● 波の音
とかく、人間ってのは割とどうでもいいことを妙にありがたがったりするものである。
小さな子が、基本的に使い道もなければさして価値もないお菓子のおまけであるキャラクターシールとか、特に遊ぶ要素のないキャラクターカードとかを集めたりするのは、その最たるものだろう。
もう少し具体的な例を挙げるのならば、ご家族みんなが熱心に某宗教にぬっぽりとハマってしまっている加戸君の一家とかは教祖だか神だかが好む飲み物だからと、昆布茶を神聖な飲料であるとしていたし、クラスのムードメーカーの斉藤君は授業中に使った消しゴムのカスを集めて黒ずんだ自称ネリケシ≠作り、小学校卒業時までは確実に成長させていたのを僕は確認している。極めつけの石岡君に至っては著莪の抜け毛を集めていたぐらいである。
さすがにこれにはどん引きしたので、奴の家でそれを見つけると「凄く綺麗だったから、ユニコーンのたてがみかと思って!!」という、自分の家は異界と繋がっているのだと必死に弁明する石岡君を無視しつつ、その場で燃やしてやったのを覚えている。
まぁこれらが小学生の時であることを踏まえたとしてもなかなかにどうでもいいもの≠彼らはありがたがっていたと言えるだろう。
ちなみに、僕、佐藤洋は人よりも少しばかり大人びていたこともあって、そういう類のものはない。価値あるもの、価値のないもの、幼い頃からそれらを見極める目ぐらいは持っていたのはちょっと自慢してもいいことだろう。
強いて僕が昔集めていた物を挙げるのなら、広部さん関連のものぐらいだ。別に小・中学生の時に彼女のグッズが出ていたわけではない。僕と彼女、二人の歴史を紡いだ証しとでも言おうか……僕らの時間そのものである。
幾つかある中でも印象的なのは広部さんから貰ったシャープペンシルの芯だ。彼女に拾ってもらった消しゴムも宝物だけれど、それは元々は自分のもの。それに広部さんが拾ってくれたことによって女神のエッセンスが加わっているとはいえ、特別とは言いにくい。しかし彼女が選び、彼女が買ったシャープペンシルの芯は、言うなれば純度一〇〇パーセントの広部さん由来の品! これは価値がある!!
だから彼女と席が近い時などは頻繁に「芯がなくなっちゃった」「一本だけ、お願い」と僕は頻繁にねだっていた。あまりにもその回数が多かったせいで、どうも一時、僕の家は相当に貧乏だと彼女に思われていて、断るに断れなかったのだと後で著莪から聞いたことがあるのだけれど、そんなところからも彼女の優しい心が見てとれる素敵なエピソードと言えよう。
そんな広部さんとの思い出の品は、今でも実家にある鍵付きの机の棚の奥深くに厳重に保管されているのだけれど、ある時親父が通販で購入したピッキングツールの実力を確かめようと酔った勢いで家中の鍵を開けまくっていたことがあり……危うく親殺しの罪を背負うことになりかねなかった事件があったりするものの、それはまた別のお話。
さて、最後の僕のは別にしても、いくつか挙げた例は子供だからこそ価値を見出してしまったものに過ぎず、さして普遍性のないものかもしれない。
しかし、誰もが等しく求め、誰もが極端にありがたがるものってのが世の中にはある。
――それは、初物である。
……………………………………………………………………。
はい、みんな目を閉じて。……先生怒らないから、今、反射的に処女や童貞のことを意識した人は素直に手を挙げなさい。
僕は単に食材のこととかを言おうとしたに過ぎないのに、まったく、初物という単語を聞いただけで連想してしまうなんて君らはなかなかの変態だ。僕なんて、そんなことを微塵も考えなかったってのに。……ホントだよ?
