうしても戦利品を裸で入れてしまうと角に折れ目が出来てしまう。また冬場はさほどでもないにせよ、飲み物の表面に結露して出来る水滴が戦利品へ与える致命的なダメージを防ぐことも出来る。
恐らく、大丈夫。白粉は確認し終わると一人頷き、駅へと続く道を急ぐ。
時計を見やれば現在朝の四時半。――夜明けまで後二時間。決戦まであと、六時間。
この時期の電車を白粉は嫌いではなかった。最初は始発ということでほとんど乗客がいないのに、新橋に近づくにつれて同じ臭いのする者たちが一人、また一人と増えていき、最終的にはほぼ車両が同種の人間たちで埋め尽くされる。
そう、狼たちだ。これから戦いの野に出撃し、個々人が己の欲望のままに狩りを行う者たち……。
彼らと友に白粉が向かうのは夏と冬の、年に二回だけ生まれる大規模な戦闘領域だ。無論、それ以外にも大小様々な戦いはあるが、やはりこの二回だけは特別である。車両内に漂う気配、臭いがすでに尋常ならざるものだ。
新橋駅に到着。扉が開くと共に同志たちが一斉にホームへと降り立つ。その様はどこか、水の入った革袋に穴でも空けたかのようだ。
全員が訓練された犬がごとく素早く、かつ規律正しく行動を開始し、改札を抜けて東京臨海新交通臨海線――ゆりかもめの駅へと直行する。
別にゆりかもめだけが交通手段ではないが、これに乗るのが白粉のスタイルだ。普通の電車よりも揺れが少なく、滑らかに走るその様はまるでモノレールのようで心地良いし、何より高い位置を走るが故にそこからの夜明けの景色は格別である。これから命を懸ける者達の意識を否が応にも高めてくれるのだ。
白粉は運良く先頭車両の一番前に陣取ることが出来た。さすがにぎゅうぎゅう詰めで座ることはできなかったが、運転席のないゆりかもめの先頭車両の一番前は格別の景色を見ることが出来るので、白粉としては満足なのである。
海沿いを走る車両からは、どこか近未来的とも取れる巨大なビルやテレビ局を見ることができた。その中でも白粉がいつも気になるのは恐らく一般の人が住んでいるであろうマンションだ。周りにレジャー施設はあっても、生活雑貨店や生鮮食品売り場なんて存在するのかすらわからないような場所に聳え立つマンション。暮らしていて不便はないのだろうか? 何より、どんな人が住んでいるのだろう?
そんな疑問は様々な妄想を生み、白粉の移動時間をより一層楽しくした。昔はその景色から『海×テレビ局』やら『ビル×地球』など、大味な妄想が大半だったが、さすがに数年も通っていると、その内容は決して同志であっても口外できないような、より綿密かつハードな方向で発展していた。ちなみにそれらの場合、大抵ゆりかもめは決して交わることが出来ないで臍を噛む傍観者、または主要キャラたちの不倫相手という、妄想に花を添えるキャラクターとして登場するのは恒例であり、本日のそれ≠ノおいても重要なポジションを占めているのは変わらなかった。
そうしてしばらくの時間の後、車両は国際展示場前へと到着。さすがに始発で実家の最寄り駅から出発こそすれ、ゆりかもめの始発ではなかったこともあって、この時間帯の乗客は比較的落ち着いている。扉が開くなりいきなり走り出すような奴はおらず、全員がぞろぞろと軍隊の行軍のようにこれから戦いに赴く覇気と、朝一のぐったり感が入り交じった独特の空気を作り出しながら戦場――国際展示場へと向かっていく。
改札を抜けてすぐ、チケット組――サークル参加等の人――と別れるが、まだこの時間帯からそちらに行く人はほとんどいなかった
時折聞こえてくる神に仕えし者たち――同人誌即売会スタッフの声に耳を傾けつつも、白粉は人の流れに身を任せるだけで特に行き先などを意識することなく、ただ、歩く。精神力及び体力の損耗はないに超したことはない。一番楽なのはイヤホンで耳に入ってくる情報をシャットダウンしてしまう方法だが、それをすると万が一スタッフの声を聞き逃して回りに迷惑をかけてしまう恐れがあるのでやってはいけないこである。実際、白粉もMP3プレイヤーは帰りの電車まで鞄の中で大人しくしているのが通例だ。
声に、集団に、導かれるまま……白粉たちはいよいよ長大な列の後方に到着。すぐさまスタッフにより、日本人の気質を現すかのように規則正しく並ばされる。この列が崩れ、各自が他人の迷惑を顧みずにぐちゃぐちゃに並ぶようになったら、この同人誌即売会は……いや、日本という国自体終わりを迎えることだろう。
