【流星娘々真夜中ポートレイト】

「――ン! シン、起きて! ねえ、シンってば!」
「んあっ!? なんだ、なんだっ!?」
 誰かに呼ばれたような気がして……というか明らかに耳元で呼ばれて、シン・ヒラガの心地よい眠りは妨げられる。雷に打たれたかのようにビクッとして顔を上げた。そのとき、微かに甘い匂いが鼻孔をくすぐる。
 シンは何事かと思って、周囲をキョロキョロと見回した。
 エジソン下層高等学校の小講堂は学生たちで満員になっている。授業を受けているのは流星工学科の生徒たちで、難しい試験を突破して入学してきた……言うなれば優等生だ。厳かな儀式でも執り行っているような雰囲気が小講堂には漂っていた。
 生徒たちが一斉に振り返る。
「あ、いや、その……」
 授業中に居眠りしてしまったのだと、シンはやっと気づかされた。
 途端、頭の中が恥ずかしさでいっぱいになる。炎天下のように顔が熱くなって、おかしな汗が滲み出てきた。同級生たちがくすくすと笑っている。できることならば、今すぐにでも小講堂から逃げ出したい気分だった。
 教鞭を執っていた老教師も、驚いてぽかーんと口を開けている。
「ええと……ヒラガくん、話は聞いていましたか?」
「……すみません。聞いてませんでした」
 周囲からドッと笑いが起こった。
 老教師が腑に落ちなさそうに目をパチパチさせる。
「真面目なヒラガくんにしては珍しいですね。それじゃあ、ロイ・コールドくん。この場合のエンジン出力はどれくらいになるか、代わりに答えてください」
「俺っすか!?」
 指名されたのはシンの学友であるロイだった。
 ロイはとんがった金髪を揺らして、恨めしげにシンの方に振り返る。
「ううう……とばっちりだぜ……」
「すまん! 本当にすまん!」
 シンは両手を合わせて平謝りする。
 ロイのしどろもどろな解答を聞きながら、やっとの思いで椅子に腰を下ろした。
 授業は真面目に受けているつもりだったのに、まさか堂々と居眠りとは……。
 自分のことが情けなくなってきた。
「シン、目が覚めた?」
 また耳元で囁かれて、体がビクッとしそうになる。
「目は覚めたよ……バッチリな」
 挙動不審に思われないように、シンは冷静を装いながら振り向いた。
 隣の席にいるのはまさに目の覚めるような美少女である。
 頭髪は世にも珍しい青色で、流星粒子を纏っているかのようにキラキラしていた。雲一つない青空を思わせる明るい色合いは、見ているだけで爽やかな気持ちになってくる。切ったばかりの桃のような甘い匂いが、彼女の髪からは微かに漂っていた。
 つぶらな瞳は深い藍色で、星々の輝いている夜空を思わせる。長い睫毛がぷっくりとした頬に影を落として、真っ白の肌は微かに赤みが差していた。化粧を施したわけでもないのに、桜色の唇にはしっとりとしたツヤがある。
 流星生まれの少女――スピカは連結机に肘をつきながら、心配そうにシンを見ていた。
「二十五ページの問題だって。問題その四、出力を求めなさい」
「あぁ、そこか……まあ、ロイが答えてくれたけど」
 シンは教科書を見ようとするが、スピカの視線が気になって集中できない。
 今日のスピカは水兵のような服を着ている。セーラー服とか言うらしい。本来はもっと小さな子供向けなのだが、同級生たちよりも二、三歳は幼く見える彼女にはとても似合っている。襟元からは綺麗な鎖骨のラインが覗いていた。
 スピカが机に顔を伏せると、柔らかそうな頬がむにっとする。
 彼女は少しだけ眠たそうに目を細めた。
 頬を突っついてみたい……という衝動にかられる。
 あるいはあごの下をくすぐるとか、青髪をワシャワシャとかき回すとか……いや、でも、これでは犬か猫みたいな扱いだ。彼女は親友であり、家族であり……でも時々どうしようもなくて猫かわいがりしたくなるのだ。
「ふみゅ?」
 こちらの視線に気づいて、スピカが不思議そうに小首をかしげる。
 シンはとっさに正面を向いて、授業に聞き入っている振りをした。
 途端、
「むーっ!」
 スピカが頬を膨らませて、頭をぐりぐりとシンの肩に押しつけてくる。
 野生動物のマーキングかよ!?