いやね、童貞はともかく、処女に対する特別な想いはわからないでもないよ? それは男の、いや、雄としてある種の本能的なものだろう。ただ、処女というものの価値について説明するには本を一冊書き上げてようやく序章の冒頭を終えた程度でしかないような、膨大な言葉と情熱を必要とするので、この件について触れるのはまた別の機会にしよう。
話を本題に戻そう。人はとかく初物をありがたがるものである。それは昔から現代に至るまで連綿と続くものであり、もはや文化であると言っても過言ではない。誰もがわかりやすいものの一つとしては、夕張メロンの初競りなどが顕著ではないだろうか。あの、旬には微妙に早いメロンをとんでもない額で売買するという北海道における初夏の風物詩である。
古い例を挙げるのなら、江戸時代における日本の男たちが初物を得るために競い合った、という話がある。その代表格といえば初カツオであり、何としてでもその旬のはしり≠ナあるカツオを手に入れるために江戸っ子たちは家財を質屋に入れてでも金を工面したというのは有名である。他にもナスやタケノコなども、初物は珍重されたとされる。
ぶっちゃけ初物だから特別おいしいどころかむしろ微妙に季節は早いはずだし、少し待てば安価で大量に売られるようになるのに、あえて初物を高額で買い求めるというのは、非常に非合理的であると感じることだろう。
しかしそこには理由がある。初物を食べると七五日寿命が延びるとか、カツオは勝男、ナスは成す、から縁起がいい……といった理由もあるだろうが、実際のところはそういったことではなく、単に粋≠ナあることを求めたが故だとされている。
しかし僕はこれに異を唱えたい。単に、周りの人が買い求めるから自分も……という、多数に流されやすいとする日本人の気質に過ぎないのではないか、と思うのだ。最初の一人二人は確かに粋であることを求めたのかもしれないが、それに引っ張られたに過ぎない人々は果たして粋だと言えるのだろうか? 所詮はただの模倣者に過ぎず、己の中に確固たる意志やアイデンティティを有さない、風に揺れるだけの葦に過ぎないのではないか。
自分はオシャレの最先端だとか、流行の発信源だと言っている人間に限って実際には流行り始めたものを模倣しただけだったりしているようなものだ。本当に最先端にいる人は、大抵は周りから後ろ指を指されて笑われていたりするものである。
セガだって、そうだ。セガは常に時代の一〇年先を行っていたがために周りからは奇異の目で見られ、他ハードのユーザーからは嘲笑の対象となっていたりもした。なのに、一〇年も経つとかつてセガがやったことと同じことをやっているだけなのに新時代のうんたらかんたら≠ニドヤ顔で語られていたりする。憎らしいのはそういうのに限って金を稼ぐことなのだが、これはまぁ置いておこう。
これを示す事例だと僕が考えるのが、セガがハード事業から撤退を宣言してからのゲーム業界の流れだろう。現在、国内はもちろん、世界的に見てもゲーム業界は苦しいと言わざるを得ない。携帯電話などにユーザーの金が流れてるからだの、ハードの無闇やたらな高性能化による制作費の増大など、様々なことが言われているが、単にセガがハード業界から消えたせいだと僕は考える。
そう僕に思わせるのは、セガがハード事業からの撤退を宣言したのが〇一年……そう、ゲーム業界の苦戦が囁かれ始めた時期のほぼ一〇年前ということだ。つまり、今までセガが先走っていた一〇年分の試行錯誤のストックが――言うなれば財産が、時代の進むべき道を記した未来への地図が、底をつき始めたからではないか、ということだ。石橋を叩いて渡るどころか、どう考えても危ないと思われる橋を笑顔で「いけるッ!」と言って誰もが止める中を一切の躊躇いなく全力疾走していたセガが……時代の牽引者がいなくなったために、葦は揺れる方向すら見失い、迷走を繰り返しているように考えるのは決して間違いではないはずだ。