横に並ぶ人数を統一し、無駄な隙間が出来ないように細かくチェックをしていくスタッフたちも、それがわかっているからなのか、どこか誇らしげに、ところどころにユーモアを挟み、そしてたまに冷たい空気に咳き込みながらも一生懸命に声を出していく。
彼らの声が枯れ始める時間まで、このまま待機だ。
白粉が爪先立ちになって前を見やれば、巨大な神殿を思わせる国際展示場、そして、そこから伸びる他では信じられないような長蛇の列。
最速ではないにせよ、決して遅くはないはずの時間に到着したのだが……しかし、これもいつものことだ。白粉は帽子を被り直し、ポケットに手を入れ、ようやく朝というに相応しい色合いになってきた空を見上げた。風が酷く冷たい。
「今年もまた徹夜組が増えてるらしいな」
「あぁ、ここまで来るとルール違反とて公認扱いだな。酷い有様だ」
白粉の隣でそう喋っていたのはリュックサックを背負った顎髭と坊主の男。同人誌即売会に複数人で来るというのは物理的な意味でお互いの行動の自由を拘束するし、何よりも己の性癖の露呈を恐れる余り手に入れるべき同人誌を逃す可能性も高くなる。
素人か……そう思ったが、しかし、今日が三日間のイベントで一番ホットな日、即ち一般的に言うところの女性向け<Wャンルであることを考慮した場合、この二人はもはやお互いに何かを隠す間柄ではないのかもしれない。そう考えるとリュックサックもある方法を使えば効果的な意味を持つ。
白粉は眼鏡を掛け直すと、伸びをするフリをして二人のケツの具合を見やる。どちらがどちらのケツにぶちこんでいるのだろう……白粉は少ない情報から何とかそれを見極めようとした。
「徹夜組もクソだが、輪を掛けて問題なのはやはりそれに未成年が大量にいるってことだろうな」
「ゆとり教育の申し子か。お祭り気分で来ているんだろうが、それがこのイベント自体を破滅に導いている自覚はないんだろうな。一度でも大きな事件が起これば、全てが終わるというのに」
「スタッフの監視の薄い夜に、未成年が襲われでもすれば様々な組織が鬼の首を獲ったような勢いで喚き散らすだろうな。例えイベント時間外であったとしても、全ての責任は即売会関係者と同人業界……その後は規制の硝煙弾雨だ」
二人は未成年が襲われることこそ致命的としているが、実際には対象が若い女であるだけで十分致命傷になりえるだろう。白粉は二人の会話に耳を傾けながら、そう思う。成人を迎えていても被害者が騒ぎ立てればそれだけでハイエナのような組織にとっては十分喰らいつける隙となる。現状でもまだ公になっていないだけで、それなりのトラブルや犯罪は起こっているが、それでもまだ愛する者たちの努力によって事態が小さい内に処理することにより、その隙を潰しているに過ぎない。
噂によればこのイベントを開催するために裏ではかなりの額の金が流れ、志を持った者達が日々様々な業界団体内にて暗躍しているという冗談めいた話もあるが、実態は不明である。ただ何年も前から状態は綱渡りであるのは間違いないだろう。
古き狼はある時白粉に予言とも単なる妄想とも取れないことを語ってくれたことがある。
――いずれ、この祭は終わりを迎えるだろう。それは政治的な思惑か、何らかの事件による自粛かはわからない。しかし、その発端はそこに集う若者たちの中から現れるのは間違いないだろう。祭が……大きく成りすぎたのだ。
彼がそう思った理由も何も、それ以上語ることはなかったが、それでも不思議と白粉もそれに賛同する気持ちであった。理由などなく、肌の感覚としてそう思ったのだ。……それは、今でも変わっていない。
どんな業界でもそうだが、一部の研ぎ澄まされた者たちが何かを作り、それを支持する者たちによって広がりを見せるが、その果てに、大量の一般人が流れて込んでくると大半のものは終焉を迎える。それ≠ノ重きを置いていない、いくらでも代替が効くとする者たちである。
それはまさにイナゴの大群のように、土地を荒らし、喰う物がなくなればまた違う土地へと移っていく。そこ≠ナしか生きることが出来ない者たちを残して、だ。
白粉は一人そんなことをブツブツと呟きながら考えていると、いつの間にか顎髭と坊主の会話は転売ヤーについての話題になっていた。転売ヤー、即ちレア本や大手サークルの同人誌を購入し、ネットオークションで転売して金を荒稼ぎする連中であり、《豚》とも呼ばれ、忌み嫌われる存在だ。
「地方に住んでいたり、都合で来られなかった人間のためでもある……ってのが常套句だが、にしてもな」
最近では連中の活動を防ぐためにも大手サークルでは一限(一人一冊限定)や、即売会の後、すぐにネット通販可能なようにしているところも多くなってきたが、しかし、根絶するには至っていないのが実情だ。
