衛青将軍の実姉。評判の美女で、歌の名手でもあった。
市井の、しかも貧しい家庭の生まれながら皇帝の正妃となる。
漢王朝では、高貴ならざる出自の皇后がすくなくない。有力な実家を持つ娘の方がうとまれた傾向もある。そうした一族はしばしば外戚として権勢を振るい、皇帝を追い落とそうとするからだ。逆に権勢とは縁遠い家門の娘であれば、いざというときは容易に“対応”できると……。
尚、衛家の栄枯盛衰はむしろ衛青の死後に本格化する。
古代ギリシアの最強兵種である重装歩兵。
甲冑と直径一メートルの丸い楯、長槍を装備していた。
彼らは隙間がないほどに密集し、全員一定の歩速で行進。列先頭の兵が槍を突き出し、敵陣に向かっていった。斜線陣のように左端だけ縦列を厚くして、極端に人数を多くすると――その部分だけ前進する力・突破力がわかりやすく強くなったのである。
しかし、それほどの密集状態では、防御のために動き回ることなどできない。
重装歩兵を守るのは兜と胴鎧、左手に持つ楯。
そして楯を持っていない右半身は、右隣に立つ仲間の楯で守ってもらった。
密集陣形の右端にいる者は仲間の楯で身を隠せない。
その弱点をカバーするために、陣形の右端に精鋭を集中させる。
それが古代ギリシアの戦争では定石だった。しかし、敵軍の右端と対峙するのは自軍の左端――ここの兵力を斜線陣では厚くする。
敵軍の最も強い箇所を率先して撃破するための備えであった。
尚、斜線陣の原理はアレクサンドロス大王をはじめとする名将たちによって、その後も柔軟にアレンジされていく。
二〇世紀前半、この種の戦闘は飛躍的に犠牲者の数を増やす。
日露戦争における旅順要塞の攻防、第一次世界大戦における塹壕戦などである。
大砲、さらには毎分数百発もの弾丸をばらまく機関銃まで装備するに至った防御側。彼らは要塞の堅牢な防壁、塹壕・有刺鉄線で身を守りつつ、大量の弾をばらまく。
そこへ無謀な攻撃をつづければ――無残な大量殺戮の繰りかえしとなるばかりであった。
飲み会開始直後の一杯目は「とりあえずビール」。
あまりに有名な織田信長の三段撃ち。
近年では作り話であるという説が有力視されている。そのような銃の運用は現実的に不可能であると。だが、武田家を圧倒するほどの兵と鉄砲を動員し、戦略と経済力で織田家が遥か上をいっていたことはまちがいない。
明治維新から数十年を経た一九二三年。帝都東京でクーデター発生。聖獣・大国主命を奉じる陸軍の一派が議会と皇城を制圧。その後、大国主命の霊力が『関東大震災』を発生させたため、クーデター勢力は大阪へ拠点を移す。
これをはじめとする上段の構えは防御に転じにくい。
まず気構えで敵を圧倒する必要があり、実戦での使用は難易度が高いという。新撰組の宿敵、薩摩藩の御留剣術・示現流が得意とする『蜻蛉の構え』も八相の一種として有名。
姓は劉、名は徹。前漢の第七代皇帝。
一六歳の若さで即位し、半世紀以上にもわたって君臨しつづける。
その治世は漢王朝の最盛期である。しかし、彼の統治の功績というより、歴代の皇帝たちが行ってきた『国造り』の成果がこの時代に現れた……という見方もある。
外敵・匈奴の討伐を国策として掲げ、莫大な戦費を費やした。
衛青将軍とその甥・霍去病らの活躍もあり、武帝の強硬方針は大きな成功を収める。
若き日の彼は人材の発掘に大胆で、しばしば実績のない無名の人材をいきなり重用した。また、それがみごとに功を奏す眼力と強運の持ち主でもあった。
だが齢を重ねるにつれ、そうした一面は失われていく。
のちに歴史書『史記』を著す司馬遷に“宮刑”を命じた主君こそ、武帝であった。
通称《鎧を着た豚》。ブルターニュ生まれの騎士。
黒王子は「好敵手というほどでは……」と発言している。
事実、王子はカスティーリャ遠征の折に彼を人質として捕縛している。が、おたがいに総大将として対決した結果ではない(実は小競り合いで不覚を取ったこともある)。また黒王子の死後、デュ・ゲクランはイギリス軍相手に快進撃を重ねて、百年戦争初期のフランス劣勢を完璧にひっくり返す。このあたり、のちの『戦場では旗を持っていただけであろう農村生まれの少女』とは一線を画す活躍ぶりである。
王子は彼の真価を見ることなく死んだという見方もできるだろう。
尚、黒王子が要求した法外な身代金。その足しにと、黒王子の妻ジョーン・オブ・ケントもフランス陣営に金を貸したという。デュ・ゲクランの豪快かつ憎めない人柄を惜しんだためであった。敵味方を問わず、彼の“ファン”は多かったのだ。
リチャード獅子心王の時代、英国軍の飛び道具といえば弩だった。
だが、それから百年近くが過ぎ――リチャードの弟・ジョンの孫に当たるエドワード一世の時代。彼はウェールズ遠征の際、ロングボウを使用する兵に迎え撃たれた。この飛び道具の有用性をそこで知り、自軍に取り入れる。
そこから伝統の英国式となり、曾孫のエドワード黒王子にまで受け継がれたのである。