Special
空腹の黙示録 Apocalypse Yummy
《タイ王国/首都バンコク》
チャオプラヤ川は、タイの首都、バンコクの中心部を分断するように流れる主要河川だ。川では、ところにより、狭窄した川の両岸から、建物自体が張り出すようして立ち並ぶ市場――所謂、水上マーケットが形成されていた。狭い水路を、南国のフルーツを山積みにしたボートが行き交う。マーケット・ツアーの観光客を乗せた、細長い、派手な塗装の船も多い。
そのうちの一艘(そう)に、ひどく血色の悪い男の顔があった。
「本当に十二月でしょうか、こう暑くては……一刻も早く彼女をみつけなければ死んでしまいそうだ」
ブルックリンは、パタパタと帽子で顔を扇ぎながら呟いた。この時期のバンコクは、他の時期に比べれば、比較的穏やかな気候になるが、それでも最高気温は三〇度を超える。そして、暑さもさることながら、トラック用のディーゼルエンジンを船外機代わりに無理やり積んでいるボートは、そのスピードの対価として、波を超える度に、濁りきったカフェオレのような水飛沫を、これでもかというほど、ブルックリンの白いワイシャツに吹きつけていた。川面から立ち昇る生臭い臭気もまた、彼の不快指数を跳ねあげるのに、大いに貢献していた。
現地のエージェントが、船頭にタイ語で「あとどれくらいだ?」と尋ねた。浅黒い肌をした船頭が、船のサイズには不釣り合いな、巨大なディーゼルエンジンを操りながら、「もうすぐ、すぐ着く」と片言の英語で言った。
「このおじさん、さっきもそう言ってませんでしたか……?」
胡散臭そうな目を向けながら、ミネラルウォーターをごくりと飲んだ。
だが彼の言葉は、嘘ではなかった。まもなくボートは、川沿いの、人で溢れ返った小屋に横付けされた。ブルックリンが下りる間に、エージェントが船頭に一〇ドル紙幣を手渡すと、船頭は顔をくしゃくしゃにして「センキュー、センキュー」と繰り返し、それから人でごった返した小屋のなかを指差した。
「女の子、いる! すごく、強い!」
「はいはい、わかりました」
ブルックリンは適当に返して、一度ひどく嫌そうな顔をしてから、人波に割り入った。
小屋のなかは、むくつけき男たちの熱気が充満していた。賭けが行われているらしく、男たちが札を握りしめて、なにかしら口々に叫んでいる。背の低い男がそれを囃(はや)し立てながら、深い麦わら帽子に札束を集めていった。
ブルックリンは背伸びをして、人垣の中心に目をやった。
わずかに、少女のきめ細かい銀髪と白い肌が見えたような気がした。
彼は、「ちょっと失礼(ソーリーソーリー)」と人混みを掻き分け、目の前に現れた光景に、片眉をひきつらせた。
濃い黄色の法衣を身に纏った幼い少女が、地面に胡坐をかきながら、トムヤムクン――しかも鍋に入った本格的なもの――を、一心不乱に食していたのだ。そりゃ、驚かないほうがどうかしている。
そのとき、少女の前の人垣が割れ、浅黒い肌をした、筋骨隆々の大男が入場した。ぼさぼさの長髪を後ろでまとめ、分厚く隆起した大胸筋にはコンドルをあしらった、丸太のような両腕にはポリネシア系の部族を想起させる、トライバル様の刺青が彫られていた。大男は両の拳に、細長いぼろ布をきつく巻きつけた。
そしてにわかに、大男は、トムヤムクンを食す少女の前で、平然とワイクルーと呼ばれるムエタイの試合前に行われる儀式をはじめた。
一方はトムヤムクンをかき込み、もう一方はワイクルーを踊る。
その光景や――なんと珍妙奇天烈なことか!
ほどなくして大男のワイクルーが終わり、少女がトムヤムクンを食べ切り、カーンッ、とゴングの音が鳴り響いた。
大男が、少女をギロリと睨みつけ、両の拳を構えた。
それを尻目に少女は、ゆっくりと箸を置いて立ち上がり――まさに「きょとん?」というように首を傾げた。
馬鹿にされたと思った大男は、顔を真っ赤にしながら、少女の顔面に強烈なストレート・パンチを放った。
しかし少女は、いとも容易く上半身をそらして避けると、相手の腕を掴んで飛び上がり、上下が逆さまになった体勢で、両の太ももで、大男の首をホールドした。
その状態から少女は、股に挟み込んだ相手の首を軸に、勢いよく横回転しながら、大男を投げ飛ばした。少女の繰り出したそれは、メキシカン・スタイルのプロレス、ルチャ・リブレなどで使用されることの多いコルバタという技だったが、もちろん、彼女がそれを知っていて使用したとは思えない。
ただ本能の赴くまま、身体が動くままに、自然とこの技を繰り出したに過ぎなかった。
大男が、為す術もなく堅い地面に叩きつけられる――と思われた瞬間、にわかに少女の腹が、ぐぅと鳴った。
この少女にとって鍋ひとつでは、まだ足りなかったのだ。