「まったくだ。俺たちのように朝から並んでいても買えない連中が出てきちまう。……この手の連中だけは我慢ができねぇ」
あたしの場合、本当に我慢できないのは……。と、白粉は考える。本当に豚と呼ぶに相応しい、ダミーサークルまで使う連中だ。開場前に会場内に入ることが出来るサークル参加チケットを手に入れるためにダミーの申し込みをする連中のことであり、当然本など出すわけもなく、楽に会場内に入り込み、開場前に狙いのサークル、または換金しやすい企業ブースの元で待機するという最も忌み嫌われる行為だ。
無論、ダミーサークルを用いるのは転売ヤーだけではなく、チケットの転売等の様々な自分勝手な目的のために用いる者たちも数多く、その存在は深刻な問題である。
先程坊主が言ったように、本当に欲しくて朝から並んでいた人たちの気持ちを踏みにじることになるのもそうだが、それ以上に参加したくても参加できなかったサークル……そして、そのサークルの本が欲しかった人たちの気持ちを踏みにじる最悪の行為だ。その昔、白粉が贔屓にしていたサークルが落選したイベントの時に、その同じジャンルに複数の空席があるのを見た時は血が出る程に拳を握りしめたものだ。
ふと、白粉は視線を感じた。見やれば顎髭と坊主がこちらを見ている。
彼らの目を見た瞬間、思っていたことが口を突いて出ていたことに、白粉は気がつき、己の失態を悔いた。
「アンタ……まさか……」
顎髭が何かを思い出すような仕草をした後……彼の言葉を、白粉を中心にして反対の位置に立っていた女が継いだ。
「アンタ、《早瀬の狼》こと……白粉花……?」
茶髪の女がそう言うと、顎髭と坊主たちも驚いたような顔をする。
この業界では、有名な狼は二つ名で呼ばれることがある。しかし、それを誇る気は白粉には毛頭なかった。ただ、気恥ずかしさから帽子を深く被り直す。
「驚いたわ。てっきり、もっと前の列にいるもんだと思ってた」
茶髪はダウンジャケット越しにでもはっきりとわかるほどの巨乳を揺らして、缶コーヒーを飲みながらそんなことを言う。
素人か……いや、キャリーカートが大きい。恐らく、コスプレイヤー。だとしたら随分早い……空いている内に着替えてしまおうというのか。いや、もしかしたら人が少ない内に先にお目当ての本をさっさと買って、それから心おきなくコスプレ広場に打って出ようというのかもしれない。だとしても……。
「ベテランの狼から、私たちに何かアドバイスとか聞かせてもらってもいい? 私はコスプレの方が専門だけど、それでも参考に聞いてみたいわ」
「そりゃいい、俺たちのような名無しの狼たちに是非ご教授願いたいね」
顎髭が、興味本位な顔で言った。
目立つことを嫌う白粉は忌々しく小さく舌打ちした後、ため息を一つ。覚悟を決めた。
「……まず、コーヒーはやめた方がいいです。寒い早朝に飲みたくなるのはわかりますけど、コーヒーには利尿効果があってトイレが近くなります。冬の女性コスプレイヤーにとってそれは致命的のはずです。ノンカロリー系の人工甘味料ジュースも同様に」
白粉の言葉に茶髪はハッとし、そして顔を青くした。一般の参加者でもキツイが、それが薄着で屋外が基本のコスプレイヤーとなるとトイレは大きな問題だし、何よりいつもの女性用トイレの行列を思い出したのだろう。男の小≠ヘお手軽だが、女はそうはいかないのだ。
「あと、本の奪取がメインじゃないのなら別にいいと思いますが、ダウンジャケットもやめた方がいいです。かさばりますから人混みの中での機動力低下は避けられませんし、何よりお金や本を受け渡しする際に腕の膨らみによってサークルさんの本や値札などを引っかけてしまいがちです」
私もやっぱりまだまだってわけね、と、茶髪はガックリと肩を落とした。
その様子を見ていると、さすがにダウンジャケットは言い過ぎだったかもしれないと白粉は内心反省する。述べたことは事実だが、それは白粉の実体験からだ。……つまり、小柄な白粉にとっては、である。身長が高ければ受け渡しの際の位置も自然と高くなるので、それほど影響はないのかもしれない。
「しかし、白粉。名うての割に、鞄はショルダーなんだな。てっきり俺たちのような最大機動力を誇るリュックサックタイプかと思ってたんだが」
坊主が得意げに背中のリュックサックを親指で示し、そんなことを言う。
白粉はまたため息を一つ。
「リュックサックは本の奪取だけなら極めて優れたアイテムだと思います。ただ、それに本を入れることを考えてみてください」