そして、僕は今、人はどうでもいいものをありがたがる≠ニ言って始めたこの話の着地点を割と早い段階で見失っているわけだけど……果たして、どうしたものだろう……。
……お、おかしいな、僕はどこで道を間違えたのだろう。もっと、さらっと、こう、スタイリッシュかつ知的にまとめるはずが、いつの間にかセガの話に切り替わり、失われた祖国に想いを馳せる難民のようなことを……。
うーん、処女がどうとか言い出した辺りまでは何とかなった気がするんだけどなぁ。
「アレ? 何、佐藤、変な顔してんの?」
そう言って隣に立っていた著莪は僕の顔を覗き込んでくる。薄暗い中、眼鏡のレンズ、そして彼女の碧い瞳に、困惑した己の顔が写り込んでいた。
僕は冷たい潮風に身をちぢこませるようにして、重ね着している黒のパーカーとスカジャンの襟元を直し、一息入れた。
「いや何、ちょっと……その、アレだよ。ちょっと考え事をしていたら迷路にハマったというか……」
「ナニソレ。眠くなってきたとか? 昼過ぎまで一緒に寝ていたのに?」
著莪はバカにしたように笑う。そして彼女は着ている赤いスカジャンではなく、その下に重ね着しているパーカーのポケットからカイロ代わりにさっき買った缶コーヒーを取り出し、口を開けた。
彼女はそれを一口飲んでから、僕にくれる。すでに人肌ほどにぬるかった。
スマホを取り出し、時計を見やれば……ようやく午前六時を回ったところ。この犬吠埼に到着してからすでに一時間が経っていることになる。となるとこのコーヒーの温もりはそれ自体に残っていたものではなく、著莪の体で温めていたようなものだろう。
僕はそれをぐびりと飲んだ。
「別に眠いわけじゃないんだけど……その、何だ、人ってのは初物をこうもありがたがるものなのか、と考えてさ。……人多すぎるだろ、ここ」
実は僕と著莪は今、初日の出を拝みに、千葉県の最東端である犬吠埼という岬に来ているのだ。実は地軸の傾きの関係で、年末年始の数日のみ、北海道の根室とかを抑えて日本で一番早く日の出を拝めるスポットがここだったりする。
……無論、離島とか、船を出して日本の領海ギリギリとか山頂とかに陣取ればまた話は別だけど、そこまで行くともはやわけがわからなくなる。
ともかく犬吠埼こそが日本で初日の出を最初に拝める場所であり、僕らはそのすぐ脇にある君ヶ浜に来ているのだ。
……で、だ。田舎道だということもあり、道路が込むってのはわかってたんだけど、浜辺にも予想以上の人々がいて、駅とかに至っては売店が賑わうという有様である。
たまたま雑誌でこの場所のことを見た著莪の気まぐれで、二人してわざわざ数時間も電車に揺られてやって来た僕が言うのも何だけど、ホント、人ってのはどうでもいいものをありがたがり、その中でも初物に関しては目がないのだろう。
著莪に人間ってのは初物が好きである云々と先程の内容について語りつつ、僕は白みつつある太平洋ではなく、大勢の人々の方を見やった。
荒れる波の飛沫がかからない場所にまばらに並ぶ人々。大勢なのにまばらという表現はいささかおかしいかもしれないけれど、浜辺が一キロに渡るほど広いのと、集団で固まっているのではなく、二〜三人のグループが浜辺の至るところにいるため、まばらに見えるのだ。
何だかその微妙に隙間のある人々の光景は、僕にはペンギンのように見えて仕方がない。あの、岩場の上で日光浴しているペンギンたちの姿だ。それぞれが特に何するわけでもなく、二本の足で呆然と立ち、たまに動く以外はただ立ちつくすだけのその姿が、今僕の目に映る何もすることがなくて朝日が昇るのをただひたすらに待っている人々の姿と重なる。ダウンジャケットを羽織っている人が多く、自然と丸っこい姿になっているのが余計にその連想を後押しするのかもしれない。
