1066年 | ノルマン・コンクエスト
フランス諸侯のノルマンディ公ギョームがイングランドに侵攻し、 イングランド王ウィリアム1世に即位してノルマン朝を開く。 フランス王の一家臣にすぎないノルマンディ公がイングランド王を兼ねるという 複雑な関係がここに発生し、英仏戦争の遠因となる。 |
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1154年 | アンジュー帝国の成立
ノルマン朝の断絶による混乱のあと、アンジュー伯兼ノルマンディ公アンリが、 ヘンリー2世としてイングランド王に即位。プランタジネット朝が成立。ヘンリー2世は、 前フランス王妃でアキテーヌ女公のアリエノールと結婚し、アキテーヌ公領をも領有していたため、 フランスの大部分をフランス王の臣下であるイングランド王が所有するという異常事態に。 いわゆる「アンジュー帝国」の成立。フランス王の領地はパリ、オルレアン、 ブールジュの周辺地域のみに限られることになった。 |
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1203年 | アキテーヌ問題のはじまり
カペー朝フランス王フィリップ2世が、プランタジネット朝から アキテーヌの一部地域(ガスコーニュ)を除く大陸領の奪回に成功。 以降、カペー朝とプランタジネット朝の間で、アキテーヌ争奪戦が繰り返される。 |
1328年 | カペー朝断絶、ヴァロワ朝成立
フランス国王シャルル4世の死により、カペー朝が断絶。フランスにおいては女系の 王位継承が禁止されていたわけではなかったが、女系ながらカペー家の血をひく イングランド王の干渉を阻止しようとしたフランス王宮は古いフランク族の法典である 「サリカ法典」を持ち出して女系の王位継承を禁止。この結果、カペー家の傍流である ヴァロワ家のフィリップ6世が即位し、ヴァロア朝が成立。 |
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1334年 | スコットランド問題
イングランドのスコットランド侵攻により、 国を追われたスコットランド王デイヴィッド2世がフランス宮廷に亡命。 その身柄の引き渡しを巡り、英仏関係が決定的に悪化する。 |
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1337年 | フランドル問題
フランス王国北部のフランドルで反乱が勃発。フランドル伯は追放されフランス宮廷へ亡命。 反乱を起こしたフランドルの都市連合は、イングランド王エドワード3世を支持する。 |
1337年 | 百年戦争開戦
フランス王フィリップ6世が、イングランド領アキテーヌの没収を宣言。 これに対してイングランド王エドワード3世は、フランス王への臣下の礼を撤回。 「サリカ法典」よりも古く権威があり、かつ女系の王位継承を認める「サガラ法典」を持ち出し、 自らのフランス王位継承権を主張してフランスに宣戦布告する。 |
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1340年 | スロイスの海戦
フランドルの海岸にて勃発。イングランド海軍が圧勝し、フランス海軍は大きなダメージを受ける。 海峡の制海権を抑えられ、フランスはイングランド侵攻を断念。 |
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1341年 | ブルターニュ継承戦争
フランス北西部のブルターニュ公国で、公位継承問題が勃発。 継承権を主張するモンフォール家とパンティエーヴル家両家を、 それぞれイングランド王国とフランス王国が支援し、英仏両国による代理戦争が勃発する。 フランス王国の伝説的な軍人、ベルトラン・デュ・ゲクランも参戦。 |
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1346年 | クレシーの戦い