「は? 本なんてそのまま……」
「坊主の人、あなたは何故、本物の侍は腰に刀を差していると? 漫画などでは背負っているのが多いですが、現実ではほとんどない使い方ですよね。……背中では、出し入れがし辛いんです」
そう、リュックサックは両手を自由に使えるアドヴァンテージと共に、機動力を高め、さらに荷の重みが両肩に均等にかかり人体への影響が少ないという最高のアイテムだ。しかし、それは池袋や秋葉原ならば……だ。
「いやいや、待て。そんなの本を手に持って、何冊か溜まったらリュックサックに入れれば……」
「片手が塞がってしまえばリュックサックの最大の利点がなくなりますし、何より……たまに見ませんか? 立ち止まったりしゃがんだりしてはいけない場所で、リュックに本を詰め込んでいる人。スタッフによく注意されてますよ」
クソッ、と、坊主は頭を掻いた。
「しかし、二人組で行動するなら互いの鞄に入れ合うことも出来ますし……何より、よく、バックパッカーがやってますけど、リュックを逆……つまり、体の前に持ってきて装着するなら、利点を活かしつつ本の納入も可能、そして何より防犯上安心できます。小柄だとキツイですけどね」
なるほど、そうか! 顎髭は感嘆の声を上げ、早速リュックサックを前に持ってくる。
「しかし、そう考えると……なるほど、確かにショルダーバッグはキャリーカートのように邪魔にはならないし、リュックとほぼ同様に両手が使えるし、一人で出し入れも出来る……というわけか」
「必ずしもこれが正解だとは思いません。あたしは自分のスタイルに相応しいと信じる装備で来ているだけです。大量に本を買うというのなら、ショルダーバッグでは文字通り荷が重くなる場合もありますし、結局最後にはトートバックや紙袋に頼ることも多いです」
本当は顎髭が述べたこと以外にも、もう一つショルダーバッグの利点はあった。肩紐をやや長めにして後ろに回しておけば、腰から下を鞄で覆うことが出来るため、人混みの中での痴漢を防ぐのに最適なのだ。風や、人混みの中で何かに引っかかってスカートが捲れ上がってしまうのを防ぐことも出来る。……ただ、それを言うと自意識過剰だと思われそうな気がして白粉は黙っていた。
「勉強になるなぁ。早瀬の……いや、白粉先生! もっと俺たちいろんなことを教えてください!」
「そうです! 先生、お願いします!」
「私からもお願い、先生!」
面倒なことになったな。白粉は眼鏡を掛け直しながら思うものの……そんなに悪い気はしない。自分もかつてはこうして先人たちから教えを請うたのだ。
その時の彼らもまた……こんな気分だったのかもしれない。
一〇時、いよいよ戦いの狼煙が上がる。白粉たちの位置からはその様子を確認することは出来ないが、行列全体にざわりざわりとした動きがあり、そして早速遠くの方からスタッフたちの「走らないでください!!」の声が上がり、それらに彩りを添えるようにパフパフと疎らな手袋越しの拍手が辺りから上がる。
「勝負はまだ先……けれど、この瞬間だけはいつも心が躍るわね」
茶髪の言葉に顎髭坊主はもちろん、白粉もまた頷いた。
白粉は鞄の中からずっしりと重い箱を取り出す。
「先生、いったい何をしているんです?」
「……弾込めですよ。銃に弾倉を入れずに戦場に行くのはバカですからね」
財布に小銭を入れていては時間のロスに繋がりやすい。そのためコートのポケットに裸の金を投入するのだ。白粉は利き手である右のポケットに大量の百円玉、左には五百円玉、そして胸ポケットには一枚一枚折りたたんだ千円札を納めた。コートがズッシリと重くなる。
白粉の様子を見ていた顎髭と坊主が早速マネしようとするが……あれではあまり役に立たないだろう。彼らは万札を持ってくるなどという醜態を晒すことはなかったが、小銭の準備まではほとんどしていないようだ。
本人たちはその事実に気がつき、どこか恥ずかしげな顔をするものの、白粉は軽く微笑んで安心させてやった。千円札ならばさほど問題はないだろう。サークルの方も、千円で来るのは想定の範囲内……即ちお釣りを出しやすいように本の価格設定をしているだろうし、小銭の準備もしているはずだ。
それでも白粉があえて小銭の準備をしてくるのは、もちろん釣り銭切れの事態の備えでもあるが、何よりも金銭の授受の時間を最小限に抑え、一刻も早く次なる獲物の元へ向かうため……。本当は描き手の人たちと少しお話したいところではあるが、シャイな白粉からは声はかけづらいし、何よりウザく思われるかもしれないから、という理由もある。