海の方に突き出たような形になっている浜の部分には、さすがに人が群れているようだが、それも、ペンギンっぽかった。
僕の話を黙って聞いていた著莪は、僕の手から缶コーヒーを取り返すと再び口をつける。
「ふーん。……じゃあ、これ、アタシと佐藤の今年最初のコーヒーだから初物……って、それはちょっと意味が違うかな」
缶コーヒーに旬があるとは思えないので、確かに初物とはちょっと意味が違うかもしれない。単に今年最初ってだけだ。でも、特別視するって意味では、同じかもしれない。
「ともかくさ。別に初物だから何だってわけじゃないのに、不思議だなぁ、って思って。……まぁ、それが何故か昨今のゲーム業界に立ちこめる不穏な気配とセガの関連性の考察にいつの間にかすり替わっていたわけ」
「なるほどね、それで変な顔してたんだ。……佐藤、お前さ、途中で絶対処女がどうとか考えただろ」
――沈黙。
絶えることのない周辺の人々のざわめきや、著莪のボリュームのある金髪を揺らす風の音、そして少しばかり荒れている波の音が大きく聞こえ、それらが僕らの間を埋めた。
「後は……初恋とか、ファーストキスとか、そういうの。んで、そういうのから意識を逸らそうとしていたら着地点を見失ったんだろ」
僕は右隣にいる著莪の顔に向けていた視線を、そのまま彼女の後方にそびえ立つ犬吠埼灯台へ視線を自然に逸らす。その夜明け直前の空に浮かぶ、蝋燭のような灯台のシルエット……何と美しいことか。さすが『世界灯台の100選』に選ばれただけのことはある。
コツンと、空になった缶コーヒーの底を著莪は笑いながら僕の額に当ててくる。
「うぉらっ。当たり前のように目の前の現実から逃げんなっての」
「……いいか、著莪。男が、いや、雄がそこら辺を考えてしまうのはある種本能的なものであり、それについて語るためには本を――」
「あーはいはい、面倒だからもういいよ。っつぅかさ、今の話からすると若干セガへ繋げるのは無理があるよね。カツオとかって周りがやっているから自分もっていうのはあっていると思うけど、ファッション云々と違って、それって実際には単にお祭り好きなだけだったんじゃない? ほら、それこそ江戸っ子っぽいじゃん」
……言われてみれば、確かに。僕はそれを周りに流されているからと表現し、そこを妙にクローズアップしてしまったがために、方向性を見失ったのかもしれない。
「多数に迎合するっていう意味じゃ同じかもしれないけれど、日本人って単にお祭りが好きなんだよ、やっぱ」
「まぁ、確かにそれは一理あるか。今日……っていうか、昨日か。上野とか酷かったもんなぁ」
年末の上野のアメ横に行ってみようということで、この浜に来る前に行っていたのだけれど……尋常ではない人の数で、買い物どころではなかった。あれはどう考えても買い物をするためにアメ横に来ている人よりも、僕らのように年末のアメ横に行く、というのが目的になっている人の方が多いに違いなかった。
実際僕らがお金を払ったものといえば、オ〜ィシィヨ! ムッチャウマァイヨ!≠ニ不思議なかけ声でお馴染みのケバブ屋さんで買い食いした以外じゃ、僕が今穿いているトレッキングシューズを著莪が買ってくれたぐらいである。
明後日からHP同好会の合宿で北国へ行くので、スニーカーじゃまずいだろう、と著莪が珍しく気を使ってくれたのだ。……まぁ、事前に徴収された僕の小遣い及びお年玉の前借りから資金が出ていることを考えると何とも言えないものがあるけど……それでも、一度は彼女の懐に収まった以上、贈り物であることには違いないだろう。
