それは、小雨に濡れる気だるい午後のことでした。
喧騒渦巻く都会を離れ、どこか遠くのひなびた温泉に腰を落ち着ければ、仕事も進む――。
そんな妄想に取りつかれてしまったのは。
具体的な時期にちょっと言及できないぐらい、スケジュールがカツカツだった記憶があります。原稿は真っ白、予定は真っ黒、これなーんだ。答えは社会的死。この状況で遠出するとかマジ頭おかしい。
しかし思い立ったが吉日、ぼくはすぐに電話帳の一番に登録してある相手に電話をかけたのです。
さがら「わたりん、温泉行こ?」
わたり「カーッ! いま忙しいんだけどなー! どうしよっかなー!」
さ「行こ?」
わ「まあ、べつにいいけど」
さ「よっしゃよっしゃ。じゃあ宿とか予約しとくね」
わ「ん」
渡航は、いつもそうです。
ご飯を食べに誘ってもたいてい一度は断るくせに、いざ実際に連れ出すと、どれほど眠たげな顔になってもぜったいに自分から帰るとは言いだしません。
いわゆるひとつの、ツンデレなんでしょう。だいたい押せばなんとかなります。
なんとかならないときはもっと押せばなんとかできます。
それでもなんともならないときは、もっともっと押してみましょう。
ぼくはにっこり笑ってパソコンをシャットダウンしたのでした。もう仕事は終わったも同然。
ところが数日後、電話がけたたましく鳴り響きました。
わ「おいちょっと待って。部屋は別だよね?」
さ「え?」
わ「え?」
さ「一緒のつもりでいたけど。なんで?」
わ「あのさあ……」
さ「うん」
わ「……」
さ「……」
わ「……まあ、べつにいいけど」
長い沈黙と小さな吐息の末に、ようやっと発された言葉は、なんだかずいぶんと掠れていました。
ぼくは思いました。
あ、これはなにかしても許されるやつだ。
~HAPPY☆END~
そんな感じで、温泉旅行のあいだに産まれたのが『クオリディア』です。
内容の詳細説明はおいおいするとしまして、とりあえずこの子を大事に育てていきたいなと考えています!
今となってはいつの季節の出来事だったかもわからない。
ただ、仕事が行き詰っていたことだけは覚えている。それは間違いない。だって仕事が行き詰ってないときなんかないからね! 逆説的!
そういう場合の俺の仕事のスタイルはだいたい決まっている。
やる気がないときはやる気が出るまで待つ。
あるいは、俺ができないなら誰かできる奴がやる。
いたってシンプル、かつ平均的な社畜思考法だ。
会社員にとって、替えの利かない存在など厄介そのもの。社畜とは常に替えの利く量産型歯車であるべきだ。
では、締め切りに間に合いそうにないライトノベルを会社員的方法論で製造しようとした場合に取りうる選択肢は何か。
答えは一つ。
可能な限り納期を伸ばす交渉をしながら、やる気があって、仕事ができる奴と何かをどうにかする。
その条件を満たしうる環境と人物は……。
新しい企画については纏めずに、考えをまとめていると、滅多に鳴らないプライベート用の電話が鳴った。
さがら「わたりん、温泉行こ?」
わたり「何言ってだこいつ。馬鹿じゃねぇのお前。今ちょっと忙しいんだけど」
さ「行こ?」
話聞けよ。
よほど切羽詰まっているのか、電話口の相手にはまるで退く気配がない。
怖くて気持ち悪いと思ったが、ふと妙案が浮かんだ。
ある意味、この電話は渡りに船だ。俺が渡だから、相手はフネだ。つまり、俺は波平と言える。言えねぇよ。
俺は寂しくなった頭皮を撫でつつ、答える。
わ「……まあ、べつにいいけど」
さ「よっしゃよっしゃ。じゃあ宿とか予約しとくね」
わ「ん」
……計画通り。これで仕事はほぼ片が付いた。
そう思っていた時期が僕にもありました。
数日後、さがら総から温泉へ行く日程が送られてきた。
――おかしい。
どう見ても一部屋しか予約してない。さがら総は夜に山で寝るのかしら……。箱根の夜は冷えるっぽいから、こいつ凍死するんじゃないの?
いくら相手がちょっとアレでナニだとしても、さすがに凍死させるのは忍びないナイナイの内腔動物よっ!(スズコケムシとか)
なので、一応スズコケムシに確認しておくべきだろう。
わ「おいちょっと待て。部屋は別だよね?」
さ「え?」
わ「え?」
さ「一緒のつもりでいたけど。なんで?」
なんでってお前、若い男子が一つ屋根の下とかまずいだろ。それ心にダムがあるやつじゃん……。
それに俺は近くに人がいると集中できないタイプの人間なのだ。
ついでに言うと、さがら総と飯を食いに行くと朝までずっと付き合わされることが多々ある。帰りたくてこれ見よがしに欠伸をして見せても、なぜか向こうも潤んだ瞳でこっちを見てくる。怖い。
あいつは鈍感なのだ。たぶんラノベ主人公属性持ちなんだと思う。きっと口癖は「ったく、やれやれ。なんだってまた俺が……、勘弁してくれ……」みたいな感じ。
そんなさがら総と同じ部屋で過ごすなんて仕事が捗らないこと請け合い。
わ「あのさあ……」
さ「うん」
わ「……」
さ「……」
わ「……マジ別がいいんだけど」
そう言ったはずなのに、いざ宿についたら同じ部屋だったし、なんなら夕食後に部屋に敷かれていた布団はくっついてたまである。
ちゃんと言ったのに……。ンモー! この主人公属性さんめっ!
そんな過程を経て出来上がったのが『クオリディア』です。
HAPPY☆ENDには程遠く、それどころかENDにすら至らない、終わりの見えない労働地獄の幕開けです。