とにかく迅速な行動を常とするその在り方こそ、白粉の二つ名、早瀬の狼の由来の一つとなっているのだ。
実際にはもう一つ、そして決定的なものがあるのだが、それを披露するのはこれからである。
「お、もうそろそろだな……さぁて、腕が鳴るぜ」
「まだ見ぬ月桂冠との出会いの時は近い」
「何よ、坊主。古くさい言葉を使うわね」
月桂冠……月桂樹のツタで作られる王冠のことであり、オリンピックのメダリストなどにかけられることからもわかるように、それは勝利者の証である。
この業界における月桂冠とは、基本的にはそのイベントで購入した本の中で一番買って良かった≠ニ感激出来るような本のことだ。要は心より満足の行く本のことであり、古い狼たちが好んで使う言葉である。狼によっては月桂冠の対象から大手の本を除いたり、あえて事前にチェックしていないサークルの本との偶然の出会いにのみ限る場合もあり、その使い方はまちまちで、たまに話が通じないこともある。
「うるせえな、茶髪。やり手の狼はみんな使うのさ。先生もそうだろ?」
「……いえ、あたしはあまり」
ほらね、と茶髪は顎髭を小馬鹿にしたような目で見る。白粉は首を振った。
「使う必要がないからですよ。……あたしが奪取する本は、クオリティやカップリングはもちろんですが、それと同等に作り手の愛≠ナみます。愛がない、愛が足りない本は、基本、手に獲らない。だから……あたしが奪取する本は基本的に全て月桂冠と呼ぶに相応しいものです」
愛。同人誌は本来それにこそ集約されるべきものだ。作品やキャラクターへの愛があるからこそ、本を作る者がいて、それを読みたいと思う者がいる。しかしながら最近は業界の規模――あえて使うが――市場が広がり、商業のそれを凌ぐ程の莫大な額の金銭が動くようになってしまった。それ故に原作に対する愛などなく、需要に応じる形で、金稼ぎのための手段になりやすくなってしまった。
昨今では全部頒布しても赤字だが、それでもある程度の売り上げ数が欲しいために若手のサークルまでが好きでもない売れ線作品、売れ線カップリングに手を出してしまう様子を見るのは、酷く悲しいものがある。
作品への愛≠ヘもちろん、本来同人にあった楽しさ≠ウえも捨てて去り、出涸らしのようになったお金の代替としての欺瞞にまみれた本など、白粉は欲しくはなかった。
「……あたしが『オリジナル』のジャンルが好きなのも、そういう理由からです」
オリジナルは、いわゆる原作のない、その名の通りの描き手による創作作品のことだ。大抵のサークルの売り上げは厳しく、参加サークルも他と比べるとさして多くはないジャンルである。
だからこそ、あえて出してくるというのはそれ≠作りたいという欲求、即ち、愛がある作品が多いということである。誰が何と言おうと自分が好きなのはコレだ! と、作り手の雄叫びが聞こえてきそうなマニアックな本など、読んでいて心が躍る。
ちなみに白粉は他にも『ナマモノ』、『半ナマ』、『干物』辺りを専門とするが、それ以外のものにも、彼女の好奇心をくすぐり、そこに愛があるのならば、手を出すことは多々あった。
「さすが名うてが言うことは違うわね。聞く人が聞けば一斉に批難の声を上げる考え方だわ」
「求められているものを作る……当たり前のことだが、それはもう商業であり、同人ではない。それでもこの同人という世界で本を出すのは著作権のグレーゾーンに踏み込む本を堂々と出すための手段、そして何より出版社を通さないがために利益が高いからに過ぎない……か」
「だが……しかしなぁ、そりゃ極端じゃねぇか? 少なくとも買い手には作り手のことなんざ関係ねぇだろうし、愛つっても結局は……な。使えるか使えないかさ」
顎髭の言うことはもっともだ。今時、こんなことを言う者は少数派だろう。
時代は変わるのだ。時と共にそこに生きる人も、出てくる本も、そしてイベントも同人というもののあり方も変わっていく。それは当然のことだ。
白粉は少しばかり、自嘲し、そして言った。
「それでも、あたしは自分が信じる生き方をしたい。誰が何と言おうと、その気持ちだけは曲げられない。……それがあたしの同人≠ニいう世界でのあり方です」
列が動く。もうすぐ、白粉たちも自由に動けるようになるだろう。
「もちろん自分の考えを押し付ける気はありません。人の数だけ生き方があり、捉え方、考え方がある。そしてそれを許容してくれるのもまた、同人≠ニいう世界だと、あたしは思います」