本人は今日、この後成田で両親と合流してイタリアへ行ってしまうため、夏みたいにさらりと参加することが出来ないから、自分の代わりに……ということかもしれない。……いや、ねぇな、そんな理由。
「佐藤ってさ、割と昔からそういうところあるよね。短絡的っていうか、気がつくとあんまり関係ない話に切り替わってるっていうか……ほら、いつだっけ、あのアタシと蘭が揉めた時も――」
何もない浜辺では、僕らは思い出話に花を咲かせるぐらいしかなかった。
一応実家からゲームギアを二台と対戦ケーブル、そしてソニックシリーズでは初のレースゲームである『ソニックドリフト』を持ってきたものの、来る途中の電車内で二台ともバッテリーが切れてしまっていた。
ちなみに車内での注目度は群を抜いていたことは忘れずに付け加えておこう。男らしいマッチョ感のあるボディに、時代の先を行っていたバックライト付き液晶モニター、そして対戦するためにはソフト二本が必要なのは当たり前、日本国内で果たして何人が体験したことがあるのかわからない有線接続という堅実さ……人々が注目しないわけがなかった。
話は逸れるが、少しこれに触れておくと、ゲームギアが発売された九〇年代当時において、今では当たり前となっている携帯ゲームで対戦・通信プレイというのは実はかなり特殊な体験であった。というのも携帯ゲーム機を二台、同じソフトを二本、それらを繋ぐケーブルが必要になるわけだが、まだゲームが子供が遊ぶもの≠ニしてしか認識のなかった時代においてはこれらがなかなかに揃わず、折角ゲームメーカー側がその機能を付けても、それを堪能することは難しかったのだ。
別ハードとはいえ、某社の今ではとてもつもない利益を生み出し続けるモンスターのゲームが出た当初とてそうであり、通信ケーブルを有している者など極めて希有であり、兄弟がいる金持ちの家でもない限りはまず存在しない……っていうか、田舎ではゲームショップにさえ置いていない場合がほとんどだった。そのソフトが徐々に注目されるに従い、携帯ゲーム機による対戦・通信プレイというものが当たり前になっていったのだけれど……ゲームギアには対戦・通信プレイにおけるそこまでのキラータイトルが存在しなかったのが、痛いところである。
……そもそも親父のようなセガ派はもちろん、テレビCMでイッセー尾形さんらが携帯ゲームはもはやカラーの時代であり、モノクロはつまんないのだと散々言ってくださっていたのだけれど……それでも、普及台数が伸びなかったのが何よりの問題だったのかもしれない。
数少ないユーザーが出会い、かつ、同じソフト、そしてどちらかが何らかの理由から対戦ケーブルを所持していて……そして、お互い電池に余裕がある、という極めてハードルの高い条件を満たさないと遊べないのである。もはやそれは広大な深海で希少種の魚が偶然出会って交尾に至る確率にも近かったことだろう。
そんなことを頭の片隅で考えながら、僕は著莪と昔の話をしていると、ふと、彼女は何かを思い出したような顔をする。
「……ん、どうかした?」
「いや、そういえばアタシの最初のキスっていつだったかなぁって思って。初物がどうって話と、蘭の話してたら、何となく考えちゃった」
言われてみて、僕も思い出そうとしてみるが……思い出せない。
「いつだっけ? 佐藤が蘭のことを好きだとか言い始めた時にはもう毎日みたいにしてた気がするんだけど」
その最初の相手が僕であることに、彼女は疑いはないようだった。無論、僕も、同じだ。
「うーん、思い出せない……っていうか、絶対物心がつく前だよ」
「まともに言葉が喋れるようになる前からかなぁ。……あ、うん、何かそんな気がする」
僕もそれに頷いた。