 ご立腹のスピカを引きはがそうとするが、騒ぐわけにはいかないので苦戦する。
「あと少しで授業終わるから! なっ? それまで我慢しろ!」
 小声で訴えるシン。
 スピカはふーっと息を吐いて、それから机にぺたんと小顎を乗せた。
 完全にお預けを喰らった飼い犬のような反応である。
 問題に答え終わったロイが「シン、お前……」と冷めた目でこちらを見ていた。
 いちゃついているわけじゃないんだよ、本当に!


 放課後、シンとスピカは学校の共有ガレージを訪れた。
 共有ガレージはパーテーションで仕切られていて、学生たちが個別で作業できるようになっている。作業場の外には旋盤を初めとして、自由に使える工作機械が置かれていた。授業はとっくに終わっているが、あちらこちらから作業に勤しむ音が聞こえてくる。
 シンは作業着に着替えて、流星バイクの改造をしている真っ最中だ。
 流星バイクは貯金をはたいて購入した中古品である。そのままでも乗れなくはないが、せっかくだから納得するまでチューンアップさせようという計画だ。そのため、流星バイクを購入してからは連日連夜、シンは作業を続けているのだった。
「シン、最近お疲れ?」
 スピカは作業台で宿題をこなしている。
 彼女は特別措置で入学したので、それ故に特別な宿題がたくさん出ているのだ。
 あまり集中できていないのか、ノートには丸っこい動物の落書きが散見している。
「疲れ……てんのかなぁ?」
 シンはあぐらをかいたまま、その場で大きく背伸びをする。
 ブルーシートには流星バイクから取り外した流星エンジンを置いてある。現在は劣化したパーツを取り替えている最中だ。中には型が古すぎるせいで、街のパーツ屋で買い足せなかったものもあるが……そこは流星工学科の生徒らしく、足らないものは自作した。豆みたいに小さなネジがズラリと並んでいる様子は見ていると目が霞んでくる。
「シンは自分が疲れてるのかどうかも分からない。これは重傷!」
 スピカがわざわざ靴を脱いで、ブルーシートに上がってくる。
 彼女は中腰になると、手のひらをシンの額に当てた。
 自分の額にも手を当てて、非常に古典的な方法で熱を測ろうとする。
 そのとき、見えてはいけないものが見えた。
「――――!!」
 大きく開いた襟元から、桜色のブラジャーが……。
 シンは即座に目を閉じて、視線が吸い寄せられそうになるのを我慢する。
 スピカは年格好こそ、自分たちと同年代であるが、彼女はまだ流れ星から生まれてきて一ヶ月しか経っていない。生後一ヶ月の赤ん坊みたいなものだ。だから、スピカがどれだけ可愛いとしても、よこしまな視線を向けるというのは……。
「シン、おでこが熱くなってる」
「……あ、熱くもなるだろ」
 シンはすくっと立ち上がって、作業着の胸元をパタパタした。
「工作機械がひっきりなしに動いてるし、溶接だってやってるからな」
「ふみゅ。確かにちょっとムシムシする」
 スピカが立ち上がって、それからセーラー服のスカートをバサバサし始めた。
「おおおい、ちょっと待て! ストップ!」
 お前は見せびらかしたい趣味でもあるのか!?
 パーテーションで区切られていても、ここは学校の中なんだぞ!
「ストップ?」
 スピカがスカートの裾を持ち上げたところで動きを止める。
「そうじゃない! さっさと下ろせ!」
「……ふみゅ。シンは言ってることがめちゃくちゃ」
 やっとのことでスカートから手を離させる。
 シンは作業服の袖で額の汗を拭った。
「相変わらず羞恥心ゼロなんだな……」
 日頃の疲れが溜まっていたかどうかはともかく、今は間違いなく疲れている。
 思い返してみれば、トーマス・エジソンとの戦い以降も忙しいこと続きだ。スピカの勉強を見てやったり、アルバイトに精を出したり、流星バイクを改造したり……。それでも疲れをさほど感じないのは、やはり毎日楽しく過ごせているからだろうか? 旧エジソン・カンパニーが幅を利かしていた頃は、些細なことで苛立つことも多かった。
 あとはスピカがまともな羞恥心さえ持ってくれたら……。
「失敬な! 私にも恥ずかしいことくらいある!」
「本当かよ……」
「シン以外の男の人に裸を見られるのは恥ずかしい」
「……俺相手でも恥ずかしがってくれ」
「ふみゅ……」
 スピカが困惑の表情を浮かべる。
 彼女は手を後ろで組み、急に内ももをモジモジさせ始めた。
「恥ずかしがった方が……シンは好き?」
「そ、そういう話じゃないだろ!」
「でも、恥ずかしがった方が男の子は嬉しいってメイファンが……」
 スピカに何を教えてくれてんだ、あの人は!?