果たして白粉の気持ちはどれだけ正しく伝わったのか。この手のことは、結局、どれだけ時間をかけても言葉では伝え尽くせないものだ。
それでも、白粉は三人の真剣な表情を見て、足りないかも知れないが、誤った伝わり方はしていないことを確信した。
「さぁ、みなさん、戦いの時間ですよ。老若男女関係なく、弱きは淘汰される極厳の世界へ」
そして、普段は秘める性癖を何の躊躇いもなく披露し、脳内の金銭感覚に凄まじいインフレを与え、本という獲物を狩りに狩る狂乱の刻の幕が上がる。
スタッフの指示に従い、いよいよ白粉たちの行動制限がなくなる。
神殿のような国際展示場前にて、繋がれていた鎖は解かれ、狼が野に解き放たれたのだ。狩りの時間の始まりだった。
「走らないでください!」
当然だ。白粉は胸の内でスタッフに応じつつ、走ることなく、しかし素早く人垣の間を抜けていく。
「先生の動き、信じられねぇ! まるで岩間を水が流れるように、人々をすり抜けていきやがる!」
「そうよ、顎髭。アレが早瀬と呼ばれる所以……!」
「も、もうダメだ、どこに行ったかわからねぇ!!」
後ろから坊主たちの声が聞こえたが、白粉は振り返るようなことはなかった。入場してしまえば友人や仲間など煩わしさの代名詞だ。
ここは一人で戦うだけの覚悟と力のない者を生き残らせはしない極厳の領域。狩りに、運良く生き残ったとしても決して月桂冠など手に入れられはしないだろう。
白粉はずれてきた眼鏡を掛け直し、周りの人間の位置を把握する。素早く動くコツは簡単だ。人と人の隙間を縫うだけでいい。そのためには小柄な白粉の体は有効だったし、何より彼女の能力の優れたるは人の視線を読むことだ。
自分に向けられているものは当然として、辺り一体の人々の視線、位置関係、そしてその人物が纏う雰囲気から数秒先の行動を読み、脳内で未来をシミュレートする。その中で導き出される、これから生まれるであろう未来の間隙さえも考慮に入れて彼女は動くのだ。
決して走るのではなく、強引に進むのでもない。無駄なく動き、進行を阻害する抵抗を極限まで減らす。それこそが真に白粉が早瀬の狼と呼ばれる所以である。
「チッ、道がないか」
階段で東館内に降り立ったと同時に、人混みに飲まれた。シミュレートしても道はどこにも生まれない。白粉はここに来て初めて歩行の速度を緩める。
しかし、そんな彼女を嘲笑うかのように傍らを花の香りを残して抜き去っていく一つの影。モッズコートを靡かせたそいつは、壁と思われていた人垣にぶつかっていく。
「……なっ!? そんな……!」
明らかに人垣だった。人の、壁だった。しかし、そいつは埋もれるようにして通り抜けたのだ。
人垣の向こう側からそいつが振り返る。ルージュを引いた唇を微笑みに曲げ、鋭い視線で白粉を見てくる。
まるでその表情は、「ここまで来られるかな?」と、白粉を試しているかのようだ。
「まさか、あれは噂に聞く凄腕……《氷結の魔女》!? なるほど、あの人が……。いいでしょう。やってやりますよ」
白粉はショルダーバッグを後ろに回し、再び歩みを始める。迫り来る人の壁。ガタイは白粉がどう考えても負けているから、力尽くで分け入るような恥知らずなマネはできないし、したくもなかった。
では、どうする……? そして、先程の魔女にはそんなハードな当たりはなかった。一体、どうやったのだ?
白粉は人垣に恐怖を覚えつつ、必死になって考えた。
人垣が目前になった時、白粉は雑踏の中で、前面……即ち、魔女が埋もれるようにして抜けていった人垣から聞こえてくる、ある音に気がついた。
シュシュ、シュル……。
そのサラリとしたもの同士が軽くこすれ合うような、音……だけ。目の前の人垣はみっちりと隙間なんてないのに、それ以上の音――肉体同士がぶつかったりする音がないのだ。
そこで白粉は今一度落ち着いて人垣を見やり、そこで気がつく。魔女が消えた所にいる男たち――その二人とも、かなり厚いダウンジャケットを着込んでいるのだ!
つまり、見かけ上塞がってはいるが、実際には……。
白粉は入場前に茶髪に言った己の言葉を思い出し、未だ自分が未熟者であることを悟ると共に、先生などと呼ばれて少しばかりとはいえ、調子にのっていたのを恥じた。
白粉は、行く。男たちの間へ。隙間などないその二人の間に突入する。シュルリとしたダウンジャケットの触り心地。かすかな圧迫感。しかし、彼女の進行を妨げる硬いものはなにもない。
さらに歩を進める。――イける!
圧迫感が消え、白粉の体が男たちの肉体の隙間から生まれてくるかのようにして外気の中へ。……抜けた!