昔の著莪は両親の関係で日本語とイタリア語、さらには微妙に英語を交ぜた、ルー大柴さんの言語をさらに酷くしたような、わけのわからない言語を使っていたせいで、幼稚園ぐらいまではちょっと大人しくて、見た目の特異さもあって友達はそれほど多くはなかったような記憶がある。んで、その分僕と一緒にいることが多くて、それで……まぁ、頻繁にしていたというか何というか……。
「あー、そうだったそうだった! アタシ、その頃の記憶って、結構曖昧なんだよなぁ。何か佐藤が横にいないと不安だったような記憶がうっすらとって感じ」
あの頃の著莪はまるで動く人形のようだったっけ。家だとまだそうでもないけど、幼稚園とか買い物とか行くと、どうしても萎縮してた気がする。……まぁ、小学生の半ばぐらいにはほぼ完全に日本語使いになって、今と同じくはっちゃけた感じになってたけど。
「なっつかしいなぁ。そんな茉莉花みたいなロリ時代もアタシにはあったってわけかぁ」
……ロリって。そう言って僕らは笑い合う。
一際強い潮風が僕らの周りを吹きすさんだ。辺りの人たちから「うわっ」と言った声が聞こえ、著莪も髪を抑えつつ、僕に体を寄せた。
「でもさぁ、あの頃と比べると、最近って、佐藤と一緒にいる時間減ったよね」
「そりゃ学校も違えば、住む場所も違うから、どうしてもね」
「そんなもんかな?」
「そんなもんだよ」
「ホントに?」
「ホント」
間近で僕と見つめ合う著莪の瞳に、かすかに憂いのようなものが見え、思わずドキリとする。でもそれは一瞬。見間違いではないかと思った時には彼女の目は瞼で閉じられてしまっていた。
「なら、いいんだけどさ。このまま年々離れて行ったりするのは……ちょっとなぁって思ったり」
「何だよ、いきなり。らしくもない」
著莪は俯くようにして僕の首もとに自分の頭を当ててきた。その髪の、良い香りが潮の匂いに負けず、僕の鼻を擽る。
「……ほら、この前のクリスマスとかさ」
頼りなさげで、寂しそうな声で、著莪が言った。寒気立つ風の中、荒々しい波の音が響き続ける中で囁かれたそれは、僕の心を細い糸で縛り上げたかのように苦しくする。
「だ、だからさ、その埋め合わせってんで、お年玉前借りして、ここしばらくずっと奴隷のように尽くしてきたんだろう」
「うん……でもね。そうじゃない、そうじゃないんだよ。埋め合わせがどうとか、そういうんじゃない」
僕はクリスマス、著莪との約束を反故にして槍水先輩との……HP同好会の一員としての夜を選んだ。選ばざるを得なかったというか、著莪にならその全部を話せば納得してくれると思っていたから、彼女に説明して、それで……。
……あ〜……。
何となくだけれど……僕にも、著莪が言いたいことは、わかった気がする。
埋め合わせがどうとか、本当はそういうんじゃないんだ。
例え、埋め合わせをすると言ったって、僕は彼女よりも槍水先輩との夜を選んだという事実は覆せない。実際にはそうじゃなかったけれど……それでも、だ。
あの電話をかけた時、僕が約束を破りたいと告げた時……著莪はどんな気持ちだったんだろう。
あの時、考えないわけじゃなかったけれど、きっと大丈夫だと、わかってくれるって、そう信じていた。……信じた、だけだった。それで彼女がどんな想いを抱いたかまでは、考えていなかった気がする。
……また、沈黙。
いろんなことを想うが故に、波の音が大きく聞こえた。白みを増していく空が、寒々しい。
著莪の匂いと体温を感じながら、空を見上げていると……僕はふと、とんでもないことに勘づいた。
あの時、著莪は電話口でこう言ったのだ。
――人との約束を破るのは最悪だ。でも、人の信頼を裏切るのはもっと最悪だ。
あの言葉……それって、槍水先輩から僕への話だと思っていた。だから著莪は僕を行かせてくれたんだと……そう思った。
けれど……本当は……あれは、僕から著莪への信頼の話だったんじゃないのか?