 シンは作業台脇の長椅子に倒れ込む。
 なんだか本当に疲れがドッと出てきた気がする。
 スピカを責めるつもりはない。彼女はまだ生まれて一ヶ月の赤ん坊なのだから、羞恥心が育っていなくても仕方ないのだ。こればかりは心が豊かになるのを待つしかない。怒鳴ってどうにかなるものではないと、分かっているはずなのだが……。
「シン、まだ怒ってる?」
 スピカが椅子の近くにしゃがみ込み、シンの黒髪を指先でいじり始める。
 群れの仲間に毛繕いされている猿のような気分だ。
 意外と気持ちよくてまどろみそうになってくる。
「怒ってない……でも、疲れた」
「ふみゅ! 私の思った通りだった! シンはやっぱり疲れてる!」
「……俺が疲れているのがそんなに嬉しいか?」
「うん! 癒し甲斐がある!」
 スピカがやる気満々の顔をしている。
 それを目の当たりにして、嫌な予感しかしないのは何故だろうか……。
 彼女は赤ん坊を眺める母親のような慈愛に満ちた眼差しを向ける。
「シンは私が癒すから、いっぱい楽しみにしてて!」

×
 結局のところ、そのあとは何事もなく時間が過ぎた。
 閉校時刻になったあと、シンはスピカをドラゴン・ダイニングに送ってやった。ちょうど夕飯時だったので、スピカと一緒に店長の作ってくれた料理を食べる。夕食を済ませたあとは、長居せずに帰ることにした。メイファンには文句を言っておきたいところだったが、彼女は接客に忙しくて声を掛けられなかった。
 二人で登下校することに慣れてしまうと、一人で自宅に帰るのが妙に寂しくなる。背中がやけに寒く感じられて、帰りたくないなあ……なんて思ってしまう。でも、絶対スピカに引き止められるので、思ったとしても口には出さない。お互いのためにならない。
 シンは自宅に帰ると、とりあえずはシャワーを浴びることにした。
「んあー」
 熱いシャワーを浴びていると、他人には聞かせられないような声が漏れ出てくる。
 狭くてボロい学生長屋のワンルームだが、熱々のお湯が出てくるのだけは嬉しいところだ。本音を言えば、広くて綺麗な風呂に入りたいところだが……それは流石に贅沢である。両親と暮らしていた家には風呂があったので、それのことがとても懐かしい。
 セントラルに銭湯なんてあったろうか?
 そういえば、スピカが癒しとかなんか言っていたけど何もなかったな……。
 シンはとりあえず寝間着に着替えて、タオルで髪を拭きながら脱衣所を出る。
「銭湯かー」
 もしも見つかったら、みんなで行ってみるかな。
 シンがそんなことを考えていると、

「……いらっしゃいませ?」

 大陸風ドレスを着たスピカが、ベッドの上にちょこんと正座をしていた。
「のああああああああっ!!」
「ふみゅっ!?」
 シンは本気で叫んだ。
 喉から心臓が飛び出るかと思った。
 スピカもつられて驚いて、正座していた両足を崩した。
 部屋をよくよく見てみると、床に置きっぱなしだった教科書やら、洗い忘れていた食器やらが片づけられている。ベッドからは掛け布団が取り払われて、部屋の隅にキチンと畳んであった。天井の流星ライトは薄暗くなっていて、テーブルの上ではカラフルなキャンドルが灯されている。
「えっ……な、なにこれ?」
「シンがシャワーしてる時に片づけた……けど?」
 まだドキドキしているようで、スピカは両手で自分の胸を押さえている。
 彼女が着ているのは桜色の大陸風ドレスだ。メイファンが接客するときに着ているものと同じようなデザインである。ただ、それにしては丈がやたらと短くて、白くてすらりとしたスピカの太ももが大胆に露出していた。また、それに加えて青髪は左右でシニョンにしてまとめている。この髪型の彼女はとても新鮮だった。
 新鮮だったというか……全体として見ると犯罪的である。
 美少女が大陸風ドレスを着て、ベッドの上で足を崩しているって……。
 心臓がバクバクして、頭が回らなくなってきた。
「……その格好で、ここまで来たのか?」
 シンが問いかけると、スピカはぶんぶんと首を横に振った。
「さっき、ここで着替えた」
「ここで!?」
 シャワーを浴びているとき、壁一枚を挟んだところで!?