白粉はさすがにずれていた眼鏡を直すと、嬉々として先程の魔女を捜す。しかし、その時、すでに辺りに彼女の姿はなくなっていた。きっと己が欲すべき本の元へ旅立ったのだろう。
半年後の夏の……いや、もし彼女が同じ嗜好を持つ者ならば、そう遠くない内に再びどこかのイベントで相まみえることになるはずだ。無論、その時は敵として再会することになるかもしれない。同じ嗜好を持つ者は友にして時に敵となりえるのだ。
白粉はまた一つ己が成長した実感と共に、未だ自分が足下にも及ばない凄腕の狼が大勢いることを意識し、カイロでは誤魔化せない薄ら寒さを覚えた。
ツバが横を向いてしまっていた帽子を直すと、白粉は再び気を入れ直して己の道を歩み始める。
最初に目指すのは毎回己の実体験をネタにしてハイクラスな作品を作る『ジャズクラブ ヨー・サトウ』という名のサークル。新刊の『僕とフランクフルト』は絶対に押さえておきたい一冊だし、確かその近くには『シャブリエル・ラチェット』のブースもあったはずなので、毎回何を犠牲にしても必ず確保している本の内、二冊も一気に押さえることができる。
それを想うと胸の奥底から不思議な力が沸き起こってきて、白粉は頬が緩んだ。
「さぁ……狩りの時間といきましょう」
そう言うと、白粉は俯き加減で東館のフィールドへと躍り出ていくのだった。
※
一六時。会場内に終幕を告げるアナウンスが流れ、開場中から大量の拍手が沸き起こる。白粉もまた、かなりの重さになったトートバックを肘に懸けて手を叩いた。
片付けを始めるサークルやスタッフの「今回もやりきった!」という心地良い雑踏を耳にしながら、白粉は出口へと向かう。
今年もまた狙いの本は無事に押さえ、新しい出会いをいくつも体験できた。正確に言うと、トートバックに入っている分が、今年偶然に出会ったサークルの本である。
それらの中でも特に気に入ったのは『関東竹輪倶楽部』というサークルで、竹輪を使った様々なプレイを描いた漫画でありながら、実質的に実用書という素晴らしい熱意のある本だ。竹輪が持つ無限の可能性……入れたり、入れられたり……と、立ち読みだけで思わず口の端が釣り上がる程だった。今から家で熟読するのが楽しみで仕方がない。
「あら! また会ったわね、先生」
凄まじい量の人間を排出する出口の片隅、偶然にもそこで今朝出会った茶髪がいた。白粉が驚いていると、茶髪は苦笑しながら横手を指刺す。そこにはグッタリと精気なく座り込む顎髭と坊主の姿まである。
これにまた白粉は驚く。一日辺り一〇万人を余裕で越えるイベントで、朝と帰りに偶然出くわすなんて、ほぼ奇跡に等しい確率だ。
「偶然、ですね。……それにしても、この二人、随分と体力を使われたようで」
この手のイベントの不思議の一つだが、どういうわけか、イベント終了時に体力を使い果たして死にかかっているのは大抵男ばかりで、女はイベント終了時はむしろ元気にテカテカとした肌で笑っていることの方が多い印象だ。多分、男女の肉体が持つ能力の違いなのだろう
「顎髭の方はね。坊主は違うみたいよ。……でしょ?」
「……あぁ。オレは、その……お目当ての一つだったヨー・サトウの新刊を逃しちまった……」
それはまた、と、白粉は同情する他ない。
「ついに壁に移ったから、冊数増やしているだろうと思って後回しにしていたら……。むしろ壁になったことでにわか読者が集まりやがったみたいで……チクショウ……」
茶髪も顎髭も、坊主とは微妙に趣味が違うのか、二人とも『シャブリエル・ラチェット』の新刊は押さえていても、ヨー・サトウのはないらしい。
このまま坊主は死んでいくのではないか……そんなふうにさえ見えた。
白粉はため息を一つ。
「……あの、実はあたし、一冊押さえているんですけど。差し上げることはできませんが……これから、読みます?」
「ほっ、本当か!?」
項垂れて座っていた坊主が跳ね上がるようにして、立ち上がり、細い目の奥にある瞳を爛々と輝かせた。
「……えぇ。ただし、あたしの前だけで読んでくださいね。トイレに持ち込むとかはなしです。あと折らず汚さず、で」
「お、おぅ……わかってる。わかってるさ。……いや、うん。見せてくれるだけで、十分ありがてぇ!」
チラリ、と白粉は彼の下腹部の辺りを見やり、早速期待に反応している股間を見て、思わず口の端が釣り上がる。
手に入れた獲物を自分が読むより先に人に読ませるなど、狂気の沙汰だろう。しかし、白粉としてはこの坊主が、ヨー・サトウの本……即ち、作者である佐藤洋の痴態を見て、どんな顔をし、どんな興奮の仕方をするのか……それもまた、興味深く思えたのだ。
「でも、ここで読ませるのは問題あるわね」
「いいじゃねぇか! どうせゆりかもめにしろ、りんかい線にしろ、帰るにはまた並ばねぇといけねぇんだ。その時にでも……!」
「坊主さん、ダメです。イベントはもう終わりました。帰るまでイベントではありますが、会場の外はすでに一般人のエリア……我々の戦闘領域ではないですよ」
「……じゃ、じゃぁ……どうしたらいいんだ!?」
「そうだ、先生、この後って暇? もし良かったら、こうして二度も会えた記念に、一緒に食事でもどう? 個室のお店探して、そこで坊主に本を読ませればいいじゃない」
