黒猫の水曜日

Special

第3巻発売記念! 特別書き下ろしSS

空腹の黙示録 Apocalypse Yummy

 少女の両股からわずかに力が抜け、大男の首が足の隙間から、すっぽ抜けた。巨体が人垣を飛び越えて吹っ飛び、賭け小屋の薄い壁を突き破り、外を流れるチャオプラヤ川の半分ほどまで飛んで、そこでやっと、黄土色の川面に叩き付けられ、派手な水飛沫をあげた。
 その場の誰もが、一瞬何が起こったのか理解できず、言葉を失った。
 やや間が空いて「サ……サーシャ!」と誰かが、その名を口にした。堰(せき)を切ったように、「サーシャ! サーシャ! サーシャ!」と拳を振り上げながら、男たちが少女の名を叫ぶ。
 賭けの親の小男が、少女――サーシャに札束を差し出した。しかし彼女は、フルフルと首を横に振って一言、「お腹すいた」と唱えた。ぐぅー、と喧騒のなかでも聞こえるほど、お腹が鳴った。
 ここぞとばかりに、ブルックリンは歩み出た。
「久しぶりですね、サーシャ」
「誰……?」
 また、首を傾げる。
「私ですよ! ほら、グアンタナモで会った! CIAの!」
「思い出した。ポテトの人だ」
「人を、ハムの人みたいに言わないでください! ブルックリンです!」
「ハム……食べたい」
 がくっ、とコケそうになるブルックリン。
「……まあいいですよ、ポテトでもハムでも」
 諦めて頭を垂れる。さすがのブルックリンも、彼女だけには敵わなかった。
「いいですか? よく聞くんです、サーシャ」口調を真面目なものに変える。
「ついにキミの出番がきました。あのときのポテトと、キミを生かしておいた恩を支払って――」言い切る前にまた、ぐぅ、とサーシャのお腹が鳴った。
「お腹すいた」
「………」
「お腹すいた……かも」うるうるとした目で見上げる。
「ああ、もう! わかりました! わかりましたよ!」と、連れてきたエージェントを水上マーケットへ走らせた。
「まったく……とんだ食いしん坊さんだ」
 ブルックリンは苦笑いで呟いた。


 数分後――ボートの上は、今にも沈むのではと不安になるほど、大量の食べ物で溢れかえっていた。それをサーシャが一心不乱に食い散らかしている。
「食べながらでいいので、話を聞いてください」とブルックリンが口を開いた。
「サーシャ、キミに任務を与えます」
「どんな?」と、よく熟れたマンゴーに食らいつきながら訊いた。
「敵の手に落ちた、とある施設を奪還してもらいたい」
「嫌だ」にべもなく断る。
 だがブルックリンは、「そう言うと思ってました」と落ちついた風に返した。
「もしキミが、この任務に成功したあかつきには、キミの願いを叶えてあげましょう」
「?」
 その提案にサーシャは、小さな頭を傾げた。
 ブルックリンは、歯型のついたマンゴーを両手に持った少女に、スマートフォンの液晶を差し出し見せた。途端に少女の目の色が変わり、今まで大事に持っていた果実を放り出して、果汁まみれの手でスマートフォンを鷲掴みにした。
「ああ……」とブルックリンは呟き、眉をしかめた。
 しかし当の彼女は、そんなこと微塵もお構いなしに、液晶に表示された人物に目を釘づけにされていた。そして心から嬉しそうに微笑み、「お姉さま」と呟く。
「キミの一番会いたがっていた彼女に、会えるチャンスです……どうでしょう、やってくれますよね?」
「うんうん」とサーシャは、細い首を縦にブンブン振った。
「よかった。きっとキミのお姉さま、ミソギ・シノハラも、再会を喜んでくれますよ」
 ブルックリンの言葉に、サーシャは、初めて年齢相応の少女らしくにんまりとほほ笑んだ。
 果汁塗(まみ)れの液晶には、ポニーテールの、凛々しい目つきをした少女の画像が、ぼんやりと表示されていた。

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