 スピカと同じように、シンもぶんぶんと首を横に振る。
 裸だって見たことあるんだから、隣で着替えてたからって動揺するんじゃない!
「な、なんで、うちに来たんだ?」
「シンはお疲れみたいだから癒やしに来た!」
 スピカが両手を掲げて、十本の指をワキワキさせる。
 綺麗に磨かれているからか、薄暗がりの中で両手の爪が怪しげに光っていた。
「ふみゅ! マッサージしてあげる!」
「マッサ……はいっ!?」
 それは一体全体、どんな種類のやつの……。
 シャワーを浴びたばかりなのに背中から汗が滲んでくる。
「最初は耳かき! シン、ここに頭のっけて!」
 スピカがベッドの上に正座し直して、膝を手でパシパシと叩いた。
 彼女の顔はやる気に満ちている。
「あ、あぁ……そういうやつか」
 このまま追い返すのは流石に可哀想だし、機嫌を損ねるのは間違いない。
「それじゃあ……頼む」
 シンは意を決してベッドに上がると、それからスピカの膝枕に頭を預けた。
 や、やわらかい!?
 あれだけスラッとして見えたスピカの太ももが、驚くほど柔らかくてむちむちしている。膝枕してもらうまで全然気がつかなかった。彼女の柔肌がシンの頬に吸い付く。スピカもシャワーを浴びてきたのか、肌からは清潔感のある石けんの香りが立ち上っていた。
「メイファンと練習してきたから大丈夫!」
「そ、そうか……」
 スピカが耳かき棒を取りだして、それで早速耳かきを始める。
 練習してきたとは言ったが、何かあるんじゃないかという不安が拭えない。子供に耳かきしてもらう親って、もしかしてこんな気持ちだろうか……。膝枕してもらった瞬間こそ気持ちよかったが、むしろ緊張感で体がこわばってきた。
「こっち……ふみゅ。それとも、こっち?」
「…………」
「暗くてよく見えない……」
「…………」
 キャンドルで雰囲気作りをした結果がこれだよ!
「……あ、危なそうなら途中でやめてもいいからな?」
「ふみゅ……」
 スピカは結局、左右の耳とも最後までやりきったが……思ったようにはいかなかったようである。耳あかをすくい取れなかった耳かき棒を残念そうにじぃーっと見ていた。マイ耳かき棒まで用意していたのに少し可哀想だ。
「次は肩と背中!」
「おっ、肩揉みか……」
 それなら安全そうである。
 危なっかしい耳かきで肩が凝っていたのでちょうどいい。
 シンはベッドの縁に腰掛けて、やる気を再燃させたスピカに背中を向ける。
 すると、
「そうじゃなくてうつぶせになって!」
 シンの使っている枕をスピカは指差した。
「なんか、随分と本格的だな」
「これもメイファンから教わった。私もやってもらって気持ちよかったやつ。店長も疲れちゃったとき、たまにやってもらうんだって」
「へー」
 メイファンはともかくとして、店長のお墨付きなら問題ない。
 シンは枕の上にあごを載せてうつぶせになる。
 耳かきは両親にしてもらっていたが、寝そべってマッサージされるのは今回が初めてだ。普通はマッサージだなんて、学生のうちはスポーツでもしていないと受けることはない。なんだかんだで楽しみでうきうきしてくる。
 のしっ……。
 突然、腰の辺りに乗っかられる重みと感触。
 シンがとっさに振り向くと、
「ふみゅ?」
 スピカは何気ない顔をして、彼の腰にまたがっていた。
 太ももで挟み込むように密着しており、そこからじんわりと体温が伝わってくる。
 大陸風ドレスの前垂れが、シンの背中に掛かっていた。
「な、なんでもない……」
 体勢がきつかったので、シンは大人しく枕に顔を沈める。
 これは耳かきよりも心臓に悪いかもしれない。
 スピカがおもむろに肩を揉み始める。
 彼女の手つきはとても丁寧かつゆっくりで、ほっそりとした十本の指がこわばった筋肉を揉みほぐしてくれた。本職がどうなのかは分からないが、スピカのマッサージも十分に気持ちいい。段々と眠たくなってきた。
「……お客さん、気持ちいいですか?」
「!?」
 スピカが突然耳元で囁き、シンはビクッと背筋を震わせる。
 吐息が耳朶に触れて、くすぐったいことこの上ない。
「ど、どこで覚えたんだよ、そんな台詞……」
「メイファンが店長に言ってたけど?」
 冗談めかして言うならばともかく、情感たっぷりに問いかけるのは……。
 というか、あの人、絶対に分かってて教えただろ!