「おぅ、それはいいな! 浜松町駅にオレの行きつけの店があるんだ。個室もあるし、そこでどうだ? うまい豆乳鍋があってな、それが最高なんだ」
「……ほぅ。豆乳料理……おいしそうですね。身も心も温まりそうです」
ニチャァ、と白粉の口の端が釣り上がるも、悟られまいと、彼女は咳き込んだフリをした。
「浜松町なら……水上バスかしら。少し時間かかるけど、どう?」
白粉に反対する理由はない。頷いた。
坊主は急に元気を取り戻し、グッタリしていた顎髭を叩き起こすと、白粉たちを引っ張るようにして水上バスの列へと連れて行く。
今回は不思議と水上バスの行列は短く、数十分並ぶだけで容易く乗船できたのは幸運だった。
白粉たちは何とはなしに、水上バスの最後尾の屋外に陣取った。
肌を叩く冷たい風。遠ざかっていく神殿。そして、赤くなりて沈み行く太陽……。
それら全てが今年の終わりを告げているように、白粉には思えた。全てが寂しげで、どこか儚げで……。
しかし、彼女の肩と手の肉に喰い込むショルダーバッグとトートバッグの重さを意識すると、そんなネガティブなもの全てを弾き飛ばし、来年、そして未来は明るいのだと思わせてくれる。
また、夏に会おう。国際展示場……神が降臨する殿堂よ。
神……それは、同人誌でもその作り手のことでもない。
白粉たち狼が神と呼ぶ存在、それは、あの場=Aそして狂奔なる時間≠ナあり……イベント全体のことを示す。そこでの出会い、戦い、経験、そして得た苦しみと感動……それら全てを提供してくれる領域≠フことを、曖昧に狼たちは神と呼んでいた。
「先生、そんな顔をして……何を思っているの?」
風に遊ばれる長い髪を手で押さえながら、茶髪は訊いてくる。
白粉は眼鏡を外し、そして微笑んで茶髪、そして顎髭と坊主を見やる。
「その……えぁっと、いいイベントだったな、と。そして……」
白粉を尊敬の目で見る茶髪と顎髭、そして坊主。彼らを白粉は今一度見渡した。
狼に馴れ合いなど必要ない。しかし、イベントが終わってしまえば……そうじゃない。同じ嗜好を持つ者たちは、敵ではあるが同時に最良の友でもあるのだ。
……この出会いもまた、きっと……。
「今年も……神様からの、いい恵みをいただいたなと思って」
揺れる船体から、昼と夜が混在する黄昏の空を白粉は見上げ、そして瞼を閉じた。
冷たいはずの潮風は、どこか優しかった。
●
瞼を開いた白粉は、そこがどこなのか、一瞬理解出来なかった。
カーテンから差し込む細い日差し、温かなベッド、そしてそのベッドの大半を占領しながらいびきをかいているアロエ。……それらが、一つの事実を白粉に指し示していた。
実家の自室である。
上半身を起こした白粉は、数秒考えた後、頭を抱えて悶えた。
「お、おぉ……あ、あたしは……なんて夢を……」
白粉は思わず隣で――掛け布団の上に――寝ていたアロエのお腹周りの長い毛に顔を埋めて呻く。
「は、恥ずかしい! 何か自分しか見ていない夢なのに恥ずかしいよアロエ!!」
半額弁当争奪戦とミックスされていたのもいい、夢の中で佐藤が本を出しているのも、槍水が名うてとして活躍しているのもいい。ただ、自分が二つ名持ちのハンターとして顎髭、坊主、茶髪の三人に先生と呼ばれていたりしたのが尋常ではない恥ずかしさとなって、寝起きの白粉を襲っているのだ。
「あたしなんてまだ二年ぐらいしか行ってない超新参者! 本物のベテランからしたにわかと呼ばれてもおかしくないってのに、あの夢の中で知ったかの理論とか技とか語っちゃって……うぐぐぐぐ!」
寝ていたらいきなりお腹に顔を押し付けられて喚きだした家族に、アロエは面倒くさそうに瞼を開け、横になったまま大きくの伸びをし、あくびを一つ。
それからしばし状況を確認してから、ようやく体を起こすと頭を抱えていた白粉の肩にちょんと、手を置く。
「うぅ……慰めてくれるの? アロエ」
白粉は言うものの、アロエがそんな機微のわかる子ではないのは十二分にわかっているので、全ての期待をため息に変えて口から垂れ流した。
「……朝の散歩……だよね。わかってるよ」
もう一二月だ。朝の散歩は身に染みる。けれど、その寒さが今の自分には丁度良いかもしれない。白粉はそう思うと、ベッドから降り、着替えを始めた。
「でも、何であんな夢……今年は、違うのに。……あ、そうか。それで、かな?」
白粉は着替える手を止め、部屋の片隅の机の上、現在はスリープ状態になっているノートPCを見やった。
「……今年は、一般参加じゃないから……それで、逆に意識しちゃったのかな」
PCの横には何枚ものプリンターでの試し刷りした原稿の束。印刷した状態を確認するために、何枚も刷ってはその都度調整したのだ。このために白粉は土日を使ってプリンターのある実家に戻ってきたのである。……そう、初の同人誌を印刷所に入校するために!
白粉は着替え終えると、引き出しの中にしまっていた大きな水色の封筒を取り出す。同人誌即売会サークル参加当選者にだけ送られる、入場チケットの入った封筒なのだ。
白粉はそれを抱きしめ、昨夜の入校した直後の何とも言えない充実した気分を思い出す。
封筒を丁寧にしまうと、鼻から大きく息を吸って胸を張った。
「大丈夫、だよね。うん。……よしっ! アロエ、行こう!」
おう! と、返事をするように、アロエが野太い声で返事。
白粉は愛犬に押されるようにして、部屋を後にした。
<了>