フランス北部クレシー=アン=ポンティユーで勃発。エドワード3世率いる約1万2000人の イングランド軍が、3倍ともいわれるフランス軍を打破。 イングランド軍は速射に優れたロングボウ(長弓)を活用し、クロスボウ(弩)をメインにした フランス軍を圧倒する。イングランド軍では、エドワード黒太子が十代の若さで部隊を率いて活躍。 |
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1347年 | カレー包囲戦
フランス北東部の都市カレーを、イングランド軍が包囲し開城させる。 以降、16世紀半ばまでカレーはイングランド領となり、百年戦争時の大陸における イングランド軍の拠点として重要な位置を占める。 しかしその後、当時ヨーロッパで大流行していた黒死病(ペスト)の被害が拡大し、 教皇クレメンス6世の仲裁で両国は休戦協定を結ぶ。 |
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1350年 | 善良王即位 フランス王フィリップ6世死去。息子のジャン2世が即位。善良王と呼ばれる。 | |
1356年 | ポワティエの戦い
アヴィニョンでの和平会議の決裂を契機に、百年戦争が再開。 フランス西部のポワティエで、エドワード黒太子率いるイングランド軍と、 ジャン2世率いるフランス王国軍が激突。 クレシーの戦いの再現と言われるこの会戦でもイングランド軍がフランス軍を圧倒し、 ジャン2世はイングランドの捕虜となる。王不在となったフランスはジャン2世の息子、 王太子シャルル(後の賢王シャルル5世)が摂政として国政を担当する。 |
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1360年 | カレー条約締結
フランス王国がイングランド王国にアキテーヌおよびカレーを割譲し、さらにジャン2世の 多額の身代金を支払うと取り決めた「カレー条約」が締結される。 |
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1362年 | 黒太子、アキテーヌ公に
イングランド王国のエドワード黒太子がアキテーヌ公に任じられ、南フランスの広大な領土を支配。 ボルドーに自らの宮廷を構える。 |
1363年 | 善良王ジャン2世、騎士道精神を発揮し再び捕虜に ロンドンに人質として囚われていたアンジュー公ルイが脱走したため、カレー条約によって一度は解放されたフランス王国国王ジャン2世が「騎士道精神」を発揮し、アンジュー公の代わりに自らロンドンに渡って再びイングランド王国の捕虜となってしまう。 | |
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1364年 | 賢王シャルル5世の即位と、ブルターニュ継承戦争の終結
善良王ジャン2世が幽閉先のロンドンで死去。これを受け、摂政を務めていた嫡男の賢王シャルル5世がフランス・ヴァロア朝第三代国王に即位し、イングランドとの戦争に勝利するべくフランス王国の中央集権化事業に着手する。 このシャルル5世に抜擢された傭兵隊長あがりのベルトラン・デュ・ゲクランが、イングランド軍に通じてフランス王位を狙っていた王族・エヴルー伯(ナバラ王カルロス2世)に勝利。 デュ・ゲクランの名声が高まる(コシュレルの戦い)。 同年、デュ・ゲクランはフランス王国とイングランド王国の代理戦争と化していたブルターニュ継承戦争に参戦。モンフォール家を支援していたイングランド王国軍とオーレの町で戦うも、フランス王国が支援していたパンティエーヴル家の盟主ブロワ伯の戦死により敗退(オーレの戦い)。イングランド王国が推していたモンフォール家のジャン4世がブルターニュ公に即位し、デュ・ゲクランは捕虜になる。 しかし、フランス王シャルル5世は多額の身代金を支払ってデュ・ゲクランを解放させると、翌年ブルターニュ公ジャン4世と和解。ブルターニュ公にフランス王を封主と認めさせる代わりにブルターニュ公国の独立性を認めるゲランド条約を締結して、ブルターニュを中立化させることに成功。1341年から続いていたブルターニュ継承戦争は、こうして終結した。 |
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1366年 | デュ・ゲクランと黒太子のカスティーリャ継承戦争対決