「お客さん、気持ちいいですか!? 気持ちよくないですか!?」
「き、気持ちいいです……」
「ふみゅ!」
 無理やり気持ちいいと言わせてどうする!?
 スピカは肩に続いて背中のマッサージを始める。
 これがつぼ押しというやつなのか……背中を親指でぐいぐいと押していった。
 指先に体重をかけるため、腰を浮かして下ろすという動きを繰り返している。
 これはなかなか体力を使いそうな動作だ。
「はっ、はっ……はっ、はっ……」
 薄暗い自室にスピカの荒い呼吸だけが聞こえている。
 古びたベッドがキシキシと、不穏でリズミカルな音を立てていた。
「ふっ、ふっ……シン、気持ちいい? ふっ、ふっ……」
「お、おう……」
 気持ちいいというか、それどころではない感じである。
 背中のマッサージが終わると、スピカはだいぶ疲れて首筋に汗をかいていた。
 汗の滴が大陸風ドレスの薄い布地に染み込む。
 閉めきっていた室内は先ほどよりも少しだけ空気が湿っていた。
 スピカが汗を指で拭って、それを行儀悪くぺろりと舐める。
 彼女の舌はまるでザクロのように赤々としていた。
「……シン、次は仰向けになって」
「なれません」
「ふみゅ? どうして?」
「ど、どうしてもだっ!」
 駄々をこねているように思われるかもしれないが仕方ない。
 ここで仰向けに返されるようなことがあったら、あとは舌を噛んで死ぬしかない。
 シンは硬派を自称するものとして、頑としてうつぶせの姿勢を譲らなかった。
「ふみゅ。それなら、これが最後」
 スピカは残念そうな顔をして、今度はシンの背中に後ろ向きでまたがる。
 何だ? 足つぼでも押すのか?
 彼女はそれから、おもむろにシンの両足首を掴むと――

「メイファンはこれが一番効くって言ってた!」

 全力で逆エビ固めを仕掛けてきた。
「あだだだだだだっ! ギブ! ギブアップ!」
「ふみゅ!? シン、気持ちよくないの!?」
「死ぬ! せ、背骨が……背骨があぁーっ!!」

×
 スピカを送り届けたあと、閉店後のドラゴン・ダイニングにて。
 シンはテーブルを挟んで、メイファンと一対一で向き合っていた。
「うひひ! 日頃の行いが祟ったのよ、シンくん!」
「なーにが日頃の行いだよ……」
 メイファンはグラスのビールを美味しそうに飲んでいる。
 胸元の大きく開いた大陸風ドレスに身を包み、酒が入っていることもあって、彼女はいつも以上に過分な色気を放っていた。健康的なセクシーさがあるが、飲みっぷりが完全におっさんのそれなので雰囲気が台無しである。
「シンくんはさぁ……スピカちゃんのことを赤ん坊だとでも思ってるんでしょ? そうじゃなかったら、ペットの犬とか猫とか」
「あいつは実際に生後一ヶ月だろ」
 駄目だこりゃ、という感じにメイファンが鼻で笑った。
「スピカちゃんは歴とした女の子なの。シンくんを笑顔にしてあげたくて、マッサージを教えて欲しいって私に頼んできたのよ? それなのに大して相手にもせず、たまに可愛がってもすぐにお預けじゃあ可哀想でしょ。だから、ちょっと懲らしめようかなって思ったの」
「……まあ、だいぶ懲らしめられたよ」
 力いっぱいにやったといってもスピカなので、シンの背中にダメージは残っていない。
 シンはオレンジジュースを飲みながら考える。
 ところ構わず甘えてくるスピカと、どうやって付き合ったものか……。
 それにしても、大汗かいたのでオレンジジュースがやたらと美味しい。
「……シン。背中、大丈夫だった?」
 店の二階から、パジャマに着替えたスピカが降りてくる。
 ドラゴン・ダイニングに戻る最中から、彼女はションボリしっぱなしだった。
 シンはスピカの元に歩み寄る。
 どうするのが正解かはまだ分からないけれど、
「マッサージ、気持ちよかったよ。逆エビ固めナシで、またやってくれ」
 シンは彼女の頭を軽くナデナデした。
 あっ……こういうのが赤ん坊扱いしてるってことなのか!?
 ただ、その心配も単なる杞憂だったようで、
「ふみゅ! 次も頑張る!」
 スピカは元気いっぱいに返事をしてくれたのだった。