著莪ならきっとわかってくれる、きっと……赦してくれる。
そう僕が信頼したから……それを裏切らないために、彼女は――。
「なぁんてね、シリアス声出してると何か寒くなってきちゃった。今のは久々にうまくいったっしょ? 佐藤もちょっちマジっぽい顔になって……佐藤?」
著莪はイタズラ気な笑顔を浮かべながら、一歩離れようとするのだけれど……僕は彼女の細い肩を捕まえ、そして、抱きしめた。
な、なんだよ。と、著莪は少し困惑していたけれど、僕は彼女の背に回した腕を解きはしない。
「……寒いんだろ、著莪」
「寒いっちゃ寒いけど……うーん、今は、ちょい、その……。まぁ、いいけどさ」
少しばかり照れたようにも聞こえる声で彼女は言うと、ゆっくりと僕の背に腕を回してくれる。
……そしてまた、沈黙。
風は変わらずに冷たい。けれど、それは著莪がどれだけ温かいかを教えてくれた。
波も荒い。けれど、その音は僕らから余計な言葉を取り去ってくれた。
長いような、短いような、そんな時間。
お互いに言葉にならない気持ちを見せ合うような、そんな時間。
その果てに、僕は一つだけ、言葉にした。
「今更だけど……クリスマスは、ゴメン」
「もういいって」
「全然著莪のこと……」
「だから、いいって。……わかってる」
こっちだって、わかってるんだ。だから……。
そう言おうとするものの、そこから先に続ける言葉が思いつかず、僕はただ口を閉じるしかなかった。
辺りがいきなりざわめきだして、僕らはその人々の歓声に流されるように、いつの間にか閉じていた瞼を開き、そしてそれを海へ向ける。
水平線の向こう、かすかに浮かぶ雲を赤く染めながら、強烈な光が現れた。
僕も著莪も、お互いに少し緩めたものの腕は相手の背に回したまま、その光を見やっていると、自然と、こぼれるように「お〜」と声が出た。
辺りにいた人々は一斉にざわめき、カメラを動かしたりしていたけれど……僕らはただただ呆然と、日本で最初の初日の出に見とれていた。
到着してから夜が明けるまでひたすら待ち続けていた時は、太陽ってのは何てゆっくり動くのだろうと考えていたけれど、水平線から顔を出してからは、太陽の動きは意外に早いのだと知れた。
少しだけはみ出すようにして差していた光は見る見る内に大きくなり、太陽はわずかな時間でその輪郭を僕らに見せ、そして、夜を西の空へと押しやっていく。
その光景は僕らに驚きと、そして……意外にも、ちょっとした感動というか、不思議な心地よさを与えてくれる。
初物も、悪くない。こんな気持ちになれるのなら、なるほど、確かに七五日ぐらい寿命とて伸びそうなものだ。
……まぁ、食べたわけじゃないけど。
「ねぇ、佐藤」
著莪は朝日を見やりながら、そう口にした。
「今年も、よろしくね」
「こちらこそ。これからもよろしく、著莪」
著莪は僕に顔を向ける。笑顔だった。僕も、微笑んだ。
今年最初の朝日に照らされる彼女の笑みは、いつも見ているはずなのに、どこか特別に思えてしまう。それは僕も風に揺れる葦だから……いや、流されやすい、お祭り好きな日本人だからだろうか。
ただ、どんな理由であれ、今、僕の目の前にある彼女の笑みが特別であることは間違いない。
そう、信じられた。
「あー……そういえばさ、佐藤。確か初物って食べると七五日、寿命が延びるんだっけ」
「うん、迷信だと思うけどね。そう言われてる」
著莪が「ふーん」と、唸るように言って、その笑みにイタズラ心を混ぜ始める。
朝日が、著莪の白い肌を少しばかり赤く染めていた。
「それじゃぁさ、初物の意味違うかもしれないけど……一緒に、ちょっと長生きしよっか」
「ん? それって、どういう……」
疑問を口にするより先に、著莪の顔が近づく。
「今年の、最初の……ね」
そして、また……波の音は、大きく聞こえた。
<了>