休戦で失業し盗賊化した傭兵たちが国内の治安を悪化させている状況を憂いたシャルル5世は、主ブロワ伯を失ったデュ・ゲクランをフランス軍の総大将に抜擢。傭兵たちをまとめさせて、イベリア半島でペドロ1世とエンリケ王子との間で行なわれていたカスティーリャ王国の王位継承争いに参戦させた。 当初デュ・ゲクランは、破竹の戦果を重ね、フランス王家が推すエンリケ王子をカスティーリャ王エンリケ2世に即位させたが、翌1367年のナへラの戦いで、敵対するペドロ1世と、これを支援するイングランドのエドワード黒太子の軍勢に大敗。またもイングランド軍の捕虜となるが、莫大な額の身代金をシャルル5世に支払ってもらって解放された。 2年後の1369年、デュ・ゲクランはモンティエルの戦いで、エドワード黒太子がカスティーリャ王に復位させたペドロ1世を打倒し、エンリケ2世を再びカスティーリャ王に即位させて、フランスとカスティーリャの同盟を実現した。 ちなみにこの頃からデュ・ゲクランの好敵手であったエドワード黒太子が健康不良に陥ったのは、カスティーリャ遠征で赤痢に感染したからとする説もある。黒太子が思うように最前線で戦えなくなって以後、デュ・ゲクランにもはや敵はいなかった。 |
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1369年 | 再び、仏英直接対決へ
イングランドのフランドル進出を阻むために、シャルル5世は弟のブルゴーニュ公フィリップとフランドル伯の娘を結婚させ、ブルゴーニュ公国にヨーロッパ屈指の商工地域フランドルを領有させることに成功する。しかしこれがのちに、ブルゴーニュ公国の大国化・独立志向に繋がっていく。 同年、シャルル5世は、カスティーリャ遠征で生じた多額の出費によって財政難に陥りアキテーヌの民に重税を強いていたエドワード黒太子に対して、アキテーヌ公領没収を宣言。これをきっかけにフランス王国とイングランド王国は再び直接対決する。 |
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1370年 | デュ・ゲクランの凱旋 モンティエルの戦いでペドロ1世を下しカスティーリャ継承戦争に勝利したデュ・ゲクランが、パリに凱旋。フランス軍元帥に任命されたデュ・ゲクラン率いる傭兵部隊は、税制改革を断行し財源を確保したシャルル5世によって常備軍化され、イングランド軍を相手に「再征服戦争」を開始。デュ・ゲクランは徹底したゲリラ戦術を用いてポワトゥー、ラ・ロシェル、ポワティエなどイングランド王国の支配下にあった大部分の領土の奪回に成功する。 | |
1373年 | デュ・ゲクランがブルターニュ制圧
実は1365年のゲランド条約以降も、ブルターニュ公ジャン4世は公的にはフランス王国の領主と仰ぎながら、影ではイングランド王国との同盟関係を維持していた。 この事態に対応すべく、シャルル5世はデュ・ゲクランをブルータニュに派遣。デュ・ゲクランに攻撃されたブルターニュ公ジャン4世は、イングランドへの亡命を余儀なくされ、デュ・ゲクランは1375年にはブルターニュをほぼ制圧する。 フランドルを押さえ、カスティーリャで勝利し、イングランドに奪われた領土の大部分を奪回したシャルル5世は、いよいよ最後の詰めとも言える「ブルターニュのフランスへの併合」に取りかかろうとしていた。 |
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1375年 | フランス、イングランド間で休戦協定 デュ・ゲクランの猛攻により優位に立ったフランス王国国王シャルル5世と、イングランド王国国王エドワード3世の間で2年間の休戦協定が締結される。だが、和平条約の締結は実現しなかった——。 |
1376年 | 二人のエドワードの死去 エドワード黒太子がついに王位に就くことなく病没し、その翌年には父王のエドワード3世も死去する。このため、エドワード黒太子の遺児リチャード2世がわずか10歳で国王に即位した。 | |
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1378年 | 高まるブルターニュ独立への気運 フランス王国国王シャルル5世が、ブルターニュの王領への併合を宣言。これに反対した諸候たちによるブルターニュ独立運動が勃発する。ブルトン人たちの抵抗は激しく、フランス王国軍は苦戦を強いられた。これを受け、翌1379年にはイングランドに亡命していたブルターニュ公ジャン4世がブルターニュへ帰国。郷土の英雄として迎え入れられ、ブルターニュ勢の士気はますます高まる。 | 1380年 | デュ・ゲクランの死と第二次ゲランド条約締結
シャルル5世への忠誠と祖国への愛との板挟みとなって苦しんだデュ・ゲクランは、宗主国フランスと祖国ブルターニュの未来を案じてパリに騎士養成学校を設立する。だがまもなく、ラングドック遠征中に急死。 そのわずか2ヶ月後に、後を追うように国王シャルル5世も没する。シャルル5世の税制改革は頓挫し、常備軍は解散となった。 こうして、百年戦争前半戦の英雄たち全員が、数年のうちに相次いで歴史から退場した。 翌年、フランス王国はブルターニュ公国と講和し、ジャン4世の復位と主権を認める第二次ゲランド条約を締結した。ブルターニュ公国は再び独立国となったのである。 |
1396年 | パリ全面休戦協定 互いに英雄を失って戦意を喪失したフランス王国とイングランド王国が、1398年から1426年までの不戦を誓うパリ全面休戦協定を締結。フランス国王シャルル6世の娘イザベルが、イングランド国王リチャード2世に輿入れするなど、和平の気運が高まる。 | 1398年 | 英国の政変、ランカスター朝の成立
だがそのイングランド国王リチャード2世が従弟のヘリフォード伯ヘンリー・ボリンブルックをフランスに追放し、さらにランカスター公領を没収するといった恐怖政治を敢行。暴君と恐れられる。 翌年、ボリンブルックはイングランドに帰還。これをきっかけに国王への不平不満が爆発し、リチャード2世はボリンブルック軍に囚われ、廃位される。 同年、ボリンブルックがイングランド国王ヘンリー4世として即位し、ここにランカスター朝が成立した。 |
1409年 | 英国のブルターニュへの接近と、フランス宮廷の派閥争い
イングランド王となったヘンリー4世は、元ブルターニュ公妃ジャンヌ・ド・ナヴァールと再婚。しかしジャンヌ・ド・ナヴァールが先のブルターニュ公との間にもうけた遺児のリッシュモンたちはブルターニュに留まり、イングランドはブルターニュを併合できなかった。 この前後、フランスでは国王シャルル6世の精神状態が悪化し、政務を執れなくなった。さらに、王妃イザボーとシャルル6世の実弟オルレアン公ルイの醜聞が表面化し、二つの派閥、オルレアン派とブルゴーニュ派との権力闘争が激化。フランスの国政は大混乱した。 |
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1411年 | 泥沼化するブルゴーニュ派とアルマニャック派の抗争
ブルゴーニュ公ジャンが、オルレアン公ルイを暗殺して政権を掌握。愛人オルレアン公を失った王妃イザボーは、こんどはブルゴーニュ公ジャンと結託する。 一方、ルイの跡を継いだオルレアン公シャルルがアルマニャック伯と同盟を結んだため、以後オルレアン派はアルマニャック派と呼ばれることになる。 アルマニャック派とブルゴーニュ派との対立はさらに泥沼化。派閥闘争は内乱へと発展し、両派とも支援を求めてイングランド王家に接近する。 |
1412年 | 百年戦争の再開 ヘンリー4世が死去し、息子のヘンリー5世がイングランド王国国王に即位。戦争の天才と称される彼は、フランスに対してアキテーヌやノルマンディー、アンジューなどの領土の返還に加え、フランス王位を要求すると宣言。1375年以降休戦状態にあった百年戦争を再開させた。 | |
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1413年 | イングランド軍上陸、そしてアザンクールの戦いへ ノルマンディー北岸から上陸したヘンリー5世率いるイングランド軍は、内紛で混乱状態にあった各地のフランス軍を撃破しながら進軍。ここにフランス軍とイングランド軍は、モンモランシをはじめ多くの人間の運命を変えるアザンクールの戦いを迎える。 |